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病弱くん、出会いは唐突に/その3

      「はい、ここのカギ。これはかずくんの分ね。無くしちゃったら高いけど……まぁかずくんならたくさん無くしても良いよ。開けてごらん?」  横から、こーくんがカードキーを僕の手に握らせる。見るとシルバーの色をして、普通のキャッシュカードやクレジット等よりも固く頑丈で、僅かながらに通常よりも重みがある。  ドアの横にある装置にカードキーを通す。装置は普通のインターフォンの、もっと僕の家の周りでは見かけないような高そうなもので、一応数字キーやカメラもついていた。これだけでも毎月2万5千円のボロアパートに住む僕からしたらセキュリティは万全すぎるくらいだ。  重たい扉の取っ手はシルバーのスレンダーなタイプ。手をかけるとひんやりとしてザラザラとした感触。よく見るとそれはただの取っ手ではなく、センサーや指紋認証の装置が付いていた。そんな僕の視線に気がついたのか、僕の方からひょこっとこーくんが顔を出して、   「あ、これはね、かずくんは結構カードキーとか無くしちゃいそうかなぁって思って、ここに親指を乗せると、指紋認証でも開けるようになってんの。もうかずくんの指紋は登録してあるからね。そんでこっちのセンサーはリモコンタイプの鍵。あ、ちなみにちゃんと登録すればだけど、こっちにICチップの入っている物をかざせば開けられるようになってるよ。このカメラの部分には目でも読み取ってくれるからそれでも入れる。虹彩認証ってやつだね。かずくんのも、もう登録してあるよ。これは指紋認証とセットでやってね。カードキーは俺とかずくん、リモコンキーは車のキーも兼ねてるから俺が持ってるし、あと指紋認証と虹彩認証はこっちの山下にも登録させてるけど、ゲストで登録してるからこの建物に入ってくるには俺達の許可が必要だよ。つまり、ここの一階で二つの認証をパスしてやっとインターフォンを鳴らせるってこと。登ってきて、もう一度二つの認証をパスしてようやく部屋に入ってこれるよ。ごめんね、山下とか社長とか、親からもセキュリティはとにかく厳重にって言われちゃててさ。」    彼はひとつずつ指を刺して他にもそれぞれの使い方を説明してくれたけれども、もう鍵ひとつ開けるまでに別次元の話すぎて頭がついていかない。それでも、ある違和感にはしっかり気づくことができた。 「あ、あの……、指紋認証と虹彩認証がもう登録してあるって、一体どういう……。」 「え? そのまんま。あ、かずくんも担当編集さんと打ち合わせするでしょ? 今度俺がいるときに連れてきてね。まあ、パッと見大丈夫そうだったけど、挨拶もしたいし? その時に指紋と虹彩登録してあげるから。」  直接的な解答は貰えなかったけれど、本能的に背中に悪寒が走った。こーくんはそんな僕をよそに、僕よりも先に玄関に足を踏み入れた。                  広い。とにかく広い。そして一番に驚いたことは、ここがものすっごく高い場所に位置していたということ。リビング一面に広がるガラス窓からは都内の某区が、さらにはその隣の区までが一望できて、日頃からビビリな僕は高い場所だけはそんなに怖がることもなかったのに、窓に近づいて下を見下ろした時には、さすがにこの時ばかりは股間が縮こまる感覚がして後ずさりした。そのままソファの背に躓いてボフッと後ろに転がった。両足を上げて逆さになる僕をこーくんは「可愛いなぁ〜♥」と言いつつもゲラゲラと笑って、頬を赤く染めて恥ずかしそうに見上げる僕の前にしゃがみこんで額にキスをした。   「おい、先に仕事の話をさせろ。」 「はいはい、てか、まだいたんだ。」  そう言ってずっと後から僕らについてきていた山下さんがいつのまにか抱えていた、大きくて重そうなスケジュール帳を開いた。こーくんの小言はもう大して聞いていないようで、何の反応も返さず、ただ事務的だった。メガネをクイッと上げ、紙面を目で追う。