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病弱くん、出会いは唐突に/その2

       都内某高級マンション30階建て最上階。 「かーずくんっ。もう、おはよーしよ? 俺お腹すいちゃったよ。かずくんと一緒に食べたいなぁ〜?」  広いキングサイズの高級ベッド。  重くのしかかる温もり。 「もぉ〜、おねぼーさんだなぁ〜、可愛いなぁ〜♥ 俺、今お腹空いてるんだってばぁ。こんなに可愛いと食べちゃいたくなるなぁ〜♥」 「っ…………、んぅっ……。」  暖かい感触。それは、優しく、柔らかい、ザラザラとした感触。体内に侵入してくる。甘い、甘い、甘くて、苦しい。吐息が漏れる。それでも、その温もりは僕を離してはくれない。  頭が覚醒する。瞳を開く。眩しい。 「んっ…………ンンッ? ん、んぅぅ〜〜っ!!」  両手でバシバシと、僕に覆い被さる彼を叩く。彼の重みで身体が動かない。勝ち目のない僕のギブアップの合図。それなのに、彼はちっとも離れようとしない。それどころか、一瞬口を離す合間に、「可愛い、かずくん………はぁ……かずくんっ、大好き…………ふっ、かずくん……んっ……。」と漏らしている。僕に身体を擦り付け、可愛い愛猫をこれでもかと可愛がるように両手で頬を愛撫する。 「起きた? おはよ、まいすいーとはにーちゃん♪」  しばらくしてようやく離れた彼の顔を眠気まなこでぼんやりと見上げる。美しくも整った彼、神山 宏輝の顔が、愛おしそうに僕を見下ろす。その低い声に、身体がぶるりと震えた。こんなの、嫌でも目が覚めるよ……。    見つめ合う、苦しくも甘い時間。四日前、ここに来てからずっとそうだ。暖かくて、どろどろになって、抱きくるめられて、身動きが取れない。どんなに嫌がっても逃げられなかった。そして僕が諦めて彼を見上げると、いつだって、それはもう嬉しそうに、にっこりと笑うのだ。今だって、そう。   「ふふっ、まだ眠たいのかな? かずくんのために朝ごはん作ったよ。かずくんが、朝から炭水化物は食べられないって言ってたから、今回は冷たいコーンスープ。食べてくれるかな??」  僕よりも頭一つ分高く、身体も全体的に僕よりも大きい彼は、僕をひょいっと抱き抱えると、言いながらダイニングへと歩いていく。世界の明るさに目を細めて辺りを見回すと、大きなダイニングテーブルの上には綺麗に並べられた食器と、その上に綺麗に並べられた彩たちがそれぞれ二人用にセットしてある。彼の言っていた冷製のコーンスープにベーコン、仲が良さそうに二つが混じりあった目玉焼き、レタス、ミニトマト、そして片方にはこんがり焼きあがったトーストが二枚重ねられていた。 「はい、かずくんはこっち。無理しないで、食べられるだけで良いからね。」  僕をトーストが置いていない方の椅子に下ろすと、彼は「かずくん何飲むー??」とキッチンの方へかけて行く。 「み、水を……。」  寝起きの身体に力が入らず、背中を丸めてボソッと。次いで、大きなあくびがひとつ。 「はいはい、お水ね〜。そう言うと思ったよ〜♪」  キッチンの方から得意気にひょっこり顔を覗かせると、その両手には水の入ったカップと、真っ黒なアイスコーヒーの入ったカップがひとつずつ。 「俺、だんだんかずくんのことわかってきたかも? もっともっと頑張るからねっ。はい、おてて合わせて? いただきまーーーすっ!」  彼はそれぞれにカップを置いて向かい側の席に座ると、パンッと音を立てて手を合わせ、実に元気が良いことだ。彼の様子を見た僕も、それに釣られてのろのろと手を合わせて彼の真似をする。 「いただき、ます……。」                    この高級マンションは、彼、神山 宏輝(以後、こーくんって呼んでって言われたのでこーくん呼びにします。)が僕と出会うことが決まってから用意したようだった。