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エピローグ

昨夜から降り続いた雪のせいで、電車が止まった。なんでも、50年ぶりの積雪を記録したとか。 やっとの思いでタクシーを捕まえて、目的地に向かう為の地下鉄に乗り込んだ時にはもう正午を回っていた。 「最悪……」 地下鉄を降りて歩いている途中で、お気に入りのブーツに水が染みてきた。まだ降り頻る雪のせいでヘアセットもぐちゃぐちゃだし、メイクもとれかけてるかも。 本当ならこんな顔で会いたい相手じゃない。一番きれいな姿を見て欲しい相手だ。けど、背に腹は変えられない。と言うより、どう思われてもいいから、顔を見て安心したい。 こうして彼を訪ねるのは、もう何回目だろう。 愛由がいなくなってから、邸の門の鍵はかかっていない。広い敷地を覆っていた芝生も、玄関まで続いていたレンガの小道も全部雪で覆われていて、所々植えられた低木も、敷地を囲うように植えられた背の高い木々もみんな雪を被って白い化粧をしている。 漸く辿り着いた玄関のチャイムをいくら鳴らしても応答がない。今日は仕事休みの筈だし、こんな日に出掛ける訳ないと思うけど。 まさか…………。 思い当たって、急いで裏庭に回る。全く除雪されていない道なき道を、新雪に足を取られながら走る。お気に入りのブーツがグショグショになることも厭わずに。 「ちょっと、何やってるの……」 想定通りの場所に、宗佑はいた。傘を片手に、けれど頭にも肩にもうずたかく雪を乗っけて。 「岬か。どうした?」 「どうした?じゃないでしょ!いつからそこにいるの!?」 「タイワンツバキが枯れちゃわないか、心配で……」 「もうっ……!さ、家に入るよ!風邪引いちゃうから」 宗佑の肩と頭に積もった雪を払ってその腕を引っ張る。木偶の坊の様に動かない宗佑の唇は近くで見ると真っ青で、一体何時間こうしていたんだろうかと本気で心配になる。 「午後からは晴れる予報だから、もうすぐ雪も止むよ。それにこの木は冬に花を咲かせる木なんだから、寒さには強いんだよ」 本当はこの木の事なんてよく知らない。けど、それを聞いて漸く宗佑はタイワンツバキの上で差していた傘を下ろした。傘に積もった雪が、ドサドサと音をたてて地面に落ちる。 洗われてないであろう浴槽を掃除して、お湯を張って、宗佑を浴室に押し込んでから漸く一息ついた。……と言うのに、座ろうと思ったソファに無造作に脱ぎ散らかされた服が目についた。全部纏めて、洗濯機に放り込む。そうしたら、今度はテーブルの上の惨状が気になって、結局身体を動かしてしまう。 元々宗佑は器用なタイプで、掃除も料理も几帳面にこなしていた。けど、愛由を手放してからはずっとこうだ。掃除もしなければ料理もしない。顔を見に来る度に、裏庭に植えられたタイワンツバキの世話ばかりしている。 こんなことなら、メイドを解雇しなきゃよかったのに。しかも、そのメイドにはかなりの額の退職金を支払った様だと由信くんに聞いた。 「リビングの掃除もしてくれたんだ。悪いね。お礼はいくら渡したらいいだろう」 キッチンで昼食の支度をしていると、宗佑がお風呂から上がってきた。洗い晒しの髪でバスタオル片手にただぼーっと立っているだけで、宗佑は絵になる。まるで雑誌の切り抜きみたいだ。思わず見惚れそうになりながら、頭を振る。 「あのね、いつも言ってるけど、私はお金が欲しくてやってる訳じゃないから」 「そうか。けど俺には、金くらいしかない」 視線を斜め下に落として寂しそうにふっと笑う姿は、さながらドラマのワンシーンだ。 愛由を失った宗佑の心の傷はどれ程の深さなのだろう。宗佑はすっかり毒気を抜かれ、腑抜けの様になってしまった。家事も掃除もせず、休みの日は進んで食事もとらずに、愛由が好きだったという地味な花ばっかり見て過ごしている。 憂いを帯びた宗佑の横顔はそれはそれは綺麗で、そんじょそこらの俳優では太刀打ちできないくらい。けど────。 私はまた頭を振った。宗佑のペースに流されちゃいけない。宗佑には元の元気な姿に戻って欲しい。どんなに綺麗でも、こんな悲劇的なドラマの主役でいて欲しい訳ではないのだ。 「もう!やめてよね!自信満々にふんぞり返ってた宗佑はどこ行っちゃったの?宗佑はね、やって貰って当たり前って顔してればいいの!あんまり殊勝な態度取られたら、こっちまで調子狂っちゃうじゃない」 宗佑はただ肩を竦めると、私に背中を向けた。無言で部屋を出ていく。その後ろ姿を見てため息は漏れ出たけど、慌てたりはしない。行く先の見当はついてるから。 私が宗佑の家に通う様になったのは、由信くんから言われたからだ。正確には、愛由からの頼みなのだが。いわく、宗佑が死ぬかもしれないから、暫く様子を見て欲しい、支えてあげて欲しいという、随分と勝手な願いだった。 そんなに心配なら、宗佑を死なせたくないっていうなら、あんたが支えてあげればいいじゃない。