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第18話

 吹田は電話をとり、相手が黒田と知ったとたん鼓動がドキドキ鳴りはじめたことに赤面した。自分の中から黒田を追い出すという作業は遅々として進んでいなかった。声を聞いただけだと言うのに、大きすぎる存在が居座っている証のような身体の変化に戸惑いつつ、一瞬先に目の前が暗くなる。「東京に戻る」という言葉によって。  いよいよ黒田との間に物理的な距離が立ちふさがる。月1度の面会もこれで終わりになり、たぶんもう逢うこともない。だから急いで車を飛ばしている。  強い風に煽られて、枯れたカラマツの葉が時折吹雪のように視界を横切る。湿った空気をはらんだ砕けた葉の残骸がフロントガラスにへばりつく。ワイパーで視界を確保しながら吹田は考えていた。キャトルではこうはいかない、この細かい不純物を取り込んでしまったら、黒田の所に行きつく前にエンジンが止まっていた可能性がある。  肝心な時に頼りになるのは面白味がなくても優等生で、車も人間もそれほど差がないのかもしれない。その馬鹿馬鹿しい考えに吹田の口から「ハハ」という乾いた笑い声が漏れ出た。 カランカラン  店のドアを開けると、吹田は知らない男の姿を認めた。自分とそれほど変わらない年齢、第一印象は「冷たい」だった。抜けるように白い肌に綺麗に通った鼻筋と薄い唇がそう思わせるのか。いや、違う……目だ。漆黒の黒目がすべてを見透かすように濡れている。怖いと思った。  黒田は厨房の中にいるようで音がしている。吹田はこの知らない男に挨拶をするべきか悩んだが、完全にタイミングを失ってしまっている以上当たり障りのないものにするべきだろう。  吹田の選択は軽い会釈。相手の男も無表情に会釈を返してきた。ピリピリと放電された何かが全身に刺さるような気がする。ここに居てはいけません、そう言われているようなオーラ。 「黒田さん、出ていくというのは?」  ようやく声を出した吹田は黒田の返答を待った。ガサガサしていた音がやみ、カウンターから黒田の顔がのぞいて、吹田はホっと息を吐く。 「すいません、仕事の呼び出しで。今日東京に戻らなくてはなりません。片付けと掃除はしましたが、なにぶん急な事ですので、これを」  黒田が差し出したのは月に一度吹田がここに来る理由になっている家賃が入れられた封筒と同じものだった。 「ええと、これは?」 「来月分はお支払します。清掃もあるでしょうし、慌ただしい時期で借り手はそうそう見つからないでしょうから、敷金の返金も結構です」 「いえ、そういうわけにはいきません」  出ていくのは現実だと、ようやく吹田は納得した。黒田が言っているのは、面倒がないよう支払って済ませてしまいましょうということ。金で解決するのが一番手っ取り早い、そう言われたような気がして吹田は少し腹立たしい気持ちになった。 「今日夕方の便で東京に飛びます」  畳み掛けられた。なす術はない、引き留めようにも理由がない。吹田はずっと理由がない事を言い訳にして黒田との接触を最低限に抑えて気持ちが増幅するのを防ごうと躍起になっていた。顔を合わせる理由、それと同じくらいに行かないでくれと言う理由もない。さっきまで腹立たしいと感じていたが、今度はバカバカしくて笑いたくなった。 「このカレーは冷凍してあります。レンジだと4分ほどで温まります。鍋で温めてもいいですし都合のいいようにしてくれればいい。食べきれなかったら近所に配るなり捨てるなりしてくれて構いません」  捨てる?黒田の作ったものを捨てる?そんなことできるわけがない。一口一口味わって食べている自分の姿を簡単に想像できる。最期の一袋を食べてしまってから、自分の中に入り込んだ黒田の存在を追い出しても遅くない。物理的距離に加えカレーもなくなれば、また一人に戻れる、そう吹田は考えていた。 「いただきます。ありがとうございます。ここの設備や備品は置いていかれるのですか?」 「ええ、もう自分には必要ありませんから、居抜きで貸し出せばいいかと」 「はあ……そうですね」  受け取ったカレーがのったトレイはそれなりの重さだった。その上にそっと封筒が置かれる。両手でトレイを持っている吹田はそれを突き返すことができなかった。完全に黒田のペースですべてが進行している。  吹田は互いの指先がわずかに触れた瞬間黒田の顔を見た。そこにいる黒田は月に一度会う男と何かが違っている。一回り大きくなったような、何かが漲っているような、吹田には見分けることのできない何か。  一体黒田になにがあったのだろう……この男か?  トレイをテーブルに置くために男に顔を向けた吹田は、見ていることを隠そうともせず自分を観察する視線に面食らった。黒田ほどではないが、この男も底に何かを持っている。それは吹田が一生手に入れることのない何かだ。目を逸らすのは癪にさわるので、思い切り見返すと、男の雰囲気がいっきにほどけてフワと笑顔を返されてしまう。  勝負にならない、吹田は心の中で白旗をあげた。 「今までありがとうございました」  もう用は済んだ、そう言っているのと同じですよ黒田さん。吹田はそれを口にはださなかった。誰にだってプライドはある。店子が一つ急にとんだだけだという振りをするぐらい許されるだろう。 「これは頂いておきます」 「ええ、そうしてください」  吹田がトレイを持つと黒田が厨房から出てきた。 「ドア、開けますから」 カランカラン  黒田の手でドアは開き、ドアベルが鳴ると同時に冷たい外気が雪崩れ込んできた。15:00をすぎれば夕刻一歩手前で16:00には外は真っ暗になる。どんどん気温が下がりはじめる時間帯は黒田の顔にも影を落としていた。吹田はぼんやり思った、これが最後に見る顔かと。 「黒田さん、最後に聞いていいですか?」 「なんですか?」 「こんな長期間離れていたのに突然呼び戻されるなんて、いったい何の仕事をされているのですか?」  黒田は一瞬考え込んだ後、愉快そうに顔を緩めたあと、とびきりの笑顔で答えた。 「殺し屋です」  吹田は唖然としたあと、完全にバカにされたことに本気で腹が立った。会社員という答えでいいじゃないか、どこまで子供扱いすれば気が済むと言うのか。  それとも自分の気持ちが既に黒田に筒抜けで、こんな戯言でシャットアウトしているつもりなのかもしれない。何れにしても相手にされていないということだ。それは百も承知だったというのに吹田は落ち込んだ。こんなことになるから恋は余計なのだ、幸せになる鍵でもなんでもない。 「それでは、さようなら」 「吹田さん、お元気で」  吹田は振り返らなかった。カレーを助手席に置いてから運転席に座る。乗っている車が国産の優等生でよかった。これがキャトルだったら、泣いていただろう。  エンジンをかけるためボタンを押す。ほらな、こんな電気制御の車は何もしてくれやしない。キャトルのエンジン音とキーを思い出しながらパーキングからドライブにチェンジし車をスタートさせた。  黒田から離れるために……自分の想いから逃れるために。

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