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病弱くん、出会いは唐突に/その1

     僕が小説家になったのは19歳。まだ僕が大学二年生の頃だ。  大学の教授に将来の夢を聞かれて、なんとなくこんな自分でもなれそうな職業ということで小説家になりたいと伝えた。そうしたら、それなら今からでもいいからたくさん書いて、たくさん応募しなさいと言われた。それまで、趣味で書き溜めていたものがあったので試しに目に付いたものに応募してみたら大賞が取れて、しかもけっこう大きい章だったようで、たちまち編集社から、ぜひ小説家にならないか、君ならとても良い小説家になれる、ぜひ! ぜひ! と強く押されてしまい、断りきれずに在学中から小説家としてデビューすることになった。  物語を作る、文章を書くということについて何の知識もなかった僕は、仕事がなかなか上手く進まず、担当編集の人とも時間をかけて何度も何度も話し合って、また、たくさん勉強をして、大賞を受賞した小説を何とか世に送り出すことができた。  大学は本当に苦労した。なんせ、勉学と小説家の両立。それまでしていた書店でのバイトも辞め、ボロい四畳半のアパートと大学とを行き来する生活。締め切り前には三徹なんてザラだった。  そんな生活を送り続けている中で年間11回ほど倒れた。担当編集の人は僕は学生なんだからそんなに急がなくても良いと言ってくれていたけど、誰かに期待されている、という事実が僕には重たくのしかかり、何もしていないと焦りや不安で胸がいっぱいになるのだ。  大賞作品がまぐれだったなんて言われたらどうしよう。誹謗中傷が怖い。良い作品を書かなきゃ。お金をもらっているんだし、ちゃんとやらなきゃ、ちゃんとやらなきゃ。  そうして書き溜めていたものに手を加えに加え、在学中には七作ほど出した。僕は生まれつき病弱で身体が弱かったため、何もしていなくても年間5回は貧血で倒れていたし、何より家族を持たない僕はお金が無かった。毎月、家賃を払うので精一杯。人が苦手な僕には寮に入る勇気もない。何とかこの与えられた環境で頑張るしかなかったのだ。    そうして22歳。怒涛の二年間を過ごした後、僕は晴れて大学を卒業。小説家の活動にも本腰を入れられる生活になった。それでも奨学金の借金を返すために常にジリ貧生活。出した小説は、大賞受賞作品はともかく、二作目、三作目、と売れ行きは低下。小説家とはなかなか金にならない。もっと小説家について勉強すれば良かった……と後悔したこともある。しかし、人が苦手な僕には部屋にこもりきりの生活はある意味快適で、僕の心を脅かすものは締切以外に何も無く、結構気に入っていた。この四畳半の狭い部屋の中で、僕は寝て、起きて、パソコンに向かって、また寝て、起きて……だけを繰り返していた。もともと食べることはそんなに好きじゃない。僕を心配して週に一度担当編集の人が買ってきてくれる僅かな食材を、毎日少しずつ消化していけば満足。食べるよりも寝るほうが好き。 「先生。先生のデビュー作はそれなりに話題性もあって認知度もまあまああります。しかしそれ以降、何の宣伝活動もしないまま、既に十一作、今回で十二作目を出版します。やはり時間が経てば人々は次第に忘れていくものです。幸い根付いているファンだっていらっしゃいます。どんなに先生が人が苦手だと言っても、やはり、ここで一度表舞台に立つべきです。」  熱心に言うのは担当編集の加藤さん。年上だけれど優しい物腰で、背中まで伸びるロングヘアーは毛先がふんわりとした内巻きで、僕は彼女が動く度にゆらゆらと揺れるその様子を見るのが好きだった。  この日は加藤さんと近所のファミリーレストランで打ち合わせ。という名の今後のための作戦会議。久しぶりに外の日差しにあてられて、外に出た瞬間、7月のきらびやかさにに頭がクラクラした。四畳半にはボロアパートにお似合いなボロ扇風機一台しかない。