インタビューの仕事を終えたあの後、僕がどろどろになっても、こーくんの気が済むまで彼のキスから解放されることはなかった。外が暗く、もうどれくらい経ったかという時に救いの手は差し伸べられた。こーくんのマネージャーさんからの着信だ。いつからか、ずっと鳴り響く着信音にいい加減僕の頭もしっかり覚醒してきたのだった。 「あ、あのっ……さっきから鳴ってる……。」 「いーの、無視無視! せっかくせんせーとこうしていられるんだから……。」  そしてまた唇が塞がれようとすると、  ダンダンダンダンッ……!!  部屋の扉が叩かれる音。そして、聞き覚えのある男性の声。 「おい! お前、いつまでそこにいるつもりだ! いい加減出てこい! 先生だってお疲れだろうが!!」 「チッ……あ〜くっそ、うるせぇなぁ。」  さっきまでの甘い表情とは一変、彼は舌打ちをしてキッと扉を睨みつけると、力が抜けてすっかりソファに横たわっていた僕に覆いかぶさっていた身体を離し、面倒くさそうに頭を掻いた。  ダンダンダンダンッ! ダンダンダンダンッ! 「聞こえているんだろう? さっさとここを開けろ、馬鹿野郎!」 「あ゛〜〜〜もう! うるっせぇな! せんせーがびっくりするだろうがよ!! ……ごめんね、せんせ。びっすりしたよね? ごめんね……。」  彼は扉に向かって怒鳴った後、本当に申し訳なさそうに謝った。僕を膝の上に優しく抱き上げてぎゅうっとキツく抱きしめ、頭を撫でる。僕は一瞬何が起こったのかわからず、扉が叩かれる度に身体を震わせて「??」とハテナを浮かべて身体を硬くしていたのだった。そんな僕に「だいじょーぶ、だいじょーぶ。」と優しく耳元で囁いた。 「は〜や〜く〜あ〜け〜ろぉ〜〜〜!」  その低い声から、扉の向こうの彼が非常にイライラしていることが伝わってくる。不安げに目の前の彼を見上げると、そんなことをお構い無しに僕に優しく微笑みかけている。 「ごめんね、せんせ、あいつ、俺のマネージャーなんだ。こうなるとマジで煩いんだよね……ちょっとここで待っててね?」  僕を再びソファに優しく下ろすと額にキスをし、頬を撫で、その手も顔も、名残惜しそうに離れていく。「つ〜か、先帰れって言ったじゃん。なんでまだいんだよ。」と腰に手を当て、扉の前に立つ。僕は身体を丸くしてソファの背もたれに隠れながら、目だけを出して、その後ろ姿をぼんやりと眺めていた。彼の手がドアノブを握り、ガチャッと鍵が開く音。同時に扉が開いた。そこには黒スーツをビシッとキメ、銀色フレームのメガネをかけた、仁王立ちの男性。 「帰れるわけがないだろう! お前、絶対に先生を自分のものにするとか、もう一生離さないとか、何をしてでも絶対に落とすとか……朝っぱらから不吉な言葉ばかり残しやがって! 先生の身が心配で帰れないわボケ! お前、何もしていないだろうな!?」  モデルの彼よりも視線が高いマネージャーさんは、彼を鋭い目つきで見下ろすとそのままぐるりと室内を見渡す。そしてソファからひょこっと顔半分を見せる僕を見つけると、モデルの彼を押し退けてズンズンと僕の方へ歩いてきた。 「先生! ご無事ですか!? このアホに何もされていませんか!? 何か大切なものは盗られていませんか!? うちのがご迷惑をおかけしてしまって、ほんっっっとうに申し訳ございません……!!」 「え……いや、あのっ……。」  そして、これまで見たことがないくらい綺麗な45度。バッと勢いよく頭を下げる彼の黒く完璧なオールバックが光っている。 「ちょっ……やめろよ! せんせーが怖がってるだろ!」  モデルの彼は走って僕の方へ回り、後ろを向いて隣に座ると僕の腰を抱き寄せ、僕の顔を自分の胸に埋める形でぎゅっと抱きしめる。片手で僕の背中を優しくさする。 「第一、せんせーはもう俺のモノだから。何をしていたって俺達の勝手だろ?」  勝ち誇ったように意地悪くニヤッと笑う彼。