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第109話 メ ※
チャイムが鳴る。放課後だ。長沢はのそのそと歩いた。小田桐と天城が救急車で連れて行かれた後からずっとこうして校内を徘徊している。
正気でない長沢に誰も近寄らない。誰も近寄らないし声も掛けない。穏やかな挨拶をする優等生の姿はそこに微塵もない。これは長沢が望んだこと。長沢が望んで、自らやったこと。
口内の他人の体液の独特の甘みに満足しながら焦点の合わない瞳で2年の廊下を歩いた。
志織。あの子は2年だった。サンダルの色が2年だった。
長沢は壁伝いに歩く。教師は各々のクラスから長沢を見たはずだ。それでも誰も声を掛けないのだ。
好んで服用していた薬を無理矢理に絶たれた後は、もうただ考えもなしに動くだけ。表沙汰にはならない。揉み消されたからだ。
「志織・・・」
憧れの女がやっと目の前に現れた。すぐに連れて行かれたけれど。でもまた帰ってくるはずだ。だから待つのだ、2年の教室で。2年の、何組だ?
「志・・・」
静かな教室が目に入る。誰もいない。帰りのSHR もない。誰もいない。けれどいる。長沢は千鳥足でその教室に入っていく。表札にはF組とある。
「志織ぃ」
きっと志織はこの教室に帰ってくる。そうだ。違いないのだ。
倒れている人につまづく。吐瀉物が広がり、匂いが鼻を刺すが長沢には気にならない。
「邪魔だぞぉ」
真っ白い顔に濃い隈を倒れている人間に向けた。
「くそがきが」
素っ裸の生徒が仰向けで寝ている足元に長沢は座った。窓を見つめながら、志織を待つことに決めた。
「お前、志織じゃねぇよなぁ?」
腹部が少し膨らんでいる。長沢は仰向けに寝ている生徒の腹を押した。白濁した液体と半透明な液体が流れ出てきて床を汚し、空気が漏れる音がした。
志織は腹が膨らんでいたような気がする。長沢はそう思った途端に頭を掻き乱した。志織のビジョンが出てこない。志織は痩せていたし、志織は腹が膨らんでいた。どちらが果たして志織か。頭を押さえて呻いた。こいつが志織か。志織でないのか。それとも志織を喰ったのか。
「誰ですか?」
教室に戻ってきた黒髪の子どもが声を掛けてきた。長沢は声の方に頭を向ける。黒髪の子どもだ。志織と自分の子だ。長沢は笑みを零す。かわいい息子だ。そうに違いない。
「おいで」
かわいい息子が鼻をすすりながら泣いている。
「パパのところにおいで」
志織と長沢の名、実秋 からとって、秋織だ。そうに違いないのだ。容姿は自分譲りの黒髪なのだろう。少しカールしてるのは志織譲りか。いや、志織は自分と同じストレートヘアのはずだ。
「・・・長沢先輩・・・ですよね・・・?」
志織はストレートヘアで、自分もストレートヘアだ。
「不義の子だな!」
長沢は怒鳴りだした。息子はびくりと肩を震わせて、信じられないという表情で長沢を見た。
「志織・・・!間男がいたのか!」
長沢は仰向けに寝ている生徒に怒鳴りつけた。
「秋織!お前は息子じゃない!」
「長沢先輩・・・・?僕は、樋口です・・・」
長沢の息子は長沢を戸惑いの表情で見て、恐る恐る仰向けに寝る生徒に近付いた。
「長沢先輩・・・前みたいに戻ってください・・・」
長沢の様子を警戒しながら、長沢の息子は仰向けに寝ている生徒に近寄り、濡れたハンカチで身体を拭きだした。泣きながら鼻をすすって生徒の身体を拭く息子に、長沢は居た堪れない気持ちになる。
「いじめられたのか、秋織」
「誰にいじめられたんだ、秋織。パパが殺してきてあげよう」
息子は不義の子かもしれないが、不義の子ではないかもしれない。それよりなにより、愛しい志織の血を引いているのだ。
「長沢先輩・・・」
「誰にやられたんだ。不義の子だからといてひどすぎるぞ、殺してきてやろう」
息子は仰向けに寝ている生徒の顔に付いた吐瀉物を拭きだした。
「誰だ、パパに言いなさい。殺してきてあげよう」
息子は口をぱくぱくしながら長沢を見上げた。
「長沢先輩・・・・何言ってるんですか・・・」
大粒に涙を零す息子のもとに寄って、涙を拭う。
「かわいそうに、秋織。パパは秋織の味方だよ」
息子は長沢の手を払って、仰向けに寝る生徒の下腹部を拭きだす。
「秋織。こいつはママじゃない。ママを喰ったんだ」
息子の手の上に長沢は手を置いて制する。騙されたままなんていくらなんでも息子がかわいそうだ。つらいけれど、真実を教えなければ。
「正気に戻ってください、長沢先輩!」
息子は長沢の胸倉を掴んだ。迫力はない、かわいらしい息子。逞しくなったのだ。長沢は感心した。
息子はすぐに長沢を放して、また寝ている生徒の身体を拭き始める。
「お前のママは食われたんだよ。ほら、見ろ。こんなになってしまった」
さきほど寝ている人の腹を押したときに出てきた液体を指で掬って、息子に見せる。志織は食われ、液体になって腹から出てきたのだ。
「昔お前に聞かせただろう、ヤギとオオカミの話だ。あのときは、オオカミの腹に石を入れたな?」
長沢は志織だったものを両手で掬い、愛おしそうに眺める。息子は目を見開いて、震えだす。
「高宮君に・・・触らないで・・・ください・・・っ」
「秋織、ママを失ったのはつらいな?でもお前がパパの血を引いてないと知って、パパもつらいんだ」
息子の頭をそっと抱く。志織だった液体がカールした黒髪に付着した。震えだす息子がかわいそうで、なお力強く長沢は抱きしめた。
「長沢先輩・・・そんな人じゃなかったのに・・・」
腹を押せば、どろどろとした白濁と、半透明なさらさらとした液体が寝ている生徒の穴から溢れだす。
ざわめき始めてた廊下に、息子は慌てて教室のドアを閉めた。
「長沢先輩、静かにしていてください」
「秋織、かわいそうだ。お前は最高にかわいそうな子だ」
息子はとうとう志織だったものを拭く作業に入った。寝ている生徒の脚の間に手を伸ばし、すでに汚れているハンカチで拭き始める。
「秋織、志織と最後にお別れをさせてほしい」
愛しい女だった。長沢は涙を堪える。息子の前で泣くわけにはいかなかった。目を閉じ、合掌。
「やめてください、長沢先輩!」
息子は長沢を強く押した。
「高宮君は生きてます・・・!」
息子は寝ている生徒に今度はジャージを着せる。それから背に手を当て、膝裏に腕を通して持ち上げようとするが、体格が違って上手くいかないようだ。健気でかわいそうな、自分の血を引かない息子。けれど志織に似ていて、冷たくあしらえない。やはりかわいい息子なのだ。
「秋織、パパが運んであげよう」
息子の前にきて、背を向けて屈み、背負わせるよう促す。息子は躊躇った。遠慮しなくていいのだ。どこまでも謙虚で素晴らしい息子。長沢は痛く感心した。自慢の息子だ。
「遠慮しなくていいんだよ」
息子は一度だけ驚いた表情をしたが、すぐに悲しい顔で長沢を見た。そして背に生徒を乗せる。重い。けれど息子が持つにはあまりにも重すぎる。
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