だから暑さには慣れているが、こなファミリーレストランは恐ろしく冷房が効いていて恐ろしく寒い。僕は、先程からドリンクバーで温かいお茶ばかりを飲んでいた。 「そんな……僕にはできませんよぉ……。」  幼い頃から重度の引っ込み思案で人見知りで、こんな僕が人前に出るなんて考えられない。この性格のおかげで何度泣いたことか。今だって涙が出そうだ。胸が張り裂けそうだ。 「ふふっ、そうですか? 先生は非常に綺麗なお顔をしていらっしゃいますし、全くウケないことはないと思いますが……ですが、私は先生の対人恐怖症をよく知っています。私も心を開いてもらうのになかなか時間がかかりましたしねぇ。」  加藤さんは僕の顔を見て、何かを思い出したようにクスクスッと笑い出す。軽く握った片手を口元に持ってきて、という仕草が非常に女性らしい。 「もう……からかわないでください。あの頃は、加藤さんがそれはもう恐ろしい悪魔に見えたんです……。」  小さな声でもごもごと俯く僕に、加藤さんは「失礼いたしました。」と楽しそうに、優しく声をかけてくれる。 「どうかご安心を。表舞台に、と言っても人前ではありません。先生に雑誌のインタビューの依頼がきているんですよ。さぁ、お顔をお上げになって?」  「インタビュー……?」と、少し視線を上げ、俯き気味に加藤さんを見る。 「い、インタビューなんて受けられない……僕なんかが偉そうに話せることなんてありませんよぉ……。」  そうしてまた小さく情けない声を出す。 「大丈夫。何もそんなに怖がることはありません。以前から先生にインタビューをしたいといくつか話をいただいていたのですが、先生がこの調子ですから断っていたんです。しかし、今回、非常に強く、ぜひ先生にインタビューを! と依頼があったともので、作品の売上も伸び悩んでいることですし、良い機会かしら、と。先生は絶対にOKを出さないと思いましたので、私が代わりに承諾しておきました☆」  テヘペロと無邪気に舌を出す加藤さん。イタズラがバレた子供のような表示で、実に恐ろしいことを口にする。 「え、えっ、そんなぁ……。」 「先生。先生は決して仕事から逃げたり、途中で諦めたりする方ではないことを私は知っています! それに今回は非常に若い先生の大ファンだというモデルの方と一緒のお仕事だそうですよ。」  若いモデル? 大ファン?? 一緒に仕事!?  そんな社会的カーストが高そうなキラキラした人と、こんな根暗貧乏で腐った僕が一緒の空間にいることなんて絶対にできない! ムリ! むりむり!!  そんなことを思っていると、約束の日は一瞬にしてやってきてしまった。その間なかなか仕事に手がつかなくて、僕の頭の中は来る日のことでいっぱいになっていた。                 「大丈夫。リラックスして? 聞かれたことに、先生のペースで答えれば良いんです。それでも、まさかこんな高級ホテルで行うなんてびっくりですねぇ。」  インタビュー当日。指定された場所は高級ホテルの一室。スタッフに通された控え室で、僕のとなりで優しく、どこかのんびりと語りかけてくれる加藤さん。彼女は優しくて穏やかでどこか楽観的、こういう性格なのだ。彼女はいつも僕の心の支えになってくれているが、それでも今回ばかりは僕の震えは止まらなかった。 「む……無理です……しかもモデルさんと一緒だなんて……。」  部屋の隅っこで小さくうずくまる。体育座りをして、顔を両足の間に埋めて、もごもごと言った。 「でも、先生の大ファンなんですよ? 嬉しいじゃないですか。それに今回ご一緒するモデル、今まさに超売れっ子モデルの神山 宏輝(カミヤマ コウキ)ですって。超絶イケメンで、頑張り屋、優しくて性格も良いって業界でも評判良いんですよ。安心ですね! なんとかなりますよ!」 「ええっ? そんなの僕と正反対だっ……そんな光属性、闇属性の僕には致命傷になっちゃうんですよぉっ。」 「あら、大体どこに行っても光属性と闇属性はお互いに効果抜群。先生が負けるとは決まっていませんよ?」 