その言葉にマネージャーさんはこめかみをピクピクとさせ、 「俺のモノ? まさかお前、この短時間で先生に手を出したのではあるまいな……?」  ゆっくりと視線は僕に移る。モデルの彼の胸でもぞもぞと蠢き、ぷはぁっと顔を上げると、目が合う。鋭い双眸は僕を射止め、改めてその整っている強面を認識した。  こ、怖い……。 「くそっ、遅かったか……!!」 「手なんて出してねぇし、ちゃんと一生大事にするし〜! ね、せーんせ♥」  頭を抱えるマネージャーさんをよそに、モデルの彼は辺りにハートをばらまいて僕を見ると「ん〜〜〜っ♥♥♥」と、頬を擦り寄せる。 「あのっ、僕は、違くて……これはっ、勘違いでっ……。」  怯えながらも恐る恐るマネージャーさんを見上げる。モデルの彼よりもマネージャーさんの方が怖い……それでも話は通じそうだ……。 「何? やはりそうでしたか。この度はなんというご無礼を……。おい宏輝! お前いい加減にしろよ? さっさと先生から離れろ!」 「ぎゃっ、何すんだよ! イテテテテテテテ……!」  マネージャーさんの拳を作った両手でこめかみぐりぐりの刑。痛がっていても、やはり彼はイケメンだったし、ちっとも僕を離そうとしない。 「んなことしてもぜってぇー離さなねぇし! もうせんせーは俺のモノだし! 俺だってせんせーのモノだし! ね、せんせ、そーだよね? さっき約束したもんね? 俺、せんせーに捨てられたら生きていけない! せんせーじゃないとダメなんだよ? ねぇ、俺を捨てないで? ねぇ、お願い??」  彼がマネージャーさんの両手を振り払うと、僕の片頬を包んで自分と目を合わせ、見つめ合う。その表情は不安げで、寂しそうで、今にも泣きだしてしまいそうだった。駄々っ子のような言い方で、それでも耳から体内に侵入すればたちまち甘く蕩けてしまいそうな声で、許しを乞う子供のように。  え、そんな約束したっけ……。 「は、はい……。」  それでも、こんなの、何の耐性もない僕に、断れるはずがなかった……。途端に、目の前にはたちまち花が咲き乱れる。 「あはっ、やったぁ! すっげー嬉しい! 俺もせんせー大好きだよぉ〜〜〜♥♥♥」  僕を力強く抱きしめると、再び頬擦りする。 「あ、俺と事はこーくんって呼んでね? 俺はせんせーのことかずくんって呼ぶから!」  なんて言っている彼の背後ではマネージャーさんが深い溜息を吐く声が聞こえてきた。                  その後、僕に見せたいものがあると言うこーくんに連れられてホテルの前に停められた、高そうな黒い外車に乗せられた。マネージャーさんは「ったく、本当に……このバカ息子は…………。」とブツブツ言いながら黙って運転席に座る。マネージャーさんのこういう所に、この人の良さが出ている気がして、見た目は怖いけれど結構嫌いじゃなかった。僕は終始ビクビクしていたが、こーくんががっちりと僕の腰をホールドして離さなかった。車にも彼のエスコートで流されるように乗り込み、再び腰を抱かれた。こーくんは満足そうに、その長い足を組むと僕に顔を寄せ、頬を軽く啄む。 「今からね、俺たちの新居にご案内だよ。かずくん、気に入ってくれるかなぁ〜。ちゃんとかずくんの仕事部屋として、書斎も用意してあるからね。あ、もちろん、寝室はひとつ、毎晩同じベッドで寝ようね♥ かずくん、お返事は?」 「え、えと……〝はい〟?」  彼は、これからの生活を思い浮かべては、待ちきれない!とでも言うように、それはそれは嬉しそうに、満面の笑みを浮かべた。この人の考えていることが何もわからなくて、また俯く。前方の運転席からは、はぁーーー……、とわざとらしく、大きく、長いため息が聞こえてきた。もう僕は怯えるばかりで、すっかり今の状況に諦めていた。気づいた時には車は発車し、夜の都会を掻き分けて進んでいた。僕はこれからどうなるのかな……。加藤さんが恋しい。大人しく、何も言わずに一緒に帰れば良かった。