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第4話
一週間後。夏休みも終わり、最初の講義の時間が近づいてきた。
男は握ったこぶしに力を込めて、大学へと向かった。気持ちが浮上することはなかったが、そのままでいることもためらわれ始めた。現実と向かい合わなければならない。
体重は激減し、鏡を見ると、うつろな目をした自分がいた。死にたいと、また考えた。けれど、何度も何度も松浦の言葉を繰り返して、なんとかここまでやってきた。携帯も開かなかった。恋人からの連絡もなかった。
教室に入ると何人かの知り合いがびっくりした目で男を見た。しかし、声はかけてこなかった。それほど異様な雰囲気なのだろうか、と、自嘲する。誰もいない席を見つけて、座るとノートを取り出した。大丈夫、大丈夫。何度も自分に言い聞かせる。例え、彼を見ても、大丈夫。しかし、身体に力が入り、緊張はほぐれなかった。ふと入り口を見ると……彼がいた。胸が弾む。そして、次の瞬間、男は凍りついた。彼の腕にしがみつくように、同じサークルの女性がいた。二人とも微笑み合って、それはとても仲むつまじい様子だ。突然、背後にいた知り合いが声をかけてきた。
「なぁ、おまえ知ってたんだろ? あいつら、付き合い始めたんだってな!」
好きな人。それがあの女性。男は瞬間的に立ち上がった。彼がこちらを向く。一瞬、視線が合った。しかし、彼はまるで他人のように、すぐに視線を外し女性へと笑いかけた。その衝撃で頭がくらくらして、思わず男は走り出していた。教室を出て、学校を後にし、部屋へとひた走る。
現実を見せつけられた。決定的な違いを見せられた。もう、戻れないのだ。どんなことをしても。そして、もう、先にも進めない。男は、ただ、走った。そして部屋に着くと、台所にあった包丁で手首を思いきり、切りつけた。ぼたぼたと血がシンクに落ち、その瞬間、正気へと戻って、腰を抜かして床へと倒れ込んだ。痛みというより、痺れが広がって、床にどんどんと血が流れる。男はそれを見ないようにして、天井を見上げた。白い。男は、松浦の言葉を思い出した。
──バーカ。自殺した人間は天国には行けないんだってよ?
会いたい。突然、松浦に会いたくなった。けれど、もう立ち上がる気力もない。手を伸ばして、カバンから携帯を取り出して、おかしくなって笑ってしまった。着信履歴も、送信履歴も、たったひとつ。登録してあるのも、彼の電話番号だけ。もう、必要ない。
男は携帯を開いた。すべて、消してしまおうと思った。自分の人生と一緒に、彼の存在の証も消してしまうのだ。そうすれば……。
──松浦さん……。
あの、やさしい、唇の感触を思い出す。
──許すつもりはないけど、許さない理由もない。
死んでもいい、と言ってくれた。それだけで救われた。だから、これでいいのだ、とボタンを押した。
「…………?」
着信履歴がすべて消えている。なぜ?
送信履歴まで消えている。男は震える血まみれの手で、最後に残っている、登録された番号を押した。
「……なんで……?」
彼の電話番号は消えていた。いつの間に。酔った勢いで、自分が消してしまったのだろうか。すべてが、なくなった。男は震えながら、笑った。おかしくて、哀しくて、声を出して笑った。すると。
「…………?」
ひとつだけ。知らない電話番号が登録されていた。覚えのない番号。男はなにも考えず、その番号にかけてみることにした。すると、すぐに向こうから声が聞こえた。
「……もしもし?」
まさか。男はかすれた声で、その名を呼んだ。
「……松浦さん……?」
「どうした? また死にたくなったか?」
その声に、男の胸は弾んだ。懐かしい声。やさしい、許しをくれる松浦。今、たった一人、世界で自分の存在を認めてくれるかもしれない……。
「……けて……」
「どうかしたのか?」
男はありったけの力を振り絞って、叫んだ。
「助けて……! ……助けて!」
松浦の声色が変わった。
「どこだ。今、どこにいる」
「松浦さん……! 助けて……!」
「場所を教えろ! すぐに行く!」
住所を途切れ途切れに、なんとか伝えると、すぐに通話が切れた。電源が落ちた。充電も忘れていたのだ。松浦に伝わったかどうか、わからない。けれど、最後に松浦の声を聞けたことに安堵した。深い安息感が訪れる。これでいい。しかし最後に松浦に伝えたかった言葉があり、それを伝えられなかったことを残念に思った。ただ、一言。けれど、どうしても伝えたかった一言。
──ありがとう。
男は震える瞼を閉じる。身体の力が急速に抜けていく。意識が、段々薄れてくる。
──ありがとう。松浦さん。最後に、あなたの声が聞けて幸せだった。
そのまま、男は意識を失った。
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