「あぁもうっ、そういう話じゃないですぅぅぅ……。」  またガックリと項垂れる僕。  コンコンッ 「先生、そろそろお時間です! スタジオにご案内しまーす!」  外からドアをノックする音に加えて男性の声が聞こえてくる。その音にビクリと大きく身体が震えた。あぁ、悪魔の時間はもうすぐそこまで迫ってきているのだ。もう嫌だ嫌だ。行きたくない。行きたくない。行きたくない……。               「これ、今日のスケジュールです。軽くで良いので目を通しておいてください。こちらのスタッフが質問していくので完璧に覚えたりしなくても大丈夫ですよ。すいません、神山 宏輝さんももうすぐいらっしゃると思うので……。」  僕をスタジオに案内してくれた男性がスケジュール表を手渡すと、苦笑いで部屋から去っていく。スタジオと言っても白と黒を基調にしたシックなデザインの部屋で、僕が先程までいた部屋とは段違いに広い。僕が通されたのは大きな窓の手前、ふかふかなクッションと腕掛けが設置された高そうな椅子が対面するように三つあって、中央にはグレーのシックなデザインの四角い机が一つ。  加藤さんは「頑張ってください。先生なら大丈夫です。なんとかなります。」と言って着いてきてくれないし、スケジュールなんて渡されても全然内容が頭に入ってこないし……それに何だか人が多い。  部屋にはスタッフさんが男女均等に二名ずつ、計四名。僕にはわからないけど難しい機材を持っていたりして、とにかくよくわからない。観察する余裕も、視線を上にあげる勇気もない。ただひたすら、頭に入らないスケジュール表を眺めるだけだった。  心臓がバクバクと鼓動を早める。腕が震えて、スケジュール表が微かにカサカサと音を立てる。この話を聞いてからずっとムカムカと胃が痛む。暑さのせいだけではない、頭がグルグルする。  あぁ、もう嫌だなぁ、なんで小説家になんてなってしまったんだろう。僕はただ誰にも会わず、引きこもっていたいだけなのに……こんなことになってしまうなんて。  あれこれと考えていると、部屋の外から男性の怒鳴り声が聞こえてきた。またビクリと大きく身体が震える。何を言っているのかは遠くて聞こえない。だんだんと近づいてくるその声の隣に、もう一人男性がいることがわかった。 「お前はいつまで鏡を見ているんだっ!! もう開始時間を2分も過ぎている!! だいたい、お前がこの仕事をやりたいと言って自分で取ってきたんだろう! やる気はあるのか!!」 「あるある! やる気しかないって! やっぱほら、好きな人に会うんだから身なりは気にしたいじゃん? おはようございますっ、遅れてすいません! ちょっと、髪型のコンディションが気になっちゃって……今日はよろしくお願いします!」  ガチャリとドアが開き、声の主が二人、部屋入ってきたような足音がする。部屋にいたスタッフは全員彼に「おはようございます!よろしくお願いします!」と返す。ドアが開いた音に軽く顔を上げた僕だが、口が微かに開くだけでそこから言葉は出てこなかった。  そうして何も出来ずに再び俯いていると、視界の端に黒くてピカピカの靴を捉えた。 「せーんせっ。はじめまして?」  その声のあまりと近さに驚いて勢いよく顔を上げると、まず、黄色くてキラキラ、ふわふわが目に入った。さらに、微かに、視界の端で銀色が光る。僕の目の前にしゃがみ込む彼の、金色に染まった髪。その間から覗くピアス。次に、万人に好かれ、万人に愛されそうな、整った顔。高い鼻、程よく焼けた肌に、薄い唇、彼の金髪と同じくらいキラキラとした双眸がどこか優しい。どうやら僕に微笑みかけているらしい。 「あ……えっと……。」  咄嗟に俯き、小さい声で口をもごもごさせる。思わずスケジュール表をクシャッと握りしめ、眉を寄せる。  あぁ、キラキラしてる、キラキラしてるよ!  こんな人間初めて見たっ……!  そんな僕を見かねたのか、彼はクスッと笑い、「あぁ、やっぱり。」と小さく呟く。 