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第7話
目が覚めたのは、翌朝の八時過ぎだった。
倉橋は飛び起き、枕元に置かれた眼鏡をかけ、部屋の中を見回す。……荒らされた形跡や変わったところはなく、胸を撫でおろした。
少年の姿はなかった。宣言通り、夜明け前に家を出たのだろう。身体は清められ、寝間着を着ていた。彼が世話をしてくれたに違いない。それを含めての礼 だったのだろうか……分からなかった。
暫くして、家の電話が鳴った。平野からの呼び出しだ。こちらも昨晩世話になった礼で、昼食を奢るという。昼前に自宅近くの日本食屋で、彼と落ち合った。
「――物々しい空気だな。それもそうか、憲兵隊長が自宅で射殺されたんだからな」
鯖の塩焼きを食す平野が、件の話題を口にした。街では多くの憲兵と警官が徘徊していた。
「いやぁ、驚いたよな。あの踊り子が犯人なのかね」
平野は、俄に信じ難いといった様子だ。「だとすれば、どこの国の差金だ」
蕎麦を啜る倉橋は、「さぁ」としか返せなかった。高松少将殺しの犯人は、あの少年で相違ない。しかし、彼を駒として使った国については、当人すらも知り得ていなかった。それは今後、新聞が報じる真実 が教えてくれるのだろう。嗤えた。
「そうそう、聞いた話だと、少将の自宅の庭から白骨化した女性の遺体が見つかったらしい」
蕎麦を食す手が止まる。昨晩の少年の話を思い出した。彼が言った通りだ……。
「憶測だが、乱暴した末に殺したんじゃないかと言われている。内地にいる頃から女に性的暴行を加えては悦んでたらしいぜ」
周囲の客に聞かれぬよう小声で、また意図的に主語を省いて平野は教えてくれた。胸糞悪そうだった。
倉橋も同じ思いだ。やはり、日本軍は腐っている。軍国主義を高らかに謳い、質実剛健に強い国を創ろうと先導する人間が、酷い過ちを犯したのだ。高松少将の外道さもさることながら、彼の愚行に目を瞑り続けた中枢部は、今回の件をどう処理するのだろう。……答えは、目に見えていた。
そんな日本の在り方が、正しいとは思えない。武家社会の名残で厳格な上下関係を人々に強いるのは、間違っている。生まれや地位などに関わらず、何人も平等であるべきだ。
だから、中共の協力者となった。悪しき思想が蔓延る日本を倒し、正しくあるために。それこそが本来の愛国心だと、倉橋は思う。
その後、平野の世間話にしばらく付き合い、彼とは店の前で別れた。
自宅に戻った倉橋は、茶を沸かしながら昨夜の件や、先刻の平野の話を反芻した。そして、ぼんやりと考えた。
少年はきっと、もうこの世にはいないだろう。口封じのために殺されたのか、自ら命を絶ったのか。いずれにせよ、彼は人知れず消えたはずだ。
高松少将殺しを引き受けた時点で、自らの末路を理解していただろう。それでも昨夜、この部屋にいた彼は飄然とし、清々しく、奔放で美しかった。あれが、この世への未練や執心を喪った人間の姿なのだろう。
……恐らく、自分は口封じの対象にはならない。ただ、少年の雇い主から弱みを握られている。この件を他言すればどうなるか。考えなくとも分かる。墓場まで持っていくしかない。
それにしても、彼の雇い主は大胆なことをしたものだ。
今回の件で、今後の東アジア――特に中国の情勢は大きく変わるだろう。中国や周辺諸国、または列強諸国のいずれかに勢いがつけば、きっとそれが首謀者だ。
高松少将にしろ、少年にしろ、自分にしろ、彼らが用意した舞台の上で滑稽に踊る、憐れな愚者だ。倉橋はつくづくそう思った。様々な国、人種、組織の陰謀が渦巻き、金や権力、そして欲望に塗れたこの街――上海は、格好の舞台装置だったのだ。
……つと、胸騒ぎがした。
蘇州語を話す少年は、「家族の仇」だと言っていた。睡眠薬を盛られる前に見た彼の笑みは、美しく優しかった。……美玲の話をしている最中のことだった。
……まさか、まさかな。
頭に浮かんだ、身が裂かれんばかりの最悪の状況を掻き消す。しかし、一度芽生えたそれは、胸のうちにしっかりと根を張り、倉橋を苛んだ。
翌日、中国全土の新聞を手当たり次第、読み漁った。日本の新聞は案の定、高松少将の哀悼記事ばかり載せ、女性の遺体については、何一つ触れていなかった。
その点、中国の新聞は信頼できる。もっとも彼らは彼らで、自国にとって不利益な話題に対して情報規制はするが。
記事は、案外早く見つかった。蘇州の地方紙の一面に掲載されていた。
そこには親切に、生前の女性の写真が掲載され、氏名と年齢の記載もあった。
李 美玲、二十二歳。数年前に撮影されたのだろう、あどけない微笑を湛えた彼女の写真に、雫が一つ、二つ、落ちていった。
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