宗佑が求めてるのは、あんただけなんだから。 そう思ったし、腹も立った。誰のせいで宗佑がこんな風になってると思ってるの?って。けど言えなかったのは、宗佑の非をよく知っていたのと、愛由への同情心がゼロではなかった事、それに、やっぱり私が宗佑を支えたいという気持ちが強くあったからだ。 「出来たよ、お昼ご飯」 想定通り、愛由の元監禁部屋にいた宗佑に声を掛ける。宗佑は、「あぁ」と生返事したままそこを動かない。リビングは散らかり放題だけど、この部屋だけはいつ見ても綺麗にしている。やることなすことチグハグな宗佑らしいといえばそうだ。 「花は、大丈夫だったでしょ?」 定位置の窓の前に備えられた椅子に腰掛ける宗佑の傍らまで寄る。 「うん、岬の言う通り雪はやみそうだし、今のところ元気そうだよ」 「………ねえ、もうやめてね」 「なにを?」 「自分を犠牲にしてあの花を守るような事。私が来なかったら、宗佑間違いなく倒れてたよ?あんな所で倒れてたって、誰も見つけてくれないよ?私がいなきゃ、死んでたかもしれないんだからね」 「そうだね。けど、あの花は愛由が大事にしてた花だから」 「だから何!自分の命とどっちが大事なの!?」 「…………」 「花が何よ!愛由が何よ!どっちも、宗佑に何もしてくれないんだから!もういい加減吹っ切りなさいよ!そうじゃないと、宗佑、本当にいつか死んじゃうよ!」 感情が昂る。本物の女みたいにキンキン声のヒステリー。こんなの、絶対に宗佑が好きなタイプじゃないって分かってるのに──。 「愛由の事は、忘れられないよ。忘れない」 「愛由からはもう何も得られないんだよ?どんなに想ってももう宗佑の元には帰って来ないの!なのにどうして……」 「俺は今まで、人を愛した事がなかった。いつも、自分が一番大事だった。けど、愛由が教えてくれた。相手を思い遣る気持ちこそが、愛する事だって。愛由に笑って欲しいと思うことが、俺の愛由への愛なんだって。だから俺はずっと、愛由の笑顔を守るんだ。この花が枯れたら、愛由が悲しむだろ?だから俺が守らないと」 …………この人は、どうしてこうも極端なんだろう。宗佑が人格から完全に変わってしまったって思ってたけど、ある意味変わってないのかもしれない。別の方向に振れてしまっただけで。 すぅっと、息を吸って、吐いた。宗佑が守りたいものの為に手段を選ばないのなら、私だってそうする。本心では、こんなこと言いたくないけど、やっぱり背に腹は変えられないのだ。 「宗佑、どうして私がこうして宗佑の世話をしに来るか、分かる?」 「……どうしてかな。……俺を、好きだから?」 「違う。腑抜けの宗佑なんて、全然魅力的じゃないんだから」 「そうか。じゃあ分からないな。金も受け取ってくれないし……」 「愛由に、言われたからよ」 案の定。愛由の名前を出した途端、宗佑の目付きが変わった。 「愛由?」 「愛由が、宗佑を心配してるの。死ぬんじゃないかとか、落ち込んで病気になっちゃうんじゃないかってね。愛由は、宗佑に死んで欲しくないの。病んで欲しくないの。普通に、元気に、今まで通り過ごして欲しいって思ってるんだよ」 「愛由が……」 「宗佑が死んだら、愛由が悲しむんだからね。きっと、その花が枯れるよりももっと悲しむよ。だから、宗佑はちゃんと生きなきゃだめなの」 「愛由が、俺を心配して……」 宗佑が感慨深げに呟いた。しんみりしているのだろうと思っていたら、いきなり宗佑は立ち上がった。すくっと立って、私の肩に手を置いた。 「ねえ岬!それって、俺にもまだチャンスがあるって事?」 まじまじと私を見つめる宗佑の瞳には、いつもと違って意志があり、輝きがある。 「そ、そういう訳じゃ、ないんじゃない……?」 「こうしちゃいられない」 私の返答を聞いていないのか、瞳をキラキラさせたままの宗佑が急にドアの方へと踵を返し、スタスタ歩き出した。 「ちょ、どこ行くの?」 「シャワー」 「え……さっきお風呂入ったばかりでしょ!」 「トリートメントをし忘れたから。こんなボサボサの頭じゃ、愛由に嫌われてしまうだろ?」 キラリと自信満々に笑って、宗佑は行ってしまった。私は、暫し呆然とその場に立ち尽くした。 効果テキメンすぎでしょ……。 こんな効果は期待してなかった。少し前向きになってくれたらいいなって思ってただけで…………。 けど、お陰で久し振りに見れた。宗佑の生き生きとした姿。 宗佑を愛由から切り離すのは無理なのかもしれない。悔しいけど、認めるしかない。腑抜けの宗佑とこれまでの宗佑、どっちが好きって聞かれたら、私は迷わず後者を選ぶから。宗佑が前みたいに取り返しのつかない事をやらかそうとしない限り、いいじゃない。それで、私の好きな宗佑が帰って来るのなら────。 ────ごめんね愛由。あなた、まだまだ宗佑から逃れられそうにないみたい。

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