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いちや

―カラン― 自分の足元から聞こえる下駄の音。この日のために買った下駄。恋人が選んでくれた浴衣に合うように、内緒で買ったのに。 『似合うね』 そう言ってほしくて。 付き合って3年目。最近ちょっと会えていなかったけど。3年目の記念日が、ちょうど地元の花火大会の日と重なって。 『花火大会、記念日を祝うのにちょうどいいね』 だから一緒に行こう。約束だよと、つい最近話したばかりだったのに。 『ごめん!今日、仕事が入っちゃって』 いつも仕事が忙しい人だから。忙しいのは、期待されている証拠だから。例え記念日だからって、俺が我儘を言ったら迷惑をかけるから。 だから我慢して、1人で花火を見にきた。 花火の写真を撮ってあげよう。楽しみにしてたから、花火だけでも写真で見せてあげたい。でも、花火を楽しむ前に祭りを楽しもう。 たこ焼きを買って、焼きそばを買って。ペロリと平らげたら、また次のを買って。 そうしていたら、見つけたんだ。仕事のはずの恋人の姿を。隣に、可愛らしい男を連れて。 信じていたはずなのに。最近は会えないけど、それでも心は繋がっていると思っていたのに。そう思っていたのは、自分だけだった。 信じていた自分がバカだ。 疑わなかった自分がバカだ。 あの人の心は、想いはもう自分にはこれっぽっちもなかったのに。 音が聞こえた。 深い藍色の空に、キレイな光の華が咲き誇る。一瞬にして大輪の華を咲かせ、そして儚く消えていく。 キレイだった。 このキレイな光の華を、一緒に見るはずだったのに。 「花火を見ながら泣いているなんて、どうした?」 瞳から溢れる涙を、誰かが指先で優しく掬ってくれた。涙を掬ってくれた美しい見知らぬ男。男は、掬った涙をペロリと舐めて、そして美しくキレイに笑った。 その笑みはまるで、今夜空に咲き誇る光の華のようで。またほろりと涙が溢れた。 ********** 「そっか。そんなことがあったんだな」 「仕方がないんですけどね。俺、こんなだし」 「こんなって顔のことを言ってるのか?だったら、尚更浮気する恋人の気が知れんな。こんな可愛い子を裏切るなんて」 「かわいい、?」 涙を拭ってくれた男は、静かなバーで話を聞いてくれた。相槌をうちながら、時折慰めの言葉を言う。そして、いまだに止まらない涙を今度は舌で拭った。 恋人以外の男に舐められた。本当なら嫌なはずなのに、そう思わないといけないはずなのに。裏切られた姿を見た後では、何でも受け入れていた。 男の優しい言葉も、そして自分を包み込む温もりも。 「君はこんなにも可愛いのに。それを理解してないなんてな」 男はそう言ってくれるが、自分ではそう思えなかった。小さい頃から“平凡”と言われ続けた。可愛くもなければ、かっこよくもない。両親のどちらにも似ず、兄や弟のように何でも出来る訳でもなく。 誰も受け入れてくれなかった。こんな自分を、家族としても友達としても受け入れてくれなかった。 でも、そんな自分を受け入れてくれたのが彼だった。 彼は自分のことを可愛いと言ってくれた。初めての言葉だった。こんな平凡な自分を、可愛いと言う人は初めてだった。 だから好きになったというわけではない。彼は可愛いと言ってくれた。そして、自分を大切に扱ってくれた。それこそ、宝物を包み込むように大切に。 そう感じていたのに、全部まやかしだった。 「可愛いんですか?この、俺が、」 「あぁ。俺には全部が可愛く見えるんだが」 「――――――彼も、そう言ってくれたんです。でも、全部まやかしだった」 彼は可愛いと言ってくれた。でも、自分より何倍も、何十倍も可愛い男を連れて歩いていた。記念日だったのに。彼が想いを告げてくれた、大切な日だったのに。 「確かに、そいつの言葉はまやかしかもしれない。でも、俺の言葉はまやかしなんかじゃないぞ」 男が笑う。くしゃりとした笑みを見せてくれた男の目尻に、可愛らしいシワが寄った。自分よりも10歳ぐらい年上に見えるのに、子供っぽい可愛い笑みだった。 でも、その笑みに嘘なんて感じられない。男は本気で可愛いと言ってくれた。そこには、嘘も偽りもない。 「俺みたいな平凡が、可愛いんですか?」 「あぁ。全部が可愛い。少しおっとりしている目も、ぺちゃんこの鼻も。そばかすもだよ。ぽてっとした頬も可愛い」 「それ、俺の全部気にしてる部分です」 「そう?俺には、そこが可愛く見えるんだよな」 本気で男は不思議がっていた。可愛いのに、何をそんなに気にしてるの?と言っているかのように見つめてくる。 それがまた恥ずかしくて、男の視線から逃れるように顔をそらした。そらしても、男はずっとこっちを見ていたが。 「ね。こっち見て」 「………………恥ずかしいから、やです」 「お願い。見て」 低いキレイな男の声が耳を撫でる。 ゾワリとして、頬がだんだんと火照ってきて。いつの間にか男を見ていた。 視線が絡み合うと、男はトロリとした甘い笑みを浮かべた。 「ねぇ。今日だけ、今日だけは彼のことを忘れよう」 「え、?」 「近くにホテルがある。そこで、一緒の時間をすごそう。そういう意味で誘ってる訳じゃない。君はまだ、彼とは別れてないしね」 「……………………」 「可愛くて、可哀想な君を抱き締めて眠りたい。君の傷ついた心を、俺で癒してあげたい」 いけないと分かっていた。だってまだ別れた訳じゃないのだ。浮気現場を目撃した。裏切られた。でもまだ別れてはいない。 でも、どうしてだろう。頷いてしまうのだ。 男の甘くあたたかな誘いに、頷いて手を伸ばしてしまった。 どうせもう、会うことはない。 一夜限りの甘い夜なのだ。 「ありがとう、ございました」 ベッドの上で眠る男の頬を、起こさないように指先で撫でる。言った通り、男は昨日の夜は何もしなかった。ただ自分を抱き締めて、甘く優しい言葉をかけてくれて。そしてただ眠っただけだった。 離れたくないと、心の奥で自分の本心が叫んでいる。でもそれは叶うはずもなく、叶えてはいけない願いだった。 「さよなら」 だからこのキスは、自分だけの秘密。 眠る男の唇に、自分のそれをそっと合わせた。 最初で最後の裏切りのキス。 そのキスは、甘くて、切なくて、苦しくて。でも幸せなものだった。

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