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第5話
目を開けると、そこは、一面の白。
──バーカ。自殺した人間は天国には行けないんだってよ?
地獄に落ちたはずだ、と、男は思った。ふと、横を見ると、松浦がいる。びっくりして、目を見張る。松浦はいきなり怒鳴った。
「このバーカ!」
手首に痛みが走る。その手を、松浦の両手が握りしめている。温かい。これは、現実? 男は、まじまじと松浦を見つめる。ここは、病室? 松浦はかなり怒っているようだった。
「もう少しで、死ぬところだったんだぞ!」
「……死んでも……」
「なんだ?」
「死んでいいって……あなたが……」
「助けて、と言ったのはおまえだろうが!」
「ああ……」
男は目を閉じた。確かにそう、心の底から叫んだ覚えがある。
「死ぬって言ったり、助けろと言ったり……まったく、おまえは……」
松浦は大きく息を吐いて、次の瞬間、不意に、やさしい表情になった。
「こんなにやせちまって……」
松浦の指がやさしく頬に触れる。泣きたいような気分になる。けれど、不思議と涙は出てこなかった。
「けど……生きてこられたよ……。あなたの……言葉だけを抱きしめて……」
「おまえ、恋人になんの連絡もしなかったんだな。……頑張ったな」
男は黙った。彼の番号を消したのは、松浦だったのだ。そして、自分の携帯の番号を登録しておいたのも。
「あなたは……?」
松浦は、ぶっきらぼうに言った。
「おまえと違って、やることは山ほどあるんでね。悪いが、忘れちまってた」
自然と微笑みがもれてしまう。言葉と態度が裏腹だ。本当は忘れたいために、仕事に没頭していたくせに。それは言わずにおいておく。
「あなたが振られたわけがわかった」
「なんだと?」
「言葉が足りない」
松浦は不意をつかれたように黙り込んだ。そして、神妙に、男に問いかけた。
「……そう、思うか?」
「思います」
その答えに松浦は笑った。困ったような、居心地の悪いような。頬を撫でていた指が、唇に触れる。
「……そうだな。黙って勝手に携帯をいじって、悪かったな」
そんなことではない。それは別にかまわない。けれど、あんなことをするくらいなら、始めから電話番号を教えてくれればよかったのに。いや、それも違う。自分には一人で立ち上がる時間と力が必要だった。もし、松浦が始めから教えてくれていたら、きっと、自分はすぐに連絡をしてしまっただろうと思う。それは、してはいけないこと。最後の最後に、大事なことを松浦は教えてくれた。そして、助けてくれた。男は自分の唇に触れる指に触れ、握ってくれる手を、痛みを堪えて少しだけ、握り返した。
「……あなたに、最後に、一言、言いたかった」
「なにを?」
「ありがとう」
松浦は目を逸らした。男は、笑みをゆっくりと深める。段々と、意識がはっきりとしてきた。
「俺は、最後にするつもりは、ない」
「…………?」
「……俺でよければ。……いつでも電話しろ」
男はびっくりしたように松浦の横顔を見つめる。
「……今度のようなことをする前に、連絡しろ」
せいいっぱいの松浦の言葉に、男の胸は熱くなった。鼓動が速まる。伝わればいいのに。
いきなり松浦は立ち上がった。そして背を向ける。
「俺は仕事が忙しい。帰る」
歩き始めた松浦に、男はせいいっぱいの声を出した。
「マ・ツ・ウ・ラ!」
驚いて松浦は立ち止まり、振り返る。
「……なんだ、おまえ、馴れ馴れしいぞ! いきなり呼び捨てか!」
男は小さく首を振った。
「違いますよ、俺の名前です。松浦、圭。今度は、そう呼んでください」
松浦が脱力したように天を仰ぐ。男は真面目に頷く。二人は思わず、というように笑い始めた。それはひとしきり続いた。
「それじゃ、……松浦。またな」
「はい、また。松浦さん」
松浦が病室を後にしても、男は笑うのを止められなかった。まだ、彼のことを思えば胸は痛む。けれど不思議と、少しだけだけれども、明るい心持ちになっていた。
ただ、前に。なにも考えず、前に。なにかあったら、悩んで悩んで、それでも前に進めばいい。時々、松浦に尋ねてみよう。そうしたら、きっとなにか示してくれるだろう。それはきっと、自分を力強く支えてくれるだろう。
松浦圭は、目の前に広がる一面の白を見つめた。それは彼の一番、好きな色だった。夏の名残りの日差しを映して、今はほんの少しの希望を含んで、眩しく見える。ゆっくりと、目を閉じる。
そして、久しぶりに安らかな眠りについた。
終
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