その仕草は非常にカッコ良くて、THE☆仕事のできる男! という感じだった。 「とりあえず約束通り、明日から四日間は時間をやる。その後の今月の流れとしては〇〇雑誌の巻頭カラーの撮影と、大きい仕事は△△ △△△からのオファーで『モテたい男子必見! 秋のモテる男のモテコーデ&彼女の心を掴むデート10連発!』だ。これはお前の意見もふんだんに取り入れたいと要望があってな。各ページにはお前と相手役のモデルの解説付きだから、打ち合わせの日までにいくつかプランを考えておけ。撮影も打ち合わせ次第では地方も有り得るから覚悟しておけ。その合間にも雑誌の撮影がいくつか……まぁこの辺はお前なら問題ないだろう。」  のそりとソファから起き上がって体勢をたて直しつつ、こーくんの顔を見るとすっかりビジネスモードで今までにない真剣な表情で山下さんの話に耳を傾けていた。さすがモデル、これだけで非常に絵になる……。   「はぁ、俺可愛い嫁がいるし、念願の同棲生活がスタートするのに、あんま遠く行きたくないんだけどなぁ。それキャンセルできないの? てか、受けるって言った覚えもないし、仕事自体初耳なんだけど?」  面倒臭そうに頭を掻きつつ、僕の横にドカッと腰を下ろすと、僕の頭をぐしゃぐしゃに撫でて「ねー♥」とはにかんだ。僕はなんて言っていいのかもわからず、俯きがちに彼を見上げて、ただ小さく首を傾げた。 「しょうがないだろう。今日の朝、急に社長が持ってきたんだ。断れるか。」  山下さんも腰に手を当てて、深くため息をついた。薄々わかってきたが、この人は非常に苦労をしているんだなぁ……。 「まぁ地方が嫌なら自分でどうにかするんだな。向こうは方向性もお前ら若者の意見を踏まえて決めたいと言っているんだ。」 「ははっ、もち。当たり前じゃん。絶対行かないから。」  何か考えがあるのか、意地悪く、ニヤリと笑うこーくん。 「じゃあ俺はこれで帰る。何かあったら連絡する。こんな時に夏休みだとか言って急に四日間も休みやがって……休み明けは覚悟していろよ。」 「えーーー、俺が休むんだから、山下も休めばぁ?」 「俺は忙しいんだよ! じゃあな!」  乱暴にリビングのドアを閉める。その大きな音に思わず肩を縮こませて目を瞑る。すると、唇に柔らくて温かいものが当たった。認識した瞬間に何か別の生き物が僕の口をこじ開け、僕の舌をつついた。 「んっ……んんっ!?」  目を見開くとこーくんの眠るように閉ざされた瞼がすぐ目の前にあった。まつ毛が長い。だんだんと頭が痺れてぼぉっとする。なんとなく、あぁ、このまつ毛がきっと彼をこの世のものではないような眼差しをさせているんだな、と、そんなことを考えた。考えていると、僕を蹂躙することに満足した彼の舌が離れ、最後に僕の舌をじゅるる……と音を立てて強く吸い上げ、ちゅぽんっと糸を引いて離れていく。 「ごめんね。可愛かったから。」  ぽかんとする僕に優しく微笑むと、「さ、俺がかずくんに見せたいのはここからだよ。まだまだ驚かせたいんだからっ。」と言って僕を軽々と抱き上げた。   「ここは俺の部屋ね。」  リビングから離れ、先程入ってきた玄関とを繋ぐ廊下とは別の扉へ向かうと、廊下に出て、また扉が並んでいた。そして驚くことに、リビングからこの廊下を仕切る扉はスライド式の自動ドアだった。  僕をそっと下ろすと、右側の一番手前の扉を開いて、中を僕に見せてくれた。僕の四畳半の部屋の10倍の広さはある…………部屋の中央には勾玉のような丸いフォームの背の低い長机、ひと目でわかるくらいふかふかなソファ、壁に収納されているタイプの大きなクローゼット、大きな収納棚、壁際にはデスクとデスクトップPC、その手前には高級そうで背の高いコンボが二つ、さらにデスクの奥には大きくて漫画本が多く並ぶ本棚、そして何故か人をダメにするソファ……羨ましいっ!  部屋は広いが家具は決して多くはない。それでも何となく男性らしい部屋だ。奥の壁にはこれまた大きな出窓があり、まるで絵画のように美しい夜景が広がっていた。その窓際には、僕は詳しくないので何という種類なのかは分からないが、小さなサボテンがぽつり。