「俺、モデルやってマスっ。神山 宏輝って言います。よろしくお願いします。デビュー作から先生にどハマリして、もうめちゃくちゃ大ファンなんです。今日、先生にお逢い出来て本当に嬉しいっす! マジで生きてて良かったぁって思うっす!」  だんだん声のボリュームが上がり、少女のように僕の前で両手を絡ませる彼の満面の笑みは、彼のカリスマ性をさらに、これでもかと言うくらいに引き立てた。彼の周りで星がパチパチと弾ける。僕は、やっぱりこんな人は受け入れきれなくて、目をそらすように斜め下を向いた。 「……だぁ、かぁ、らぁ……。」  彼の顔が近づいてくる。いたずらっ子のような、そして最愛の人を見つめるような表情で。先程の無邪気な好青年とは一変、低く、妖しく、卑しい声色で。  急に近づくその声と気配に身体は無意識に震え、驚いて顔を上げる。彼の背後では彼のマネージャーらしき男性が「うちのをよろしくお願いします。仕事はしっかりこなしますが、なんせワガママな問題児なもんで……。」とスタッフに頭を下げている様子が見える。両方の二の腕が何かに押さえつけられる。動かない。瞬間、暖かい感触。あぁ、腕を掴まれている。           「せんせ、ぜーんぶ俺にちょーだい??」            頭の中でビリビリと電撃が行き交う。身体中が強ばって、震えが止まらない。耳元から聞こえてきた言葉は僕の頭には理解不能で、この世の言葉ではないようだった。それでも、その卑しさに、耳から身体中が支配され、蕩けてしまいそうだった。     「ねーぇ、せんせ。この後時間あるかな? お仕事早く終わらせてさ、俺、せんせと、お話したいんだよね?」  彼は顔を僅かに離すと、おねだり上手の子供のような上目遣いで僕の顔を愛おしそうに見つめる。左手で優しく、僕の目を隠すために伸ばした長い前髪かき分け、そのまま左頬を撫でた。そうして、彼はうっとりとした表情。僕には暖かい感触。その落ち着いたトーンの声は、優しく、ゆっくりと僕に言い聞かせる。なんとか単語単語を理解した僕は、恐怖から声が出ず、小さく首を縦に振った。                  それからはもう全然ダメだった。聞かれたことに上手く答えられない。頭が真っ白で、とうの昔にショートしていたのだ。何がどうして、いつ終わったのかもわからない。それでもスタッフさんは、最後に「非常に良いお話が聞けました! ありがとうございます! 今後のご活躍も期待してます! 是非また機会があればお話をお聞かせください!」と言って深々と頭を下げていた。終わり頃にお迎えに来てくれた加藤さんに呼ばれて、ようやく我に返って、フラフラとした足取りで控え室に戻った。  スタジオから出る間際、一瞬だけ彼と目が合った。彼は僕の視線ににっこりと微笑むと、「あ、と、で、ね?」と口パクで伝えてきた。またビクリと背中を震わせ、まだ彼が僕の背中を見ているのではないか、と彼に見られているような気がして、ビクビクしながら脚を進めたのだった。 「あの……加藤さん……。」  お疲れ様でした、よく頑張りましたね、と褒めてくれる加藤さんに、僕はまた俯いて小さく語りかける。 「僕は、あの、モデルの人に……何かしてしまったんでしょうか……?」  突拍子もない僕の言葉に、加藤さんは首を傾げる。 「何か、ですか? 先生と神山くんは初対面だと思いますが……何より神山くんは先生の大ファンなんですよ? 何かあったとすれば、先生と仲良くなりたい、とかではありませんかねぇ。どうしましたか?」  仲良くなりたい。そうか、そうなのかな……。でも、あの彼と話すなんて、絶対にできないよ……。 「か……彼に、さっき…………この後時間がないかって……話したいって……い、い、言われて、しまって……。」 「あら、素敵! 良いじゃありませんか! 先生はお友達も少ないんですし、神山くんなら、きっと良いお友達になってくれますわ! では私はお邪魔ですね。先に社に戻りますので、何かありましたら、私のスマホにご連絡ください。」 