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第16話
午後から黒田の動きは慌ただしいものに変わった。店舗を綺麗に掃除し、厨房を磨き上げた。冷蔵庫の中身をごみ袋に入れ空っぽにする。カトラリーは種類別に箱にしまい、食器の横に置かれた。
「この調理道具はどうするのです?」
「置いていくさ。もうここに戻ることはないから、次に借りる人間が使えばいい」
黒田は仕事が片付いたあと、料理ばかりして時間をつぶす男だった。黒田の過去は知らないし、聞いたところで教えてくれるかわからない。百貨店にいる時点で、普通の生活を送っていたにせよ、真逆だったにせよ、過去を懐かしむ意味はなくなる。「決してそこには戻れないのだから考えなくなるものだよ」黒田がそう教えてくれた時のことが何故か思い出された。
もうここに戻ることはない、黒田の言うとおり去った場所に舞い戻ることはない。それにしばらくはアンジェリカを相手に時間を過ごすことになる。料理はしばらくお預けだろう。
店舗が終わったあとは床に積み上げられている本をダンボールに入れる事を命じられた。「古本屋に寄付するさ」黒田はそう言って伝票に宛先を書き、運送屋に集荷依頼をした。そのまま水回りを掃除しにいったから、琴巳は床に腰を下ろしてせっせと本の箱詰めにとりかかる。週何冊のペースで読んできたのか、その本は結構な数だった。ジャンルも多岐にわたっており、仕事の為に読んでいたわけでもなさそうな小説もたくさんある。
詰め終わった頃、黒田はゆったりとしたリネンのパンツを履いただけの姿でリビングに戻ってきた。肩からかけたバスタオルと塩素の匂い。無駄な肉はついていない、見せる為の無駄な筋肉もない。平でわずかに腹筋の筋がついたしなやかな腹部と、ゆるく腰紐で腰にひっかかっているパンツのウエスト部分からのぞく腰骨のライン。そこから目が離せなくなってしまった琴巳は動作のすべてが止まった。
「水回りは全て終わった。あとはこの部屋だけだ。他の部屋は使っていないから……琴巳?」
黒田の声にハっとして琴巳は俯いた。歳を重ねて黒田は想像していたよりもずっと良くなっていた。表現するにはもっといい単語があるのかもしれないが、思い浮かんだのは単純な「良い」というもので、その直接的な言葉に顔が赤くなるのがわかる。
昨日も今朝も目にしたというのに、自然光をうけて何気ない姿勢で立つ姿はウットリするほどだった。
黒田が近づく気配がするが、顔をあげることができない。自分の前にしゃがみ込む黒田のつま先が見えた。
「琴巳」
ただ呼ばれただけだ、名前は何度も呼ばれたはずだ。狼狽えたのは最初だけだ、今は違う。単なる名前であって何千回も呼ばれた馴染みある音でしかない。そうだ、これは音であって自分に影響を及ぼすものではない。
呪文のように唱え、底から湧き上がってくるものを懸命に飲み下す。いちいち、こんなことで動揺しているようでは見限られてしまう。その考えに及び、ようやく琴巳は詰めていた息を吐きだした。
「すいません。大丈夫です」
琴巳の前に足を広げて座り込んだ黒田に引っ張られ、胸の中に囲われる。この場所には深い水があって、そこに入れば何も怖くない、何も。
「触れたい時に触れてもいい。見たければ見ればいい。わたしもそうするから琴巳も遠慮することはない。
私情が厄介だといったのはこういうことだ。自分を制御するには大きなエネルギーとメンタルが必要になる。
琴巳がこの「私情」を武器にするというなら、私の上をいくメンタルを持て」
返す言葉がない。
「私は優先順位を大事としてきた、その優先とは完遂だ。だから何があっても結果をまず求める。不具合が生じても、結果を優先する。今のうちに言っておく、琴巳が囚われるようなことになっても私はターゲットを優先するぞ。何故なら案件においてパートナーの安否は最優先項目ではないからだ。仕事をしているときの私はそういう人間であるし、今後も変えるつもりはない」
承知している。それは覚悟の上だ。そうだとしても言葉に出して直接言われるのと、自分の中で納得するには大きな隔たりがある。
黒田との能力の違いは二人の心の隔たりになるのではないか?その疑問はまた再び別の道を進むことになるかもしれないという恐怖を生む。黒田の腕に力強く抱かれているというのに、琴巳はぶるりと震えた。
「だから、そんなことにならないよう、私のすべてを琴巳に叩き込む。私情に関して私は何の反論もしなかったが、今実感しただろう?制御不能になり選択肢を誤る。それはすなわち私たちの別離につながるということだ。選択を誤らないために優先順位があり、それを頭に思い浮かべれば自分がするべきことが自然にわかり身体が動く。まだわからないかもしれないが、頭では理解できるか?」
「わかりすぎるほどに。柾さんを見て動けなくなりました。何も考えられなくなった。
これが仕事場であれば、生き残ることは不可能です」
「その通り。メリハリだ。自分の中にいるもう一人の自分を客観視できる人間に仕上げろ」
「もう一人の自分?」
「そうだ、何か疑問がわく。それに答える存在があるだろう?自分の中に」
「ああ……わかります」
「その一人を皮肉屋で冷めた男にする。自分がコントロールできなくなったら、もう一人の自分になれば切り抜けることができる。馴れればどうということはない。これは二重人格でもなんでもない。どれも自分であり、役割分担を整理するだけのことだ。
メンタルを鍛えるということの意味を理解する人間は少ない。特にこの業界においては。
これは私が実践してきて何度も助けられた大事な術だ。だからまだ私は生きている。
だから琴巳、お前ならできる。もう一人の自分をまず探りだし、つねに疑問に答えたり、独り言の返事をしたりといった人格を仕上げる。
それができれば私情も武器になるだろう。
前のように、「お勉強です」それを合図に始める教え方はもうしない。琴巳にとってベストのタイミングで叩きこむ、そのために私はつねに観察を続ける。私に見られることに馴れろ、そして見ることにも」
「……はい」
「ついでだからキスぐらいはいいだろう」
ニヤリと悪戯っぽく笑った黒田の顔が近づいてくる。琴巳は目を閉じて迎え入れた。
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