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第89話 ナ
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電車に揺られる間、静夏は何も話さなかった。衣澄は膝の上で拳を強く握った。拳に爪が刺さると、何も言わず静夏が衣澄の拳に白い手を乗せた。傍から見ると、自分達はどう見えるのだろう。カップルだろうか。それとも、顔を見ればすぐに兄弟姉妹 か双子だと思うだろうか。
「わたしが、痛い、ですわ」
明確な痛みはないけれど、微かな精神的な痛みを静夏は感じるのだろう。
「すまない」
「悔しいですわね。とても・・・・」
ゆったりとした語調は電車の騒音で掻き消されてしまいそうだった。
「ああ」
「でも、貴方が思い詰めることでは、ないのではないですか?」
静夏は衣澄の拳から手をどかした。
「・・・そうかも、しれないな。だが、俺は、学級委員としての責務どころか、いとことして、何も果たせない」
「責務・・・・?いとことして・・・?」
静夏の声は低い。
「貴方は、そうでしか、人と接せないのですか?」
「どういうことだ」
「貴方は、1人の人間として、接せないのですか?学級委員とかいとことか、そういうのが、必要なのですか?」
「俺には、必要だ」
「俺には・・・・・?」
静夏には似つかわしくない言葉。聞き返すなよ、と思う。そしてそれを静夏が察してくれればと思う。
「俺は、貴女たちとは、違うんだ」
電車の中はがらんとしていた。他人は他人の世界を持っているようで、誰も誰かに干渉する様子は無い。干渉する役柄がないから。
「どういうことですの」
「――・・・・・・」
酒瓶が頬を殴った。茶色の髪が額を打つ。表情の無い顔が自身を見下ろした。
「お前みたいなのは、もう死んだ方がいいな」
自身の父親、と聞かれると衣澄は、「表情が無く暴力的」以外にイメージが浮かばない。同じ顔をした弟には笑顔を向けるのに。
「ごめ・・・なさっ・・・!ごめっ・・・・」
同じ顔をした弟と違うこと。髪が薄い茶色であること。周りの子より知りたがりであること。
「死ね!死ね!」
父親は体勢を崩した自身を踏む。何度も踏んで、起き上がる気力が無くなるまで続いた。安いアパートの床は、軋む。天井からは埃が舞い落ちてくる。母親は部屋の隅で、弟と姉を抱き締めて咽び泣いていた。その顔には痣や傷がある。
「邪魔なガキだな」
弟と姉に、父親は手を上げなかった。自身が手を上げさせなかった。
「もう・・・・お願い・・・・!もう許して・・・!」
「うるせぇ!この畜生女が!」
姉が怯えて、弟はもう泣いている。母親は2人を抱き締め、震えていた。父親の標的が母親に向かう。助けなければ。自分が。
「や・・・・・め・・・・っ!」
母親が父親を見上げる。姉も弟も巻き込まれてしまう。
「と・・・・うさん・・・・やめ・・・」
父親のズボンの裾を引っ張り、標的を自分に向ける。
父親は、自分が嫌いなのだ。子どもの割りに、落ち着いていると薄気味悪がる。甘え方も知らない。
「オレはお前らみたいな畜生の父親なんかじゃねぇよ」
本で読んだことがある。昔の話だ。昔は双子や三つ子は忌み嫌われていたんだそう。自分と同じクラスにも1組の双子がいるけれど、現代はそんな影は一切ない。実際に自分達も周りからはちやほやされているのだから。けれど父親は、自分達が三つ子であることを恥じた。
酒瓶を振りかぶる父親の影が迫る。無表情の顔が自身を見下ろす。
電話が鳴った。
「電話が・・・・・っ」
助かると思った。けれど父親は電話になど気にも留めなかった。
「・・・・・ごめんくださーい」
その場にそぐわない幼い声が、響いた。
「ごめんくださーい!しーちゃーん。そうちゃーん。せいちゃーん」
いとこの“かーくん”だ。
「静詩、出ろ」
振りかぶった酒瓶を父親は肩にぽんぽんと当てた。自分は急いで安いアパートの玄関を開いた。
「みりとスイートポテト作ったの。よかったら食べて~?」
自分と同じくらいの背丈の少年が立っている。泥まみれの短パンと半袖のシャツ。無邪気に笑ういとこの姿。タッパーが差し出される。中身を確認する。5人分。
「ありがとう、かーくん。美味しくいただくね?みりちゃんにもありがとうって言っておいてくれる?」
みりちゃんという“かーくん”の幼馴染み。幼稚園でも同じクラスだ。
「うん!」
無邪気な“かーくん”をいつも、羨ましいと思っていた。
「バイバイ!」
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