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第5話
むうっと和臣が唇を突き出す。
「そんなことより、店の名前。どういう意味だ」
「さくらんぼの種ってそのまんまですよ」
上品に答えた翔太はハスキーボイスの女性としか思えぬほど、しぐさもはんなりとして美しい。
「チラシも完成しているんです」
そう言って翔太が取り出したのは、なかなか上手なイラストの描かれた片面刷りのものだった。B5サイズのフルカラーチラシを手にした悟は、簡単な地図とざっくりとしたメニュー紹介、男の娘カフェという文字と店名をながめる。
「なかなか上等なチラシだな。この絵は誰が描いたんだ?」
「翔太だよ。翔太は絵がうまいんだ」
テーブルに身を乗り出して、斗真が答える。
「へえ」
「そんで、俺がブログを開設して、充が衣装担当だろ。そんで和臣がお菓子作りとか経理とか、残りのいろいろって分担なんだ」
「それで俺は、飯と用心棒を担当ってことか」
チラシにはドリンク数種とケーキ各種、日替わり料理と記載されている。
「ね。せっかく着替えたし、チラシもあるんだから配りに行こうよ!」
言いながらイスから降りた充がチラシの束を掴む。
「その前にブログ用に撮影しようぜ。石場さんも、写真をサイトに載せていいか?」
「いやぁ、俺は遠慮してぇな」
デジカメを取り出した斗真に断りを入れて、悟は彼等ひとりひとりの撮影をながめ、どうせなら三人そろって撮ればどうだとカメラマン役を買って出た。
数回シャッターを押してデジカメを斗真に返す。画像をチェックした斗真は、一気に上げずにちょっとずつ更新すればいいなと満足気にカメラを片づけた。
「よし。そんならチラシを配りに行こうぜ!」
「あ。経費とかのチェックをしたいんだけど」
「それは和臣にまかせる。オーナーは和臣だし、なぁ」
「俺も斗真に賛成だよ。翔太は?」
「僕もそれでかまわないけど」
チラリと翔太に流し目を向けられて、悟は「俺は行かねぇぞ」と苦笑した。
「価格設定のこととか、社会人として働いている俺が相談に乗った方がいいしな」
「それもそうですね。じゃあ翔太、俺たち三人で行こう」
充が翔太の腕に腕を絡めて、嫌味のない甘え方をする。自然とそうできる彼の気質に、悟は感心した。
「ほら、行こうぜ。翔太」
ぽんっと斗真に肩を叩かれた翔太は後ろ髪を引かれる顔で了承し、三人は連れだって出て行った。
(翔太はなんか、言いたいことでもあったのか? けどまあ、そういうもんがあったとしても、斗真ならうまく引き出して聞くだろう)
彼等の特質をなんとなく把握しはじめた悟は、テーブルの上に残された彼等のノートやタブレットに視線を落とした。
「いつから準備してたんだ」
「えっ?」
「この店だよ」
残されたノートはそれなりのページが使われているし、適度にくたびれている。思いつきでできるものでもないので、以前から構想を練って準備をしていたはずだ。
「去年の秋ごろかな。ニュースのなかで、こういうものがありますって紹介をするコーナーがあるだろ? それで、定休日に店舗を借りて夢を実現させている人がいるっていうのを観たんだよ。それなら在学中に、いろいろと実践的な勉強ができるかなって思ってさ」
「ふうん。まあ、紙の上であれこれ考えるより、やってみるのが手っ取りばやいわなぁ」
同意しながら悟は頬杖をついて、和臣のノートを見た。そこには几帳面な文字が並んでいる。
「あの連中を選んだのとか、この場所に決めた理由は?」
「知り合いが、この界隈でコンセプトバーをしはじめたんだ。それで、詳しく話を聞いたら活動支援団体というか商店会というか、このあたりの活性化を目指している団体を紹介されて」
うんうんと相づちを打ちながら、悟は話の先をうながす。
「せっかくだから話だけでも聞いてみようかなって思っていたら、手伝いならするってあいつらが言ってくれて。ダメで元々だって話を聞きに行ったら、ここが土日祝なら貸出してもいいって言ってるって教えられたんだ」