ソファと長机の前には壁に設置するタイプの大きな薄型テレビ。これは何インチだろう。僕の家には節約のためにスマートフォンを買う代わりにテレビのある生活を犠牲にしたのでテレビがない。自分で選んで買ったことも、むしろ憧れて店頭で見ることもしなかったのでサイズと値段がわからない。薄くて大きいと、高いということだけは知っている。 「まあ、何にもないよね。あ、この向かい側にはかずくんの部屋があるよ。間取りは俺と一緒。まだ何も置いてないんだけど、かずくんの荷物を見てから、必要な物は揃えようね。」    そう言って向かい側の扉を開く。なるほど、まだ何も設置されていないために、先ほどの部屋よりも一段と広く感じる。それでも夜だからか、非常に寂しい感じがした。  彼の部屋の隣には彼の衣装部屋があった。さすがモデル。自室のクローゼットだけでは足りないみたいで、その衣装部屋は自室と同じ広さで、その中で特に目立ったのは大きな姿見鏡だった。やっぱりモデルは違うなぁ。 「じゃーんっ! ココがかずくんの仕事場です☆」  その向かい側、僕の部屋の隣には僕の仕事場として使う書斎があった。彼が得意気に扉を開くと、そこには壁一面の本棚と、一番奥にはデスクと何だかとても高そうなデスクトップPC、中央にはソファベッドとテーブル。 「どお? 今の家より快適に書けるんじゃないかな? 本棚もいっぱい用意したから、ぜひ使ってね!」  ダンボールの上で中古のノートパソコンを開く僕の家とは大違いだった。 「そ、そりゃそうだけど……あの、こんな良い場所に住むなんて……。」 「いいのいいの! かずくんのためなんだからっ。」 「それに……僕、まだここに住むなんて言ってないんだけど…………。」 「え? 何か言った?」 「い、いえ……何も……。」  有無を言わせない彼の笑みに、僕俯いては押し黙る。  その後、彼はリビングに戻って、浴場を案内した。浴場も僕の家の何倍も広くて、浴槽は僕が二人寝転んでも余裕なくらいの大きさで非常に感動した。まるでホテルの大浴場だ。 「広い……!」 「やっぱこんなに広いと、二人で入ってもベタベタイチャイチャできないかなぁ……。」 「……え?」 「え?」     次に寝室。キングサイズのベッドが一台。部屋にはバルコニーが付いていた。触ってみると僕がいつも寝ている薄い敷布団とは違って、ふっっっかふかだった。 「す……すごい……! ふかふかだし、広い!」 「ここで毎晩一緒に寝ようね♥」  目を輝かせる僕の腰を抱いて、彼が耳元で呟く。 「え、いや、あの……。」 「え?」 「あ、あぅぅ……。」                 「さ、案内はこんな所かな。さすがにかずくんがいつも持ち歩いているノートパソコンのデータまでは持ってきてあげらなかったから、後で書斎のデスクトップにデータを移しておくと良いよ。お腹は空いてない? ご飯食べる?」  僕らはまたリビングのソファに座った。大きなコの字型のソファで、窓際のソファには背もたれが無く、景色を一望できるようになっていた。 「あ、あの、今日家に帰るってことは……。」 「家? かずくんの家はここでしょ?」 「やっぱりここに住まないといけないんだ……。いや、あの……僕には契約している家がありまして……。」 「あぁ、あの古いアパートね。もう明日解約するって話は大家さんにしてあるからさ、業者も手配したし、お昼頃に向かおうか。」  あ〜〜〜、また話が変な方向に進んでる……。 「そうではなくて……僕、その家に帰りたいんですけど……。」 「えー? かずくんは今日から僕と一緒にここに住むんだよ?」 「えぇ……。」  もう話が繋がらなさすぎて何て言ったら良いのか……。  僕は頭を一生懸命回転させて、彼に何て言ったら良いのか考えた。 「あ! あの! 僕たち初対面だし、いきなり一緒に住むって言うのは何だか変な話じゃ……、あ、あ、あ、ありませんか……?」  説得させるために彼の目を見たいのに、やっぱり怖くて彼の方すら見られず、少し顔を上げては俯くことを繰り返す。    