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第一章 おちた世界-1
都内屈指のマンモス校である大学校内も、夜十時を回ればさすがに人影も少ない。
図書館も例にもれず、カウンターに控える司書を除き、今、館内にいる人物はただ一人だけだった。
そこに閉館を告げる音楽が大音量で響き、一人ぼっちで机にかじりついていた祐貴 はハッと顔を上げた。
「えっ、もう十時!?」
慌てて腕時計に目をやると、思った通り針は午後十時五分前を指している。次いで机に散らばった文献やレポート用紙を見遣り、盛大にため息をつく。
「終わってないし…」
ぶつぶつと呟きながらも、祐貴は片づけを始めた。早く図書館を出ないと巡回してくる司書に怒られてしまう。
今日は本当は早く帰るつもりだった。昨日実家の妹が送ってくれた地酒を、ゆっくりまったり堪能するつもりだったのに。
内心で舌打ちしながら、祐貴は分厚い辞典を抱え上げた。
今日の応用高分子の講義で急遽出されたレポート課題は、まったくの予想外だった。悲しいことにこの講義は友人誰もが選択していなかったため、祐貴は孤独に頑張るしかなく今に至る。
簡単に単位が取れるんだよ、と企むように笑いながら言った友人を、あっさり信じ込んで選択してしまった自分が憎い。選択者が異様に少ない時点で気付くべきだったのに、どうも祐貴は疑うことを知らない人間だった。
そして、選択してしまったとなると、さぼるということを知らず、真面目に取り込んでしまう始末。
「もう単位とれなくてもいいかなぁ」
そう呟いた時だった。
――キ……
「え……?」
ふと、名前を呼ばれた気がして祐貴は振り返った。
しかし、そこには誰の姿もない。無機質な書架がただずらりと並んでいるだけだ。
勉強のしすぎで疲れたのか。祐貴は気のせいだと結論付けて息を吐いた。
だが、辞典を元の場所へ戻そうと歩き出した時、また名前を呼ばれた。
――ユゥキ
低い、ビブラートがかかったような声は、はっきりと耳に届いた。発音が耳馴染んだものとは違ったが、その声は祐貴を呼んでいるのだと分かった。祐貴は再び同じ場所を振り返る。
書架の間はうず高く積まれた本のおかげで、蛍光灯の光が遮られ薄暗い。声はそこから聞こえた気がした。
「朝倉?」
夕方まで共にいた友人の名を呼んでみる。まさかとは思うが、他に祐貴の名を知っている人が思い浮かばなかった。
じっと薄闇を見詰めていると、ぞわりと悪寒が背筋を走った。言い知れない恐怖が湧きあがってくる。
「誰か、いるのか?」
怖いのに、祐貴の足は書架に向かった。一歩一歩、近づくごとにドクドクと鼓動が早まっていく。
そして、祐貴はそこに不可思議なものを見た。
「え?何、これ…」
空気が歪んでいる。
ちょうど祐貴の胸くらいの高さのある一点だけ、陽炎のように歪んで見える。そこに何があるわけでもなく、暖房が強くかかっているわけでもない。
祐貴はとりあえず空いた右手で自分の目を擦った。
「疲れ目?うーん…」
ぱちぱちと瞬きしてみても、見えるものは変わらない。祐貴は無意識に、ゆらゆらと揺れるそこへと手を伸ばした。
そこに手が届いた瞬間、祐貴の手は何かに触れた。水のような、それよりもっと粘性の高い何か。
「…え!?わっ、キモ…っ」
慌てて手をどけようとした祐貴だったが、それは叶わなかった。手が引き抜けない。
「うそっ、待って、なんで…!!」
持っていた辞書を投げ捨て必死に腕を引っ張るが、手を引きもどせない。強く引きこまれ、ゼリーの中に入っていくように、ズプズプと手が飲み込まれていく。
「うわぁぁぁっ!やだっ、やだっ、誰か!司書さんっ!助けて!」
祐貴は叫んだ。その間にも引く力はどんどんと強くなっていって、右腕はすべて入り込んでしまった。
その入り込んでしまった腕は、もう見えなかった。まるで、消失してしまったかのように。
「なんでっ…っうそだ…!うそっ」
祐貴は半ばパニックになりながら、足を踏ん張った。そして、気付いた。歪んだ空間がだんだんと大きくなってきている。初めは祐貴の腕くらいの太さしかなかったそこは、いまや人一人簡単にくぐれそうなほどだ。
このままでは、全て飲み込まれてしまう。
そこにバタバタと走る足音が響いてきた。
「どうしたんですか?どこですか?」
そして、少し焦った声。司書だ。祐貴の叫び声が届いたらしいが、書架の陰になって見えないようだ。
祐貴は安堵に目を潤ませ、もう一度叫ぼうと口を開いた。
「た――」
すけて。
しかし、遅かった。
助けを求める声ごと、祐貴は飲み込まれてしまったのだった。
そこは真っ暗な闇だった。
祐貴はとりあえず生きていることに安堵したが、恐怖は消え去らないどころか湧いてくる。祐貴は自分をかき抱きながら静かに震えた。
体の周りはやはりゼリーに包まれているような感覚だったが、祐貴は呼吸ができていることに気がついた。
そして、小さな光が見えた。どうしていいのか分からない祐貴だったが、とにかく明りが欲しかった。暗闇を抜けだしたかった。
歩けているのかそれすらも分からなかったが、ひたすら光の方へ光の方へとがむしゃらに体を動かした。そのうちに、それは遠くにある大きな光だということが分かった。だんだんと近づいていくその光に、やっと手が届いたその時。
――フィリドア
図書館で自分を呼んだ声が、頭いっぱいに響いた。
そして飲み込まれたとき同様、祐貴は強い力に引っ張られ、光の中へと落ちていった。
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