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第1話
夜になってもアスファルトからじわりと熱がせり上がってくる。雑踏の中でふと息苦しさを感じて、松浦俊介は大きくひとつ息を吐いた。
今年の夏は猛暑だとニュースが繰り返し伝えている。営業という仕事柄、年中スーツを着こなすことに慣れているつもりだったが、三十半ばを過ぎた身に最近暑さは少し堪える。「部長はいつも涼しい顔をしていますね」などとよく言われるが、そんなことはまったくない。無愛想の間違いだろう、と毎回腹の中で苦笑する。
いきつけの店にはすぐに着いた。薄暗い階段を下りて革張りの重いドアを開けると、カウンターの席がひとつしか空いていなかった。
松浦はとりあえず、両隣りに会釈してバーテンダーにスコッチを頼んだ。ネクタイを緩め、ほっと一息つく。クーラーの冷風に包まれ居心地がよい。左隣りの席はカップルのようだ。楽しげな会話が続いている。
しかし、右隣りの男はカウンターに突っ伏したまま、身動きもしなかった。その向こうの女性客二人も、ラフな格好で明らかにこの場にそぐわないその姿を時々ちらちらと盗み見ている。
「松浦さん、お久しぶりですね」
「ああ、仕事が忙しくてね……」
今日は飲んで忘れたい出来事があった。嫌な気分は酒で流すに限る。
店内には小さなボリュームのピアノジャズが流れている。いつもはこんなに混んでいないのだが……。
そうか、今日は金曜の夜だったか。松浦はそんなことをぼんやりと思っていた。
しかし、右隣りの男が妙に気になる。酔いつぶれているのなら構わないが、あまりにも彼を包む雰囲気が異様だった。
バーテンダーに目配せし、そっと指差した。知らないらしい。首を振った。
なんだか妙に気になって、耳元で声をかけてみる。いつもの松浦なら、そんな野暮な真似はしないのだが。
「……大丈夫ですか?」
いきなり頭が上げられ、松浦の顔面を直撃した。びっくりして声も出ない。
「……死にたい……」
「……はぁ?」
男はまだ二十代前半だろう。大学生だろうか。長めの前髪の隙間から、哀しげな瞳が見え隠れする。すぅっと涙をこぼすのを見て、松浦は困惑した。
「死にたいって。そんな、若いのに」
「若くても死にたくなることくらいあるの。……わかんないの?……そうだよねぇ……大人にはわかんないよねぇ……」
面倒くさい奴に声をかけてしまったと後悔したがもう遅い。男はぐずぐずと続けた。
「……もぉ、やだ……。生きてたくない……最悪だよ……もぉ、やだよ……」
「何があったかわからないけど……死にたいなら、死ねば?」
男が松浦に焦点を合わせる。冷たすぎる言葉かと思ったが、訂正する気はなかった。
「少なくとも、イヤなことを引きずらなくて済む」
「……そっか……」
男はすっと立ち上がったが、すぐに膝を折って床に座り込んだ。反射的に立ち上がり、慌てて松浦は手を差し伸べた。
「そうする……」
「……は?」
「死ぬことにしましたー!」
大声で叫ぶ。周囲の好奇の目が集まる。完全に酔っている。松浦は黙ったまま男をゆっくりと立たせた。
「すみませんが、死ぬ前に、ひとつ、お願いがあります!」
「……なんだ」
「死に場所まで連れてってください!」
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