「あっ、えっと……あの……。」  そう言って女性らしく微笑む加藤さん。僕の声は聞こえないのか、上機嫌な様子でテキパキと身支度を済ませている。日頃から僕のことをよく気にかけてくれている加藤さんは、僕に友達ができるということについて、非常に嬉しく思っているようだ。違う、あの時、もっと何か別のことを言われたような気がする……その時だった。  コンコンッ 「失礼しまーすっ。」  ノックと声とがほぼ同時に聞こえてきて、ガチャリと音を立てて控え室のドアが開かれた。  そこに立つのは先程の彼。しかし、先程のラフな印象とは一変して今度は黄金の髪を上げ、タキシード姿の彼がいた。 「せーんーせっ、約束どおり、来たよ。」  僕を見つけると、また嬉しそうに微笑み、その声はまるで小さい子供に話しかけるよう。  加藤さんと言えば、あらっ、とこちらもまた彼を見て、嬉しそうに微笑んだ。 「わたくし、担当編集の加藤と申します。私はもう引き上げるので、先生をどうかよろしくお願いいたします。では、先生、私はこれで失礼いたします。」  加藤さんは彼に深々と頭を下げると、僕の方を振り返り、小さく手を振って部屋から出ていってしまった。 「あ……あぅ……。」  僕は目を見開き、口をパクパクさせるだけだった。 「さ、行こ、せんせ。俺、ここのホテルの一室取ってんだぁ。おいで。」  彼は僕の側まで来ると横に立ち、僕の腰に手を回す。そして顔を覗き込み、耳元に口を寄せる。生まれて初めて、こんなに他人と、しかもこんなキラキラした人と密着して、何も考えられない。もうされるがままだった。  彼の大きくがっしりとした男性らしい手に腰を抱かれて部屋を出る。頭がグルグルとして、視界がボヤける。エレベーターに乗せられて、彼は固まるばかりの銅像のような僕に、 「ここの最上階のスイートを取ったよ。せんせーは高い所苦手かな? もう日が沈む頃だからさ、ここは景色が綺麗だよ。」  チンッと高音が響き渡り、目の前の扉が開く。そのまま廊下を真っ直ぐ。そうして連れてこられたドアが開く。そこにはまた別世界。さっきとは雰囲気が全然違う。とにかく、とにかく、高そう……高そうなソファ、高そうな机、高そうなテレビ、高そうなランプ。頭から足元まである大きな窓は、この都会の街を見下ろし、絵画のように切り取っていた。そこは太陽が沈む手前、空は真っ赤で、部屋も真っ赤。僕も彼も真っ赤で、本当に本当に、別世界。 「こっちだよ。」  また腰を引かれ、大きくふっかふかなソファに座らせられた。お尻がすっぽりと包まれ、今までにない感覚。僕一人だったら、今にも飛び上がって喜んでいただろう。 「どお? 綺麗でしょ。前に泊まった時、とっても綺麗だったからさ、せんせーに見せてあげたくて。」  彼は一度ソファから離れると、どこからか熱い紅茶の入った、これまた高そうな白と青のティーカップを僕の前、机の上に置き、僕のすぐ隣に腰を下ろした。  僕はと言えば、彼の言葉は耳をすり抜けていくばかり。鮮やかな夕焼けに心を奪われていた。こんなに綺麗な景色、生まれて初めて見る。大都会の高層ビルの合間に、今にも消えてしまいそうな太陽が、消える、命を燃やすような瞬間だった。  そうしてどれくらいの時間、眺めていただろう。一瞬か、それとも数時間か。太陽は力を失い、生命を失った。ビルの合間に消えた瞬間、赤い光は弱まり、だんだんと薄暗さが近づいてくる。 「ねぇ、せんせ……?」  ふと、ずっと膝の上でズボンを握りしめていた僕の両手、その右手を暖かく、大きいものが包み込んだ。 「そっちばっかりじゃなくて、俺の事も見て……?」  彼の右手が、僕の左頬を包み込み、彼の方向へ顔を寄せる。少し寂しそうに眉を寄せた彼は、 「今日は大事な日だから、こーんなにお洒落したんだよ? それなのにせんせーったら……さっきから俺のことほったらかしで外に夢中だし…………もう可愛すぎ。ほんと、大好きになっちゃうよ。」  苦しそうに、切なそうに顔を歪めても僕からは決して視線を外さない。