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第17話

「あとは全部大家に頼む」  黒田の荷物はスーツケース1つだけだった。衣類はすべてごみ袋に入れられ100mほど先のゴミステーションのBOXに捨てられた。洗剤や日用品もすべて処分にまわり、残ったものは厨房の道具と食器だけ。  家具はベッドしかなく、寝具はすべて切り刻まれてゴミに化けてしまった。  スーツケースの中身は仕事道具が大部分で、必要なものは「その都度揃える」という明確な答えが返ってきた。何事も身軽でいることが大事ということを教えられているような気がして、琴巳は住んでいる部屋を思い浮かべて顔をしかめた。あそこには物がありすぎる、もっとシンプルにしなければならない。 「こんなことになるならカレーを仕込む必要はなかったな」  独り言のように呟き、黒田は電話の子機を握りダイヤルしはじめた。大家とやらに電話をするらしい。 「こんにちは、黒田です。実は東京に戻らなければならなくなりまして、ここを出なくていけないのです。 中はもうすべて片付けました。それでカレーが沢山ありまして、吹田さん貰ってくれませんか?捨てるのももったいないので」  その後二言三言言葉を交わして電話を置いた黒田は、ようやくイスに座った。窓に面したカウンターから外を眺めている。まもなく窓際に野鳥が姿をみせ、窓ガラスをコツコツ叩きだした。 「ヒマワリをやっていなかった」 「ヒマワリ?」 「そうだよ、私が彼らの食事の面倒を見ていたのだ。でもそれも今日で最後だな。厳しい冬を越す手伝いができないのは申し訳ないよ」  そう言いながら立ち上がり出て行った。野鳥の面倒を見ることが、この環境に獲り込まれない方法のひとつなのだろうか。そんなことを考えたが、それに答えは返ってこなかった。  窓の外では黒田が鳥籠の中にたっぷりのヒマワリの種を入れたあと、まだ中身が残っている袋を見詰めている。おもむろに向きを変え、ガレージに向い戻ってきた時は大き目のステンレスのザルを持っていた。  ザルにヒマワリのすべて入れてから塀の上に置く。その姿を見ながら琴巳は不思議な気持ちがした。動物に興味を持っている素振りは見たことがなかったし、そんな話をしたこともない。年月は人を変えるのだろう、自分だってあれほど苦手だったコーヒーが飲めるようになったぐらいだ。  戻ってきた黒田は、またカウンターに座る。人差し指で隣の場所をトントンと叩いたから座れという意味だろう。大人しく隣に座った琴巳は、朝答える事のできなかった林の姿を眺めた。 「道路からすぐ林になっているように見えるが、近くに行くと間に沢がある。平坦だと思い込んで踏み出すと転がることになり、マイナス1だ」 「ええ、わかります。それに谷内坊主がてんてんとしています。水捌けが悪い草地ですか?」 「林はまったく問題ないが、沢周辺はグズグズだ。膝まで埋まるぐらいだから、固い地面だと思い込んで踏み出すとマイナス2、この時点でアウト。谷内坊主を知っているとは意外だな」 「少し前にたまたまテレビで見たからです。湿原に自生する変わった形の植物だったので記憶に残っていました。湿原のように広い場所にしかないかと思っていたら、こんなところにもある」 「もうこれで琴巳は窓の外を蔑ろにすることはないだろう。今後は人工物以外にも注意を払い観察することになる。もう試すようなことはしない」  鳥籠に野鳥が群がりヒマワリの種を咥えては飛び去って行く。そしてまた舞い戻り同じ作業を繰り返す。枝にとまってヒマワリの殻を割り食べていく種類もいる。すべての野鳥が同じ行動をしているわけではなかった。野鳥や谷内坊主が今後どう自分の経験になっていくのかわからないが、意味のあることなのだろう。黒田が無駄なことをするはずがない。 「日々退屈ではなかったが、気を紛れさせる事が難しくなってきた。この鳥たちを眺めていると無心になれるから随分助かったよ」 「紛れさせる?何をですか」 「大家が琴巳と同じくらいの歳だからかもしれない。月に1度しか逢う事がないのに、彼を見ると自分の中に燻っている正体に向き合うはめになる。こんなものを抱えて生きているのは実に面倒だと考えるが、その先にそれを改める」 「どういうことですか?」 「忘れたくないと、そう言いだすもう一人の自分がいるからだ」 「俺を忘れたくない。そう思っていてくれた……と?」 「私も、もう一人の私も」 「……柾さん」  勉強が始まったとおもえば、飴のような甘い告白。琴巳はここに来てからずっと黒田のことしか考えられなくなっていることに気が付いた。黒田を見詰め、声を聞き、指先で触れて存在を確かめる。見つめられて名前を呼ばれ、抱きしめられる。その繰り返しの中にあっても瞬時に切り替えることができるのか。  黒田の言うように「私情」を武器にするのなら、自己の確立は必要不可欠だ。そして切り替えも。甘い飴に全身が包まれていれば俊敏な動きはできない。しかしドロドロに溶けた飴を瞬時に冷ましてとがらせることができれば武器となり、自分の引き出しが増えることは間違いない。  黒田の存在にどっぷり浸かりながらも自分を見失わなければいいのだ。たぶん、これも黒田の教育に違いはなく、今後も表面上は甘やかされるのだろう。しかし黒田はそんな甘い男ではない。  琴巳は改めて気を引き締め、窓の外の様子を観察し続けた。今日はコルトレーンが流れていないから音にも神経をとがらせる。ああ、だからBGMの音量が絞られていたのだ。 「聞こえたか?」  黒田がゆっくり立ち上がる。 「はい、坂を上ってきますね。あの音はハイブリットです」 「上出来だ」  合格のしるしに琴巳にニヤリと笑って見せた後、黒田は冷凍庫の中にしまってあったカレーをトレイに並べ始めた。

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