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第2話
冗談じゃないぞ、と思いつつ、松浦はタクシーの中で、膝に突っ伏して寝ている男をまじまじと眺める。
死に場所へ連れていけだと？ 誰がそんな知らない他人のためにしてやることか、と松浦は静かに怒っていた。
──これで明日の朝刊にこいつの死亡記事なんて出てみろ。下手すると俺は自殺幇助罪になっちまう。
「……そこで停めてください」
ドアが開くと松浦は大声で男に怒鳴った。
「ほら！ 起きろ！」
「……ん？」
「立て。歩くんだ」
「今から死ぬんですね……」
ぎょっとしたように運転手が振り返る。慌てて金を払い釣りも受け取らず、抱きかかえるようにして自分の部屋へと連れて行った。
ベッドへ男をわざわざ乱暴に放り投げてやる。エアコンのボタンを押して松浦はシャワーを浴びにいった。本当に迷惑な男だ。けれど巻き添えを食ったことで、いつの間にか自身の辛さがどこかへ飛んで行ってしまった。
松浦は今日、付き合っていた女から、一方的に別れを告げられた。とりつくしまもなかった。自分のどこがいけなかったのかわからないが、もう、彼女の中では松浦とのことは終わってしまっている。声が冷めていた。諦める他、なかった。
寝室に戻ると、男はぼんやりと天井を眺めていた。その瞳からはまた涙がこぼれている。声も出さずも泣くその姿に、さすがに同情心が芽生えた。
「少しは酔いが冷めたか」
男は視線を外さずに小さな声で言った。
「ここは天国ですか……？」
「バーカ。自殺した人間は天国には行けないんだってよ？」
「だって……白い……」
「……水でも飲むか？」
「あなた……誰ですか？」
「ほんとにむかつくヤツだな。おまえ、死にたいってわめいて、死に場所へ連れてけって言うから、成り行き上、仕方なく、俺の部屋に連れてきてやったのに」
「すみません……」
「さっきの勢いはどこへ行ったやら」
松浦はベッドの端に腰をかけて、男を見つめた。随分ときれいな子だな、と思ったと同時に彼女のことが脳裏をよぎる。華やかで美しく性格も申し分なかった。松浦のことを理解してくれていると信じていた。それなのに……。
「まぁ、今夜はここで休んでけ」
「……待って」
立ち上がろうとすると男の細い手が腕にかかる。仕方なく、松浦はもう一度、腰を下ろした。
「……捨てられたんです」
「捨てられた？」
「……恋人に」
松浦は返す言葉もなかった。
「ずっと一緒にいたかった……。だから大学卒業したら一緒に住みたいって思ってた……。でも、別れようって……」
「……なんで」
「他に好きな人ができたから……って」
新たな涙がまたひとすじ、頬を伝う。
「高校から、ずっと一緒。もう、七年ですよ？……ずっとこの先も一緒だと思ってた。なのに……こんな……こんなことって……」
松浦は男の柔らかな髪をくしゃくしゃと掻き混ぜた。何も言えなかった。
彼女に、聞きたかった。なぜいきなり別れたいと言い出したのか。他に好きな男ができたのか。それとも松浦に非があったのか。もう、彼女に会うつもりはないので、それは永遠の謎だ。明確な理由があれば、松浦もこんなにうちひしがれたりはしなかっただろう。結婚を考えた女だ。
「……泣けば」
「うん……」
「それでも死にたかったら、死ねば」
「……うん……」
男は初めて松浦を見る。曇りのない、澄んだ美しい瞳に胸が痛んだ。
「……許してくれて、ありがとう……」
「許すつもりはないけど、許さない理由もない」
「……名前……」
「名前？」
「あなたの……」
「松浦」
「……松浦さん……」
「ん？」
「あなたは？」
「え？」
男の指が松浦の指を探る。
「あなた……泣いてる……」
「……俺が？」
松浦は無理をして笑った。だが、すぐに音を上げる。こんなことはめずらしかった。
「……振られたんだよ、恋人に」
「泣かないで」
「泣いてなんか、ないよ」
子供に慰められている。なんて情けない、と頭を振る。男がゆっくりと上半身を起こした。そして、ゆっくりと松浦の身体を抱きしめる。やさしいその腕に松浦は顔を埋めた。
「理由がわからない」
「……理由？」
「急にさよならだって。それだけ」
「好きなら……」
「ん？」
「好きなら、ちゃんと理由を聞かなくちゃ……」
「もう、会うつもりはないよ」
「でも、それじゃ……あなたの気持ちに決着がつかないでしょ」
「……わからない」
「好きなら、どんなことをしても引きとめなきゃ。ダメだよ」
「そういうおまえはどうなんだよ。どんなことしても、引きとめればよかっただろうに」
「泣いたよ。喚いたよ。死ぬって脅したよ。でも……ダメだった」
「……そうか」
自分にはできない。それほどまでには彼女を愛していなかった？ いや、そんなみっともない真似はできない、というのが、本音だ。この男の言う、死にたくなるまで人を愛する、そんな想いはいつまで経ってもわかりそうにない。
「俺を……抱いてくれませんか」
「……え？」
松浦は突拍子もないその言葉に顔を上げた。真剣なまなざしに、動揺が隠せない。
「ちょっと、それは……どういう」
「そのままなんですけど……」
「……えっ……おまえの恋人って……」
「男、ですけど……」
「えっ？」
松浦は少し、身を引いた。男がその様子を見て、くすくすと笑い出す。
「驚きました？」
「……まぁ」
「そうですよね……でも今、抱いてほしくて」
「…………」
松浦はなんと言えばいいのかわからず、ただ、男を見つめた。笑っているわりに、目がうつろだ。でも、どうしてやることもできない。男性を性的対象として見たことはないのだ。
「……それは、できない」
「……すみません、変なこと言って……」
「いや……」
なんでこんなに恐縮しなくちゃならないんだ……と妙な気分になって、松浦は下を向いた。
「ごめんなさい……気持ち悪いでしょ」
「別に。それはおまえの自由だろ」
「……ありがとう」
男はゆっくりとベッドに身を沈める。手の甲を額に当てて、また、天井の一点を見つめた。
「ほんとは、お酒、あんまり飲めなくて。でも勢いがあれば死ねるかと思って。無茶して飲んでみたけど……」
閉じた目から涙があふれ出た。
「なんにも変わらない……」
「急には、変わらないさ」
松浦はやさしい気持ちになって指で、その涙を拭った。男は驚いたように松浦を見る。
「ただ、おまえよりちょっと長く生きた経験からして……それは、もしかしたら、時が経つことによって緩和されていくことかもしれないと思う。今は、ぼろぼろだったとしても。それでもダメだと思った時に……死ねばいいんじゃないかと、俺は思う」
「松浦さん……」
自分にも、そう、言い聞かせてみる。時に任せてみればいい。もしかして、なにかが変わるかもしれない。なにも変わらないかもしれない。しかし、決断を急ぐことはないのだ。
人は自分の意思のみで生きているわけではない。さまざまな力が動いて、その中でもがきながら、なんとか今を過ごしている。そしてそれが積み重なり、道になっていく。それは途中で絶たれるかもしれない。絶つかもしれない。しかしこの男も、そして自分も、今はそのどちらでもないように思う。
松浦はシーツに腕をつき、男の上にそっと被さった。男がいぶかしげに松浦を見上げる。
「……松浦さん……？」
「ゆっくりおやすみ。……よい夢を」
松浦は男の額にできるだけやさしく口づけると、部屋を出ていった。
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