「なるほどなぁ。そういう流れには乗ったほうがいいな。やりてぇことなんだしよ」
「うん。それで、やるなら本格的にやりたいなって思ってさ。この店の持ち主からは、貸し出すのははじめてだから、じっくり相談してから貸し出したいって言われたし。しっかりと準備に時間をかけたくて、すこしずつ進めていたんだ。金銭的な問題もあったしさ」
「大事な資金を、俺は知らずに貸してくれっつってたってわけか」
はずれ舟券に変わった千円札に思いをはせる悟に、ほんとそれなと和臣が半眼になる。
「まあでも、そのぶん手伝ってもらうわけだし。開業手続きも手伝ってもらったし」
「ん? そんなもん手伝ったか」
「税務署に書類を提出するの、手伝ってくれただろ」
「ああ、あれってそうなのか。てっきりバイトの金の申告だと思ってたぜ」
「やるならきちんと帳簿をつけて、確定申告もしようと思ってさ。準備の経費もきちんと整理したくて。それで車を出してもらったんだよ。知ったの、届け出の期限ギリギリだったから」
「ふうん。まあでも、あれは手伝いってほどじゃねぇぞ。手伝いってのは、これからのことだろ。おまえが店主ってことになるんなら、バイト代だとかなんだとか、いろいろとややこしい手続きとかがあるんじゃねぇか」
「うん、まあ……そのあたりは税務署が新規に事業をはじめる人向けに、無料の勉強会を開いてくれたから。そこでいろいろ税理士に質問をして、だいたいはわかってるんだ。あとはやってみて、わからないことができたら調べるかなんかして、それでもお手上げになったら税理士に相談をするつもり」
「タダじゃねぇんだろ?」
「勉強会は終わったからな。相談料を支払うことになるから、なるべく自分で調べるとか、誰かに聞くよ。まあでも、そのへんは聞ける相手がいるから」
「そうか」
ふうんと腕を組んだ悟は「まあ、いいや」と破顔した。
「俺も乗せてくれて、ありがとな」
「え」
「後で知ったら、水くせぇって拗ねてたところだ。いっしょに店をやろうって、ガキんときになんべんも俺に言ってたの覚えてるか? あ。もしかして、その約束があったから俺に声をかけたのか」
冗談めかした悟に、和臣が「借金の分、こき使えるからちょうどいいと思っただけだよ」と憎まれ口を叩く。
「ひょろっこい奴等ばっかりだし、こういう店だ。変な客もけっこう来るだろうからな。用心棒も兼ねつつ、売り上げ貢献にうまい飯を作って支えてやるよ」
「悟」
不安のにじむ感謝の眼差しを向けられて、悟はドキリとした。胸が鼓動に激しくノックされて顔をそらす。
「そんで。いつまで女装をしてんだよ。なんか、妙な感じがするじゃねぇか」
「気持ち悪い?」
「そうじゃねぇよ」
「まあ、知り合いの女装なんて、気持ち悪いだろうけど」
「だから、そうじゃねぇって。なんつうか、どっからどう見ても女にしか見えねぇから、妙な気を起こしちまいそうなんだよ」
ポカンとした和臣が真っ赤になり、悟もつられて赤くなった。
「ああ、だから……その、見慣れてねぇから変な気分なんだよ」
「じゃあ、はやく慣れてもらわないとな」
「へ?」
「開店したら、ずっとこれだから」
「ああ、そっか」
じっと和臣に見つめられ、悟はドギマギした。
「なんだよ」
たじろぐ悟に、和臣がニヤッとする。
「それはそれで、かわいいんじゃないか」
「は? 俺がか。どんな趣味してんだよ、おまえ」
あきれる悟に、和臣がクックッと喉を鳴らす。
「いい趣味だろ」
「最高にな」
冗談として流しつつ、悟は立ち上がった。
「コーヒー、淹れてくる。使っていいんだろ、あれ」
「ああ。俺の分もよろしく。ついでに試食でケーキも作ってきたからさ、あいつらが戻ってきたら食べようぜ」
「おう」
厨房に入った悟は胸に手を当て、ふうっと息を吐き出した。だいぶ落ち着きはしたが、それでもいつもより鼓動がはやい。