すると、彼がソファにお尻を滑らせて近寄ってきて、僕に身体を擦り寄せた。彼の綺麗な顔の綺麗な顎が僕の肩に乗せられて耳に吐息がかかって、「ひぁっ……!」と思わず声が出てしまった。 「かずくん。おれのこと、きらい?」  泣きそうな声が、僕の頭の中に直接響いてきて、身体がぶるりと震える。 「き、嫌いとか、じゃなくて……、僕、君のこと、何にも知らないし……。」 「俺はかずくんのこと知ってるよ。かずくんのこと大好きだし。 」  彼がちゅっとリップ音を立てて、僕の頬にキスをした。僕はグッと目を瞑って、拳を固く握って、今世紀最大の勇気を捻り出した。 「きゅ、急にこんなことになって、め、め、迷惑なんですっ……!」  彼に会ってから短い時間の中で、恐らく一番大きな声が出たと思う。僕の本心を察したのか、彼の気配がゆっくりと離れていった。恐る恐る彼を見上げると、困ったように、それでも優しく微笑んだ。   「ごめん……嫌われたいわけじゃないんだ。でも、かずくんのこと好きなのは本当だし、強引なのもわかってる。でも、絶対に離したくないんだ。」  彼から目を逸らすのは初めてだった。その何気ない仕草に、僕の元からの性分からか、心が苦しくなる。僕は人と関わるのも苦手だけれど、人から見られなくなることも悲しくなってしまうのだ。    綺麗な夜景を見つめる彼は、切ない顔をしていた。本当に夜景を見ていたのかはわからない。どことなく遠い目で、別の何かを思い描いているようだった。  出会ってから先ほどまで、ニコニコしていたのに、急にそんな顔をされてしまうと僕だって困ってしまう。僕のコミュ力だと、それ以上何も言えなくて、二人で黙り込んでしまった。次に口を開いたのは、彼の方だった。 「俺、今日初めてかずくんと会ったけど、でもずっと前からかずくんのことが好きだった。だから今日かずくんに会えることになってから、すごく楽しみにしてたんだ。」  その綺麗な表情はまるで、映画に出てくる俳優さんのよう。   「それで、会ったら絶対に離さないって決めてたんだ。」  そう、そこからがおかしいんだよなぁ……。 「僕のことが好きって……どうして……。」  すると、彼は僕の方を振り向いて、またキラキラした笑顔を見せた。 「かずくんの本! デビュー作からずっと読んでる!」  得意気に言うと、ソファに手をついて、ズイッと僕に上半身を寄せてきた。 「デビュー作の『孤独の崖』、めちゃめちゃ好き! 俺、小説とか全然読まないし、読むと言ったら漫画か雑誌なんだけど、でもせんせーの小説はすげぇ好き!」  興奮したのか、僕のことを〝かずくん〟から、初対面の時のような〝せんせー〟呼びに戻っていた。    『孤独の崖』。これが僕のデビュー作。僕が生まれて初めて書いた物語で、執筆中の僕は悲しみに打ちひしがれていた。八つ当たりのように書いた話だ。思い出したくもない黒歴史だし、タイトルのように、本当に孤独で、崖っぷちだった。それからは物語を書くことがストレス発散になってしまっていた。しかし、学費を払うお金が欲しくて、教授からのアドバイスもあって、書き溜めていたものを多少加筆修正して時系列順に応募していたら最初で当たってしまったのだ。   「デビュー作から、その次も、その次も、せんせーの話には全部心をガシッと掴まれて、俺、この話はどんな人が書いてんだろって、『孤独の崖』のあとがき読んだんだ。せんせー、あとがき嫌いでしょ? あれ以来解説しか載ってないし……。」  僕は彼の言う通り、あとがきを書くのが苦手だった。だって、こんな僕自身の気持ちを書いたって誰も面白くないだろうし、しかも自分の気持ちを言葉にするのことだって大の苦手だった。だから、どうしても、と加藤さんに言われて書いた『孤独の崖』以来、あとがきは書かなかった。 「そのあとがき読んでさ、ぶっちゃけ、あぁ〜この人絶対根暗だなって思った。でも『孤独の崖』自体がそういう人の話だったじゃん。良い意味で期待を裏切らなかった。そしたら、もしかしたら、この人の心そのものなのかもって思ったわけ。