1 / 55

第一章 おちた世界-1

 都内屈指のマンモス校である大学校内も、夜十時を回ればさすがに人影も少ない。  図書館も例にもれず、カウンターに控える司書を除き、今、館内にいる人物はただ一人だけだった。  そこに閉館を告げる音楽が大音量で響き、一人ぼっちで机にかじりついていた祐貴(ゆうき)はハッと顔を上げた。 「えっ、もう十時!?」  慌てて腕時計に目をやると、思った通り針は午後十時五分前を指している。次いで机に散らばった文献やレポート用紙を見遣り、盛大にため息をつく。 「終わってないし…」  ぶつぶつと呟きながらも、祐貴は片づけを始めた。早く図書館を出ないと巡回してくる司書に怒られてしまう。  今日は本当は早く帰るつもりだった。昨日実家の妹が送ってくれた地酒を、ゆっくりまったり堪能するつもりだったのに。  内心で舌打ちしながら、祐貴は分厚い辞典を抱え上げた。  今日の応用高分子の講義で急遽出されたレポート課題は、まったくの予想外だった。悲しいことにこの講義は友人誰もが選択していなかったため、祐貴は孤独に頑張るしかなく今に至る。  簡単に単位が取れるんだよ、と企むように笑いながら言った友人を、あっさり信じ込んで選択してしまった自分が憎い。選択者が異様に少ない時点で気付くべきだったのに、どうも祐貴は疑うことを知らない人間だった。  そして、選択してしまったとなると、さぼるということを知らず、真面目に取り込んでしまう始末。 「もう単位とれなくてもいいかなぁ」  そう呟いた時だった。 ――キ…… 「え……?」  ふと、名前を呼ばれた気がして祐貴は振り返った。  しかし、そこには誰の姿もない。無機質な書架がただずらりと並んでいるだけだ。  勉強のしすぎで疲れたのか。祐貴は気のせいだと結論付けて息を吐いた。  だが、辞典を元の場所へ戻そうと歩き出した時、また名前を呼ばれた。 ――ユゥキ  低い、ビブラートがかかったような声は、はっきりと耳に届いた。発音が耳馴染んだものとは違ったが、その声は祐貴を呼んでいるのだと分かった。祐貴は再び同じ場所を振り返る。  書架の間はうず高く積まれた本のおかげで、蛍光灯の光が遮られ薄暗い。声はそこから聞こえた気がした。 「朝倉?」  夕方まで共にいた友人の名を呼んでみる。まさかとは思うが、他に祐貴の名を知っている人が思い浮かばなかった。  じっと薄闇を見詰めていると、ぞわりと悪寒が背筋を走った。言い知れない恐怖が湧きあがってくる。 「誰か、いるのか?」  怖いのに、祐貴の足は書架に向かった。一歩一歩、近づくごとにドクドクと鼓動が早まっていく。  そして、祐貴はそこに不可思議なものを見た。 「え?何、これ…」  空気が歪んでいる。  ちょうど祐貴の胸くらいの高さのある一点だけ、陽炎のように歪んで見える。そこに何があるわけでもなく、暖房が強くかかっているわけでもない。  祐貴はとりあえず空いた右手で自分の目を擦った。 「疲れ目?うーん…」  ぱちぱちと瞬きしてみても、見えるものは変わらない。祐貴は無意識に、ゆらゆらと揺れるそこへと手を伸ばした。  そこに手が届いた瞬間、祐貴の手は何かに触れた。水のような、それよりもっと粘性の高い何か。 「…え!?わっ、キモ…っ」  慌てて手をどけようとした祐貴だったが、それは叶わなかった。手が引き抜けない。 「うそっ、待って、なんで…!!」  持っていた辞書を投げ捨て必死に腕を引っ張るが、手を引きもどせない。強く引きこまれ、ゼリーの中に入っていくように、ズプズプと手が飲み込まれていく。 「うわぁぁぁっ!やだっ、やだっ、誰か!司書さんっ!助けて!」  祐貴は叫んだ。その間にも引く力はどんどんと強くなっていって、右腕はすべて入り込んでしまった。  その入り込んでしまった腕は、もう見えなかった。まるで、消失してしまったかのように。 「なんでっ…っうそだ…!うそっ」  祐貴は半ばパニックになりながら、足を踏ん張った。そして、気付いた。歪んだ空間がだんだんと大きくなってきている。初めは祐貴の腕くらいの太さしかなかったそこは、いまや人一人簡単にくぐれそうなほどだ。  このままでは、全て飲み込まれてしまう。  そこにバタバタと走る足音が響いてきた。 「どうしたんですか?どこですか?」  そして、少し焦った声。司書だ。祐貴の叫び声が届いたらしいが、書架の陰になって見えないようだ。  祐貴は安堵に目を潤ませ、もう一度叫ぼうと口を開いた。 「た――」  すけて。  しかし、遅かった。  助けを求める声ごと、祐貴は飲み込まれてしまったのだった。  そこは真っ暗な闇だった。  祐貴はとりあえず生きていることに安堵したが、恐怖は消え去らないどころか湧いてくる。祐貴は自分をかき抱きながら静かに震えた。  体の周りはやはりゼリーに包まれているような感覚だったが、祐貴は呼吸ができていることに気がついた。  そして、小さな光が見えた。どうしていいのか分からない祐貴だったが、とにかく明りが欲しかった。暗闇を抜けだしたかった。  歩けているのかそれすらも分からなかったが、ひたすら光の方へ光の方へとがむしゃらに体を動かした。そのうちに、それは遠くにある大きな光だということが分かった。だんだんと近づいていくその光に、やっと手が届いたその時。 ――フィリドア  図書館で自分を呼んだ声が、頭いっぱいに響いた。  そして飲み込まれたとき同様、祐貴は強い力に引っ張られ、光の中へと落ちていった。

ともだちにシェアしよう!