目を閉じると、上目遣いの和臣がまぶたに映った。胸と腰のあたりがザワザワうずく。
「マジで妙な気を起こしちまいそうでヤベェな」
つぶやいた悟は頭を振って、コーヒーの準備をはじめた。
事前に配ったチラシの効果と定期的なブログ更新のおかげか、チェリーシードはオープンからそこそこの客足を迎えていた。SNSでの評判もよく、はじめは物見高い気持ちでやってきた客も、ケーキや料理の味に満足をしたと言い、それが画像つきの口コミとしてネット上で広がっていくと、食事を目当てに来る客が増えてきた。
悟は料理の注文が入らなければ、座敷の端に腰かけて過ごすのが定位置となっている。どこからどう見ても三十過ぎのオッサンが、ほかの従業員とおなじ制服に身を包み、短い髪にちいさなリボンを着けている姿に、はじめはギョッとしていた客も慣れるとおもしろがり、むしろそれを見るために来たという客も出てきた。そんな客たちを昔からの友人のように扱う悟の人なつこさに、リピーターとなる客もいた。
しかしメインはやはりコンセプトカフェに来た、という客がほとんどで、メイドカフェとおなじく店員のファンとしての来客が多かった。その中でも一番人気は翔太で、彼に給仕をされたいがために店を訪れた者は、うっとりと彼の姿を目で追いながら静かに茶を喫していた。
(アイドルに会いに来たファンっていうより、高嶺の花をながめに来たって感じだな)
そんな客の姿を、悟はそう評した。ほかの――斗真や充のファンらしき客は陽気に楽しく、飲食をしながら彼等とのわずかなやりとりを楽しんでいる。しかし翔太のファンたちは、身分違いの高貴な相手を見つめる顔つきをしていた。給仕をされようものなら、それこそ恐縮したように身を硬くちいさくし、恍惚と幸福をかみしめながら過ごしている。
(まあ、わか……らなくもな、い……かも、な)
理解に苦しみつつも、納得できないわけではない。いまのアイドル観とは違ったものを、翔太のファンは持っている。そうならざるを得ない雰囲気を、翔太は持っていた。
気さくな斗真や人なつこい充、如才なく客をあしらう和臣に対する客は親しみをにじませている。けれど翔太を相手にすると、誰もがふわりと現実から浮き上がった顔になってしまう。
(役に入りきってるっつうか、現実味がねぇっつうのか)
うまく言えないが、違う世界という雰囲気がある。
(おもしれぇなぁ)
それなのに浮いていないというのは不思議だ。客から聞いた話では、ほかのコンセプトカフェなどでも、そういう店員がひとりいると強いのだとか。
(いろんな商売があるもんだ)
そう思いつつ、悟は仕込みのために誰よりもはやく店に出勤する。というのは方便で、彼等とともに着替えをするのは、なんとはなしに気恥ずかしくなるので時間をずらしたいという気持ちからだった。
彼等の制服姿を見慣れはしたが、着替えに遭遇するのは女性の更衣室を覗くのに似た罪悪感が胸にきざす。なので仕込みを口実に、悟は誰もいない店で着替えをすませてしまうことにしていた。
「いっそのこと、料理人に戻るかなぁ」
軽い気持ちで引き受けた仕事が、想像以上に楽しくてしかたない。制服に袖を通しつつ、今日はどんな食材が残っているかと考える。買い足すこともあるにはあるが、たいていはあるものだけでメニューを決めていた。どんな料理を出しているのか、店の持ち主が食べに来たこともある。ガンコそうな顔つきの初老の男は悟の恰好にギョッとしつつも、料理の味には満足をしてくれた。そしてレンタル代金はそのままで、使ってもいい食材の種類を増やしてくれた。
自分の年齢ほどの歳月を料理人として生きている相手に認められた。
それは悟の心に興奮と高揚を生み、さきほどのつぶやきとなってあふれ出た。
鼻歌交じりに着替えていると、階段を上ってくる足音が聞こえた。
誰だろうと顔を向けるのと、翔太が姿を現すのは同時だった。
「なんだ、どうした」