俺が『孤独の崖』が好きだったのは、主人公がどこまでも正直者で、嘘がつけない代わりに人を遠ざけていっちゃう所。人が良くて、何を言われても言い返せない。嘘つかれても全部信じちゃうし、純粋すぎなんだよなぁ〜!」    きっと彼は『孤独の崖』が本当に好きなのだろう。 「俺、母親が女優で父親が映画とかドラマの監督だからさ、芸能界に入るのはガキの頃から決まってたんだ。正直、芸能界なんて陰湿な世界だし、演技なんて自分にできるとは思えなかったから何となくモデルになったけど、本当はモデルも辞めたかったんだ。ファンの子たちの無神経な行動とか、俺を妬む奴らとか色々重なってさ。そしたら、『孤独の崖』が賞を受賞して、世の中で話題になって、何となく書店で見つけて、題名に惹かれて、俺の手元にやってきた。本当は漫画買いたかったのに。でも何年ぶりかに小説を読んだら、これがまた面白くて。人間の弱い部分がたくさん書いてあって、俺からしたら教科書とか聖書みたいなもんに感じたよ。自分にもこんな風に弱い部分があるなぁとか、そんできっと、俺に嫌がらせをする奴も、こんな風に弱いんだろうなぁって思えたり。『孤独の崖』を読んでから、芸能界がそんなに醜い世界には見えなくなったよ。」    「これもぜぇんぶ、せんせーのおかげ♥」と言って、彼は少し照れ臭そうに笑った。まさか、あの話がそんなに人に影響を与えていたなんて、思わなかった。 「まぁ色々話しちゃったけどさ、それでせんせーの作品が好きになって、その後の十一作目まで全部読んだ。あれからせんせーの書く話は、十作目まではずっと〝孤独〟がテーマだった。でも、今年の四月に出した十一作目『向日葵』は、今までにない恋愛小説だった。主人公はやっぱり〝孤独〟だったけど、この話のテーマは〝孤独〟じゃなくて〝寂しい〟って言うせんせーからのヘルプなんじゃないかって思った。」    僕の十作目『向日葵』は、僕が小説家になって初めて書いた恋愛小説だった。加藤さんに、たまには恋愛ものでも書いて見ませんか? と言われて書いてみたら、とても気に入ってもらえて、そのまま流れるように出版されてしまった話だ。高校生の主人公はいつも教室の隅にいるような人だけど、幸か不幸か、彼が好きになったのはクラスでも一番人気の女の子だった。在り来りな話だったけど、僕は近づきそうで近づかない二人の距離を長々と書いたのだ。もちろん主人公は気持ちを伝えることはできないし、ヒロインの女の子の方も、主人公がまさか自分を好きだなんて思ってもいない。そうしたまま、二人は高校を卒業して離れ離れになった。ひと夏しか咲かない情熱の向日葵を好きになった主人公は、その刹那的な美しさが忘れられない。主人公はあの頃の心のまま成長して、その後もずっと独りなのだ。最期は退職金を持って田舎まで引っ込むと、独りのまま、誰にも看取られることなく、ある日突然、生を終えた。   「俺、他の本も『向日葵』も、何度も読み直して、考えたんだよ。『向日葵』は、内容は何となく他にもありそうだけど、でもせんせーが書く『向日葵』は違った。せんせーの作品が今までずっとせんせー自身を反映させたものだったとしたらって考えたら、俺、いてもたってもいられなくなったんだ。だって、『向日葵』の二人は再開しなかったでしょ? もうきっと二度と再開しない。再開したら主人公は孤独じゃなくなる。それはせんせーの一貫した作品のテーマからは外れてしまう。でも主人公は、向日葵に取り憑かれて、寂しいまま歳をとったから、だからずっと寂しいままなんじゃないかって。所詮、俺の勝手な妄想だけどさ……。」  かずくんは少し寂しそうに微笑んだ。   「でも好きな人が哀しんでいるってわかって、放っておけなかったんだ。その頃にはもう、俺の中でせんせー像が出来上がっていたけど、せんせーに近づこうと思って、ありとあらゆる手を使って調べて、一回だけせんせーに会いに行った。遠くから見てるだけだったけど、想像とドンピシャだった。自分でもまさかこんな方向に転んでいくとは思わなかったよ……結局全部自分のためだってこともわかってる。