15 / 19

第15話

 身体が包まれる温かさとともに琴巳は目を覚ました。カラスの鳴き声と聞いたこともない鳥の声が締め切られた窓の外から僅かに聞こえてくる。葉がまばらについている木々が立ち並ぶ林は見るだけで体感温度を下げるような寂しい眺めだった。  都会にある喧騒と明るさ、建ち並ぶ建造物にはエネルギーが満ち、生産という作業をこなす多くの人間が生きている。それこそが生きる場所だと疑いもしなかったのに、この窓の外には何かが存在していた。四季によって変わっていく姿を1年以上眺めていたら、今とは別の考え方が生まれるかもしれない。  琴巳はここに「住む」ということの意味を考えた。  これほど無防備に寝入ったことは記憶にある限り中学を卒業するまでの事だ。留学したあとは緊張とともに生活することが自分を守ることだと教えられ、百貨店に入店しても基本は同じだった。  黒田の傍にいた時も同様で、つねに背後と自分のおかれた状況に神経をとがらせていた。眠りはつねに浅く、わずかな物音でも目を覚ます日常を何年も、いや20年してきたというのに此処での眠りは深く一度も目を覚ますことはなかった。  包まれている温かさと安堵がもたらしたものか?確かにそれもあるが、昔黒田に抱きしめられて眠っていた時でも眠りは浅かった。であれば、この環境が原因だろう。  ここに攻め込まれたら?深く寝入っている自分が目を覚ますことはあるだろうか?その先の敗北を想像して琴巳の身体が震える。 「寒いのか?」  黒田の声によって思考にもぐりこんでいた琴巳は浮上した。 「まだ寝ているのかと」 「私の眠りが浅いことは知っているだろう」  やっぱり黒田の背中はまだ遠い場所にある。  散々抱き合ったせいで体は怠いが、深い眠りは完全に疲労を解消してくれていた。それに独りで前進しつづけることを朝に決意し一日を始める儀式はもういらない。背中の暖かみがそれを裏付けている。 「店にあったテーブルの数は?」  黒田の唐突な問いは、うなじに落とされたキスのせいで語尾はくぐもっていた。 「厨房側のカウンターは4席。窓側のカウンターも4席。真ん中のテーブルは6席。それと4席のテーブル。テーブルの上には白いクロスがかかっている。置かれている塩は岩塩で黒胡椒と並んでいます。ともにミルタイプ。あとはカトラリーがはいった長方形の竹籠があった」 「窓の形状は?」 「一番大きい窓は開閉できません。両サイドの30cmほどの部分しか開かない、ハンドル式の押し開きタイプの窓。出入口はドアベルのある扉、そして厨房には店内から見えにくい場所に勝手口がある。あと一つあるドアは母屋であるここに通じるものだった。厨房の窓は開閉部分が大きい普通の窓、床から約1500の位置」 「他には?」 「シュタイナーの双眼鏡。食器は少ない。白い大皿が15枚と黄緑色のケーキプレートが20枚。グラスとカップ&ソーサー。見えないけれどコーヒーメイカーがあります。ケーキ台の上には4つのパイが乗っていました。ケーキ台の片方が端によっていたので、ケーキ台は2台あるはずです。一台分のパイは売れたので台はさげられたと見ていい。BGMはコルトレーン、音量はギリギリまで絞られていた」 「上出来だ、問題はここからだ。窓の外の景色を言ってみろ」  琴巳はぐっと詰まる。周囲を瞬時に観察することは日常になっている。使えるもの、邪魔になるもの、こっちの逃げ場は向こうにすれば攻撃する場所になるから、どう使えば安全なのか、そして裏をかくための何かを探すこと。それは当たり前の思考回路で琴巳は黒田に教わった通り、観察を日々繰り返しながら一つの物をどう自分にとって有効に使うことができるかを考えることをスタートとしてきた。  人工物にあふれた場所であれば答えることは容易。しかし窓の外になにがあった? 「思い出せ、琴巳は双眼鏡を手にした時、ずっと窓の外をみていたはずだ。記憶を手繰れ」  琴巳は目を閉じて、必死に自分を保とうと黒田に背を向けた時に戻る。  双眼鏡の性能を無視した使い方に呆れつつ、その大胆さに舌を巻いた。関係者が来れば一目瞭然の物をぞんざいに置いておける黒田の自信は琴巳にはまだ備わっていないものだった。 『動物の目にも優しい』たしかそんなことを言った黒田の声を聴きながら林を眺めた。  ……林。 「林!木が立っていました」 「どのくらい?」 「森ではなく、林程度。建物と道路を挟んで、いきなり林になっている。種類の違う木が前に立っていたような気がしますが定かではない」 「色は?」 「色ですか?緑と赤?」 「それはどこの木だ、どれが赤だった?」 「……」 「木が生えている地面の様子は?道路から林は難なく行ける状態だったか?間には何も障害物は見えなかったか?カウンターの窓からすぐの木に鳥籠がぶら下がっていることは?覚えているか?」 「……いいえ」  ゆっくりと体を反転させられ、黒田と向かい合う位置に置かれ琴巳は落ち着かない気持ちになった。特に今、まるでなっていないと指摘された直後に黒田の顔は見たくない。 「夜は雉がうるさく鳴いていた。車は3台坂を上っていき1台は降りて行った。気づいたか?」 「いいえ……すいません。子供の時以来です、こんなに深く眠ってしまったのは」  逸らそうとした視線は黒田の手によって固定されたせいで阻まれた。頬を包まれる優しい仕草であるはずなのに、今の琴巳にとっては責められている気がして更に落ち込む助けに変わってしまう。 