なんとなく和臣だと思い込んでいた悟は目をパチクリさせた。
「ちょっと買いたいものがあって、はやめに家を出たら時間が余っちゃったんです」
本屋のビニール袋を持ち上げた翔太に、悟は納得した。
「ここならコーヒーもタダだし、ギリギリまで本を読んでいられるもんな」
「本に夢中になって時間を忘れると困りますしね」
言いながら翔太が着替えをはじめたので、悟は彼に背を向けた。
「ああ、そうだ。あのさ」
この機会に、気になっていた聞きにくいことを聞いてしまおうと、ズボンを脱ぎながら背中越しに質問をする。
「おまえら全員、男が好きなのか?」
女装をするのは恋愛対象が男性の男だけだと悟は思っていた。しかしどうも、彼等を見ているとそんな気がしない。どうして女装をするのか和臣に問うてみようと思いはするが、なかなか口に出せなかった。
(翔太になら聞いても平気そうだ)
そんな気が働いた悟の背中に、そっと翔太の手が触れる。ゾワッと甘い悪寒が悟の背骨を走った。袴を穿こうとしていた手を止めた悟に、翔太が普段と変わらない声で答える。
「かわいくなるのが好きな、おしゃれを楽しんでいるだけの人もいますし、男の人が好きな人も、男女とも恋愛対象な人もいますよ」
「そ、そうなのか」
和臣はどれなのかと喉の奥に引っかけたまま、悟は口をつぐんだ。背中に触れている翔太の手が、するりと悟の腰を撫でる。ゾワゾワッと肌を震わせた悟に、翔太が忍び笑いをもらした。
「和臣のことが気になるんですか?」
「な、なんで」
ギクリとした悟の前に、ふわりと翔太が現れる。ショーツ姿の翔太に「うわっ」と声を上げて、悟はのけぞり尻もちをついた。
「どうして、そんなに驚くんですか」
「だ、だって……おまえ、その、それ」
指をさされた翔太は、涼しい顔で悟の脚の間に座った。
「僕の下着、おかしいですか?」
「お、おかしいっつうか、なんつうか……おまえ、ほんとに男かよ」
真っ赤になり、バツが悪くなって顔をそむけながら吐き捨てると、ケラケラと翔太が笑う。はっきりと声を立てて笑う翔太に、悟はますます居心地が悪くなった。
「ウブなんですね、悟さんって」
そっと膝の上に手を置かれて、悟は身をこわばらせた。
「いきなりで驚いただけで、俺はドーテーじゃねぇぞ」
「ええ。それは……わかります」
翔太の手が悟の太腿を滑る。淫靡な気配を指先に感じて、悟の一部に血が集まった。
(ちょ、俺……なに硬くなってんだよ)
ボクサーパンツがふくらんだ。気づかぬはずはないのに、翔太はそれを指摘することなく平然としている。
「僕のこれは、ちゃんと男用の下着ですよ。男性用ブラジャーとかショーツとかがあって、女性のものみたいにフリルやリボンがついているんです」
「へ、へぇ」
「悟さんもつけてみたらいいですよ。胸の筋肉、支えられると背筋もピンと伸びますし、似合うんじゃないですか?」
「冗談。俺みてぇなのに、そんな下着が似合うかよ」
鼻先で笑い飛ばした悟はなぜか、金縛りに遭ったように動けないでいる。
「そうかもしれませんね。悟さんのはおおきいから、はみだしそう」
どこのことを言われているのかは明白で、悟の肌がカッと熱くなった。
「まあな!」
わざと得意気に鼻を鳴らして強がった悟の脚の付け根を、翔太の指が這う。
「僕も、おおきくなったら出てしまうんですけどね……さきっぽが。見てみますか?」
「ばっ、なに言って」
あわてた悟はそらしていた目を翔太に向けた。妖艶な翔太のほほえみにクラクラする。
「ふえっ」
冗談ではなく本気なのだと、翔太の指が悟の股間に伝えた。袋の裏から先端までを撫で上げられて、悟の喉から妙な音がもれる。
「ふふ。敏感ですね」
「な、ななな……っ、ば……じょっ、冗談っ」
慌てすぎて言葉を詰まらせる悟に、翔太がそっと身を寄せる。細められた瞳と薄く開いた唇が色っぽく、悟はドギマギした。
「ねえ、悟さん」
吐息交じりに迫られて、悟は喉をゴクリと動かした。
「和臣とは、シたことがあるんですか?」