その頬が赤く染っているのは、多分、消えかかった夕焼けのせいではないのだろう。 「せんせ、さっきも言ったけど…………せんせーを俺にちょーだい? 余す所なくぜーんぶ。俺の全部だってあげるし、せんせが望む物も望む事も全部あげるし、叶えてあげるよ?」  その表情はどこか焦っていて、急いでいて、本当に本当に苦しそうで、心配になるくらい、余裕が無さそうで、この言葉が全て本心だということが伝わってくる。  それでも…………どういうこと?? 「好き、大好き。せんせのこと、たまらなく好き。ずーっと会いたかったんだから。愛してる。だからお願い、俺をせんせの恋人にして? 俺をせんせの家族にして? 俺で最後にして? ずっと一緒にいて? ねえ、どお??」 「え、あの……はぃ ……??」  彼の顔が近い。吐息が唇にあたる。ひねり出した声は彼の唇に食べられてしまった。 「っ!? ……っんん!?」  生暖かい感触に、僕の頭はついていくことができない。僕の身体は彼に力強く抱きしめられ、身動きが取れない。それなのに、口の中では彼の舌が僕を好き勝手に蹂躙する。歯をなぞり、舌を絡め、吸い上げる。突然のことで息ができない僕は、呼吸困難に陥り、反射的に彼にしがみついた。すると、僕を強く抱きしめる彼の手が緩み、それでも片腕は僕をしっかりと捕まえ、もう片方の腕は、僕の腰を優しくそっと撫でた。その瞬間、腰から身体中に甘い電撃が走り抜け、ビクビクッと大きく震えた。 「はぁっ……あっ、やっ…………んんぅっ……。」  離れたと思えばまた触れ合う。吸い上げられては優しく絡み合う。頭がぼんやり、目がとろんと、身体からは力が抜け、ほとんど彼に寄りかかるような状態。そして不安。初めての快楽に、身体が得体の知れない何かに取り込まれてしまうような。心が何かに蝕まれるような。 「はぁっ、はぁ…………ん……っ。」  今度は啄むように。そして僕の唇をねっとりと舐め上げ、また優しく啄む。そして名残惜しく糸を引いて離れていくと、嬉しそうににっこりと笑った。その瞬間、僕の中で何かがカチリと音を立てる。不思議と頭が冴え渡ってくる。  これは本当にやばいやつだ……。 「さっき、はいって言ってくれた? イエスってことだよね? 嬉しいなぁ……これでもう一生、せんせーは俺のもんだから。ね?」 「ち……違っ……さっきのは聞き返す意味での…………べ、べべべ、別に僕は何にイエスを示したわけじゃ……っ!」  防衛本能からか、珍しく頑張って反論をしている方だ。その証拠にこんなにも彼を押しのけようと頑張っている。しかし、ビクともしない。普段から運動をしない僕は、そうでなくても、もともと非力だった。目の前の彼は余裕そうな表情で、 「あははっ、それで抵抗してるの? ほんっとに可愛いなぁ……今すぐにでも食べちゃいたいくらいだ。」  僕の頬をひと舐め、その後何度も吸い付いた。逃げないように方頬はがっちりと彼の大きな掌に包み込まれ、もう本当に逃げ場がない。されるがままに、視線がうろちょろ、顔がどんどん熱くなっていく。 「でも今日はだーめっ。俺、せんせーと仲良くなりたいんだぁ。だから、もっともっとくっついて、たっくさんキスしよ?? ね??」  また彼の顔が近付いてくる。その顔のなんと美しいことか。僕はこれまでに、こんなに嬉しそうで幸せに満ち溢れた人間になんて出会ったことはなかった。                これが彼、神山 宏輝と、僕、楠 和佐(クスノキ カズサ)との出会い。初対面でその日のうちに告白され、付き合うことになってしまって、あろう事かファーストキスまで奪われてしまった僕は、あれよこれよと彼に言いくるめられてしまい、しかもこの一連の流れはボイスレコーダーに記録されていた。そして、神山 宏輝という荒波に流れに流されて、天涯孤独であった僕の人生は大きく変わった。

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