……んー、でも、嬉しかったんだ。だからバカみたいに夢中になってせんせーのこと追っかけてきた。」  こーくんは僕の手を取ると、彼の方大きな両手で優しく包んだ。 「せんせ、ここにいてよ。俺、せんせーを独りにしたくないよ。大袈裟かもしれないけど、あんな風に、独りで死んでいってほしくない。」  あんな風、とは、『向日葵』の主人公のことだろうか。彼はまさに『向日葵』を思い出しているのか、苦しそうな表情を浮かべた。 「せんせーを捨てたりしない。絶対。約束する。まだお互い何も知らないかもしれないけど、何も知らないまま、いなくならないで?」  彼に包まれた手が熱い。しかし、彼の両手は真夏だと言うのに驚くほど冷たかった。彼からの真っ直ぐな言葉たちの返し方を、人と関わることをできるだけ避けてきた僕は、知らない。 「君の手、冷たいね……。」  思わず口から出ていた言葉だった。 「ごめん。俺、冷え性なんだ。」  彼は弱った笑みを浮かべて、悲しそうに僕の手を離した。彼は僕に嫌われてしまったと思っているのか、ずっと叱られた子供のような表情をしていた。それでもその瞳は、僕という存在に、縋っているような目立った。 「……………………わかったよ……。」  随分と間を開けて、僕はようやく口を開いた。途端に、塩らしかった彼が嬉しそうに頬を赤らめて笑った。 「ほ、ほんと? ここにいてくれる?」 「う、うん……。」  小さく、首を縦に振る。 「嬉しい! かずくん大好きっ♥」 「わぁっ!」  勢いよく抱きついてきた彼に突き倒されて、ソファに寝転がる。彼がソファで覆いかぶさってくるのは、今日で二回目だ……。宙に浮いた両手をどうしたら良いのかわからず、何となく彼の背中に置いてみた。彼は「かずくん! 一生大事にするからねっ!」と僕の頬に頬擦りをしている。    こうして、こーくんとの同居生活が始まった。  次の日、本当に僕は前の家を引き払って、ダンボール二つ分しかない荷物を持ってここに来た。せっかくこーくんが手配してくれた業者さんは、持っていく荷物が少なすぎて、予定外の部屋の掃除まで手伝ってくれた。建物は古いが、結構綺麗にしていた方なので掃除も含めて僕の引越しはすぐに終了した。あまりの荷物の少なさに、流石のこーくんも驚いていた。何せテレビもないし、机もダンボールだから持っていく家具なんてなかった。家具自体が少なかった。自分の書いた小説すら置いてなかった。                  正直、僕には、あの日こーくんの言っていたことの半分ほどしか理解できなかった。評価されることは、怖いことだ。だから誰かが書いたレビューを見る気にもならなくて、直接聞いた読者の声は彼が初めてで驚いた。確かに『孤独の崖』は僕が僕自身を書いたものだ。僕からしたら、あの主人公は、つまり僕は、そんな見え方をしてもらえるほど良い人間じゃないように思えるし、あの作品だってそんなに良いモノだとは思えない。  『向日葵』の執筆を始めたのはちょうど一年前の今くらい。暑い夏の中で、暑さが集まった部屋の中で書いていた。僕は生まれて此方、人を好きになったことがない。人と関わることが苦手なくらいだから……。だから『向日葵』を書くのは大変だった。経験したことも無い恋愛を、暑さで焼ける頭を捻って捻って書いたものだ。しかし、結局経験したことがないものを発展させられなくて、結局二人はどんな関係にもならなかっただけ。そう思っていた。執筆テーマだって、明確に決めたことはない。ただ自分が思いついた話を書いていただけだった。彼が分析するように僕の作品は〝孤独〟がテーマなら、それは本当に僕が無意識に〝孤独〟であるということなのかもしれない。そして、僕は『向日葵』で、自分が〝寂しい〟と叫んでいたのかもしれない。わからないけど、嫌いじゃない。そんな、善意で僕に近づいてくれた人物を、僕は冷たくあしらうことができなかった。                

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