そうしたら、こんな風に知らない人たちにどこかに攫われることも、初対面の人に告白されることも、なかったのに。いつも通り明日から家に引きこもりきりの、何の変哲もない生活が続いていくはずだったのに……。それに、『新居』? 『新居』って何? 誰の?? 誰と誰が、一緒に寝るって……?? なんだか、怖くて抵抗できないだけで、ものすごい秘境の地まで流されている気がする。しかし、とにかく、目の前の人を怒らせてはいけない。僕の小動物的本能がそんな風に思わせる。 「行先はあそこで良いんだな?」 「もーちっ! つか、これで実家に連れて行ったりしたら、明日の仕事行かないから。」  僕の頭がぐるぐるしていると、運転手のマネージャーさんが口を開いた。急にテンションも声のトーンも下がるこーくん。さっきから僕とマネージャーさんとでは態度が違いすぎて、戸惑うばかりだ。彼を不思議に思ってこっそり顔を覗くと、気づかれてしまって、その美しい顔はまたにっこりと笑った。 「今日から一緒に寝ちゃう? 俺はもう先週家引き払ったし、既にあそこで寝てるけど……荷物は明日取りに行こうか。山下さん、業者に連絡しといて?」  運転席に向かって山下さん、と声をかける彼。マネージャーさんの名前だろうか。 「〜〜〜っ。それくらい自分でやれ! 俺はモデルであるお前のマネージャーであって、お前のお守役じゃない!」  ギリギリと歯を食いしばり、言い返す、マネージャーさん改め、山下さん。こめかみには血管がぴきぴきと浮き出ている、気がする……。さっきから怒ってばかりで、この人の血糖値は大丈夫だろうか。しかし、そんな人の心配をしている場合ではない。僕は僕の身の安全を確保しなければいけない。 「あ、あの……僕は一体、どうなるんでしょうか…………。」  僕が俯きつつも、最高の勇気を振り絞って口を開き、その後に恐る恐る視線を上げた。こーくんは優しい眼差しで僕を見下ろす。 「可哀想に。怖がっているんだね。ほら、身体が震えているよ?」  彼は優しく、僕の体をさらに抱き寄せ、 「大丈夫。かずくんが怖がることは何もしないさ。だって俺たち、恋人同士だろ? あ、そーだ。かずくん、俺の名前呼んでよ?」 「なっ……名前…………か、かみやま、こうき……さん??」 「ぶーっ。だぁめっ。ほら、さっき教えたでしょ? 思い出してごらん?」  さっき、さっき……。混乱しつつも防衛本能から頭は冷静にここまでの記憶を辿っていた。 「えっと……こ、こーくん……さん?」 「あはははっ、うん、かずくんはいい子だね。よしよし。あ、でも、〝さん〟はいらないよ? わかった? じゃあもっかい呼んで?」  無邪気に笑って、途端に獲物を前にした吸血鬼ように妖しく微笑む彼。夜の街並みに照らされて、彼がまるで僕と同じ人間ではないような錯覚に陥る。 「こ、こーくん……。」  「うん、なぁに?」 「あ、うぇ……?」  その美しく優しい顔が僕を見下ろして、小さく首を傾げた。予想外の返事に、頭が真っ白になって、誤魔化すように視線があっちこっちに泳ぐ。すると、彼が耐えきれずに吹き出した。 「ふっ、ふふっ、ごめんね。ああもうっ、かずくんはほんっとに可愛いなぁ〜〜〜♥」 「えっ、わぁっ!」  僕の両肩をガシッと掴むと、そのまま勢いよく押し倒される。彼の両手が顔のすぐ横に置かれていて、驚いて目を見張ると、先程までの優しく、キラキラとカリスマ的な輝きを放っていた眼差しが一変して、ギラギラと光って、赤黒い何かが時々チラついていた。 「早く食べちゃいたいなぁ……。」  僕を見つめてうっとり。やはりその瞳の中には、何かが蠢いて、その尾ひれをチラつかせている。 「こら、ここでおっぱじめる気か? 事務所の車の中だぞ。いい加減にしろ。」  時間が経ったからか、先程よりも落ち着いた、しかし声のトーンは一段と低い山下さん。信号待ちで車を一時停車させると鋭い目つきでミラー越しに僕らを覗く。