その言葉が冷水となって、興奮し動揺していた悟の意識を落ち着かせた。
「カズ?」
「そう、和臣」
無垢をよそおった媚態で迫る翔太に、悟はピタリと視線を合わせる。
「カズは、そうなのか?」
急速に喉が渇いて、悟はかすれた声を出した。
「あれ? 知らなかったんですか」
魅惑的に唇をゆがめた翔太に、悟はあざ笑われていると感じた。興奮していた下肢が、引き潮のようにスウッと静まる。
「昔のことはよく知っているみたいですけど、最近の和臣のことはなんにも知らないんですね」
艶然と瞳を濡らした翔太が、口先で勝ち誇る。
「僕は、シたことがありますよ」
ガツンとバットで頭を殴られた気がした。攻撃力の強い言葉に、悟の眼球はパリパリに乾いて固まり、蠱惑的な翔太の笑みから視線を動かせなくなった。
「そ……れは」
和臣と、と言っているのか。
せり上がる質問は、グワングワンと頭の中で響くばかりで外に出ない。いやな汗がじわりじわりとにじみ出てくる。翔太がわずかに身を乗り出して、悟におおいかぶさった。
「それは? なんですか」
質問の先をうながされても、悟は言えなかった。
「なに、やってんだよ」
硬い声が悟の意識を翔太から引きはがした。部屋の入り口に眉間にしわを寄せ、顔を青くした和臣がいる。
「……カズ」
かすれた声で悟が呼べば、和臣はいまにも泣き出しそうな顔を怒りにゆがめて吐き捨てた。
「そういうことをするんなら、ほかの場所でやってくれ」
言い終わらぬうちに、乱暴な足取りで階下へ降りる。
「見られちゃいましたね」
ぺろりと舌を出した翔太は、かわいらしい顔から蠱惑的な気配を消していた。
(翔太も気づかなかったのか……それとも)
わざとなのかと思いかけた自分を制して、悟は翔太の肩を押しのけた。あっさりと翔太は離れた。
「ったく。悪い冗談だ」
やれやれと息を吐いて袴を穿く悟の背中に、どこか挑戦的な響きのあるのんびりとした翔太の声がぶつかる。
「冗談にしたいんですね」
グッと胸を詰まらせた悟は返事をせずに着替えを済ませ、下ごしらえをすべく階下に向かう。
翔太はなにも言わなかった。
階段を降りた悟の横を、顔を伏せた和臣が通って着替えのために二階へ上がる。
「俺はべつになんも――」
言い終わるよりもはやく、和臣は階段を駆け上がってしまった。
ため息をついて厨房に入った悟の網膜に、泣きそうなほどショックを受けている和臣の顔が張りついていた。
――僕は、シたことがありますよ。
翔太の声が鼓膜にこびりついている。
悟は病室の窓から見える、透き通った薄い空を見上げていた。右足はギプスで固定され、吊るされている。
あれは和臣とシたことがある、という意味なのだろうか。
それが気になりすぎた悟は、足元がおろそかになっていた。出勤してすぐ、高い場所にある在庫を確認中に足を踏み外して転落してしまった。鈍く嫌な音が体の中で響いた瞬間に「あ、折れた」と確信した悟は、救急車を呼ぶ同僚のあわてた声を聞いた。
予測した通り骨折で、入院は一週間ほど。その後はギプスをつけたままの、松葉杖生活がしばらく続くと説明された。
(日曜には出られるっぽいな)
あれこれと今後の話を聞きつつ考えたのは、そのことだった。
ギプスを着けていても、厨房には立てる。和臣のちいさな夢の場所に穴を開けなくてもいい。
メインの仕事の心配はわずかも湧いてこなかった。付き添いで来た事務員がてきぱきと手続きを済ませ、家族に連絡をしたいのだけどと問われた悟は苦笑した。
「いねぇんだよなぁ」
「え」
「交通事故で、どっちとも。兄弟もいねぇし」
「親戚は?」
「遠いからなぁ。……あ。親を亡くしてから、ずっと世話してくれてる家があるんだけどさ。そこに連絡を入れてくれねぇかな」
悟よりも年上の事務員は、憐憫を含んだ苦笑で了承した。
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