「私は嬉しいよ」  黒田は優しく微笑んでいた。柔らかく落される視線に尖りは一つもなく、本心で言った言葉なのだと納得できる。しかし琴巳には不可解でしかない。 「まだまだ教えることが沢山あるということだ。私を映す場所が琴巳の中に存在する。私から多くを学べばいい、そして追いかけてくればいい。すべてを教えても尚、琴巳の前を歩き続けてやるというエネルギーは私をさらに強くするだろう。それがとても嬉しい」 「俺は、悔しい」  黒田はふふっと笑って琴巳の頬にキスをした。頬に添えられていた手は肩をすべり脇から腰へと位置を変える。触れられた場所だけが芽吹くように熱を持つのがわかり、琴巳の背筋にゾクリとした衝動が浮き上がった。 「ここで休暇をとることには意味がある。人は自然から生まれたものだから、どうしても取り込まれてしまうのだ。都会の闇に紛れることを得意とするほど、森の中で取り残されたらなす術がない状態になってしまう。人工物の中に5分身を置けば感覚はすぐに戻るが、自然を相手にはそうもいかない。その中で息をし、外部からの接触にも敏感であることは訓練が必要だ。だから私は此処にきたのだ、忘れないために。次のプランがどんなものであれすぐに対応できるように。 わたしの言う意味はわかるね?琴巳はたった一晩で自然に絆され、深く眠ってしまったのだから」  言い返す言葉もない。プランナーである琴巳は自らの肉体を使い動くことはなかった。黒田は暗に伝えようとしている。今後行動を共にするのなら、ただのプランナーであれば足手まといでしかない。そんな相手とは組めないということを。  黒田の名がこの業界に轟いているのは今も昔も同じで、現在はさらに凄味とキレを増しているという噂だ。無駄が削ぎ落されシンプルになった分、余計手強く隙がない。そこに自分が飛び込むということは、黒田にとって弱点になるということだ。  だからといって、ここで逃げ出すわけにはいかない。ようやくここまで辿りついたのだから、何が何でも黒田についていく。琴巳の決心はよりいっそう強くなり、その心が視線に宿った。  黒田はそれを認めて口の端だけで了承の意を伝えてくる。仕事と同じでシンプルで無駄がない仕草に琴巳の渇望に灯がともり唇がわずかに開いた。敵わないことを認めて後をついていけばいい、無駄に追い越そうとして身の丈に合わない動きをすれば間違いなく身を滅ぼすことになる。それは黒田に迷惑と危険を与えることになり、すべてが自分達に跳ね返ってくるだけだ。黒田の背中を追う、どんなに先にあったとしても見失わずについて行く。 「柾さんと一緒に行きます。どんなに困難でもしがみついて離れません。柾さんのスキルを体得してみせます。俺はそれを実現させるためにこの長い間孤独に耐え、上を目指した。上に行けばいくほど、柾さんの教えが正しいということを周知することになりました。期待されていなかった俺がここにいられるのは、貴方の教えと私情です。私情は排除せよと教えられたにもかかわらず、俺はそれを糧にしてきました。唯一柾さんの教えに反することです。でももしかしたらそれが俺の強みになるかもしれない」  まだ我々の距離には余裕がある、黒田はそう考えていたが琴巳は思った以上に手強くなっている。  リスクを背負う私情こそが強みだと言い放つあたりが面白い。琴巳を手にするために作った育成プログラムを実行しないまま離れた自分は相当の馬鹿者だと黒田は悔いた。あのまま、プログラムを実行していれば琴巳の存在はもっと闇の中で光輝く存在になっていただろう。そして自分と組み完遂させた仕事は人々の口に上ったに違いない。  だが、それ以上考えたところで無駄だということに行き当たった。それに、半端物であったから社長が手放す気になったともいえる。優秀であるが、琴巳の意識は黒田を中心にまわっており、伊勢も百貨店もどうでもいいということを長い時間をかけて示した息子を手放した。  社長にとってみれば、郷崎は跡継ぎとしては文句なしの存在だろう。何よりも「血筋」に執着している郷崎は伊勢の名に変わることを願いつづけてきた。社長にとっては自分の血を複数残した結果でしかないが、生を受けた側にとっては単純なことではない。そして郷崎は「伊勢」の血を繋いでいくだろう、琴巳のように私情と伊勢を秤にのせ、私情こそが重いという判断はしない。  二人だけの道を行けばいいだけだ。実に単純なことでそれ以上でもそれ以下でもない。 「あっ……」  黒田の指先が後孔の周囲に触れ琴巳は簡単に声を漏らした。 「いつ何時も気を抜くな。でも一つ例外がある」 「な……んですか?」 「私の腕の中にいるときは、私だけを見て感じること。琴巳のことは私が絶対に守るのだから、外に気をやる必要はない。いいね」  琴巳はしがみつくように黒田の首に腕をまわす。絶対的な自信と想われることで生まれる強さを琴巳は感じた。誰がいつ何を仕掛けようと守り守られる二人は最強であり、隙はない。  その結論は安堵を生み、また深い水に沈みこみはじめる。黒田の指と吐息とキス、そして抱擁は深い水をより透明にし酸素があふれだす。苦しいのに欲しくて堪らない、その振動と熱に身を焦がして寄り添う。 「柾さん、どこにでもついて行きます……連れて行って」  黒田の答えは深いキスによって琴巳に返された。

ともだちにシェアしよう!