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第16話

一瞬の沈黙。 その永遠にも感じた沈黙は、ひとつも表情を動かさない桜井の飄々とした声で破られた。 「そういや、お名前を伺っても?」 「え、あっ!すいません、勅使河原 秀一といいます!」 「…すげぇ立派な名前。」 「よく言われます…」 名前負けしてるって言われたことすらあります、とは流石に言えなかった。一番秀でるなんて、なんでそんな大層な名前をつけたのだ我が両親よと思ったことは一度や二度ではない。 桜井にも散々情けないところを見せているだけになんだか恥ずかしくなって、秀一はもともと猫背の背を小さく丸めた。 「…また来たいって仰ってたから、連休中お見えになるかと思ってましたよ。」 しかしかけられた声は温かく、優しいものだった。 「気持ち悪いなんて思いません。いつでもいらしてください。」 あ、でも月曜は定休ですので、と桜井は軽い調子で手にしたコンビニの袋を持ち上げた。うっすら透けて見える中身は缶ビールだ。 「あ、あのっ!」 そのまま背を向けて店内に消えようとした桜井を、秀一は必死に呼び止めた。 桜井はピタリと止まってキョトンとした表情で振り返る。綺麗な形の目がまあるくなっていた。 「あの、ピアノ!ピアノ凄かったです!また聴かせてください!」 秀一のその声は狭い路地裏に思いの外響き渡る。心なしか反響した気がして、秀一は慌てて辺りを見回した。人っ子一人、子猫一匹見当たらない。 秀一と桜井だけ。 桜井はちょっといたずらに、にっと微笑んだ。 「気が向いたら。」 カランと小さなドアベルの音が路地裏に響き、桜井は店内に消えた。そしてすぐにその上の階に電気が付く。 それを見届けて、秀一の顔はボッと火を噴いた。 何今の、めっちゃ可愛い。 リンゴンリンゴン、脳裏に響く鐘の音。打ち鳴らしているのは恋のキューピッドだ。 もう、誤魔化しようがない。

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