募りに募ったイライラが、今にも爆発しそうな表情だった。 「チッ……わーってるよ。いちいちうるせぇな。」  また一変、冷めたような表情を見せる彼は山下さんと同じようなテンション。しかし、言い終わるとまたにっこりと微笑んで僕の顔中にちゅっちゅっとリップ音をたてながらキスの嵐を巻き起こした。 「あ……あのっ…………やめ……。」  僕は身体を強ばらせては僅かながらに顔を横に逸らせ、両手で彼の胸を押し、抵抗してみせようとするが、彼はそんな僕にお構いなし。力もこーくんの方が強いわけで、やはり小動物が大きな肉食獣に抵抗してみせたところで、軽くあしらわれてしまうのだ。 「はぁ……だからそれをやめろって言ってんだよ。人前だぞ。ほら、ついたぞ。」  どうにか街の灯りで保っていた明るさがなくなり、急に辺りが真っ暗闇に包まれる。僕は驚いてキョロキョロと車内を見回した。車のライトが前方を照らしだしているようだが、そのライトは僕らの乗る後方の座席までには届かない。  また車が一時停止したかと思うと、今度は謎の浮遊感に包まれた。車は前後左右どこにも動いていないはずなのに。すると、どうやら不思議なことに、車は上へ上へと進んでいるようで、一定のリズムで蛍光灯らしい黄色い光が上から下へまるで落ちていくように僕らを照らした。  こーくんは自分の身体を起こして座り直すと、僕の背中、肩甲骨辺りに手を回し、そのまま片手で僕を抱き起こした。 「さぁ、もーすぐだよ。俺とかずくんの愛の巣♥ きっと喜んでくれると思うなぁ〜〜〜♪」  そう言ってじゃれる猫のように僕の頬に自分の頬を擦り付ける。そして僕の身体をしっかり抱き直すと、額にキスをする。また、ちゅっ、とリップ音が車内に鳴り響いた。  チーン……  エレベーターに乗った時に聞く、目的地についたことを知らせるような音がする。すると浮遊感もなくなり、もう車は完全に停止したようだった。前を向くと、目の前から白い光が、どんどん僕の視界を奪っていった。あまりの眩しさに思わず目をぎゅっと瞑る。 「かずくん、おいで。」  ガチャッと車のドアが開く音がして、ゆっくりと目を開くと、先に車から降りたこーくんが車の外から僕を連れ出そうと手を伸ばす。言われるがままにドアの側までお尻を滑らせると浮かせた僕の手を、彼が優しく握り込み、僕が立ち上がろうとした時に腰に手を回し、そのまますっぽり僕を抱き込んだ。顔が彼の男らしい胸板に埋まる。先程から余裕がなくて気づくことができなかったが、男の人の匂いがする。とっても良い匂いだ。他人の匂いなんて嗅ぐことはないし、こんなに密着することもないから、なんだかドキドキしてしまう。この人に出会ってから、ずっとこの人に身体を密着させられてる気がする……。それでも強く押し退けて逃げることはできない。こんな知らない所に連れてこられて、果たして僕はここからまた再び外に出ることができるのだろうか。そう思うと、なぜだか、優しく微笑む加藤さんの顔が浮かび上がってくる。今まで幾度となく彼女に支えられてきただろう。僕がどんなに崖っぷちの生活を送っていても、何とか小説家として歩んでこられたのは彼女の存在が非常に大きい。そのため、彼女はほとんど唯一と言って良いほど僕が心を開いている人物だ。ああ、彼女に会いたい。 「見てごらん??」  こーくんが顔を僕の耳に寄せて呟く。彼の胸の中でもぞもぞと顔だけを上げてみると、そこは本当に車用のエレベーターの中だったようで、しかし、上品なクリーム色を基調とした高級ホテルの中のような内装だった。エレベーターの中をぐるりと見回すと、前方には短くて広い廊下が続き、さらにその奥には通常のマンションのドアよりも全体的に1.5倍ほどの大きさで茶色くて木製のドアが僕を待ち構えていた。                  

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