1 / 13

第1話

 香寺章斗(こうでらあきと)の朝は、愛犬チョリの散歩から始まる。  いまや普通の柴犬になってしまった豆柴と共に家から十分ほど離れた河川敷に行き、そこで出会った愛犬家と少し話をしながら二十分ほどチョリを自由に遊ばせ、また十分かけて家に戻る。  戻ってからは、弁当作りを開始する。  前日のうちに形を整えておいた一口サイズのハンバーグを焼き、タレに漬け込んでいたムキエビを唐揚げにする。さらに甘く味付けた卵焼き、ほうれん草のお浸しにマカロニサラダを手際よく作り、冷めたら二人分の弁当箱に見栄えよく詰め込んでいく。彩りが良くなるようにプチトマトやニンジンスティック、サニーレタスを隙間に挟み、出来上がりだ。  おかずの残りはテーブルに並べ、次は味噌汁作りだ。  味噌汁ができあがる頃、両親が起きてくる。眠そうな二人に挨拶して、顔を洗ったりしているうちにできあがった味噌汁とごはんをよそって並べる。  それが終わると、章斗は弟の尚斗(なおと)を起こしに二階へ上がる。  部屋に入るとまずカーテンを開けて光を十分取り入れて、そっと優しく声をかける。尚斗はあまり寝起きが良い方ではないので、彼がはっきり目覚めるまで根気よく起こし続けるのだ。  それから両親と弟と共に、そろって朝ご飯を食べる。  朝食後は片付けを母がしてくれるのに任せ、学校に行く準備に取りかかる。歯を磨いて制服のブレザーに着替え、弁当を鞄に詰めればおしまいだ。いつもすぐ終わるので、バタバタと髪やらをいじって忙しい弟に代わり、彼の分のお弁当も鞄に入れてやる。  そうしているうちに時刻はだいたい七時五十分近くになる。弟と共に家を出て、駅までの道を並んで歩く。  それが、香寺章斗の日常。 「どうしよう、どうするべきか…うぅん、美味くできてる。よかった…んん…ビデオじゃいまいち分かんないしなぁ…」  弁当を食べながらどこか思い詰めた顔でぶつぶつ呟く章斗の隣で、彼の友人であるところの光山(みつやま)小野原(おのはら) は各々昼食のパンを食べながら彼を無視して話を続ける。 「うーん、およそ男子高校生らしからぬ朝だね。早起きってだけで俺もう無理」  章斗の朝のルーチンを聞いた小野原は、感心した顔でほーと息を吐く。 「だろ。でも驚くのはここからだ」  説明していた光山は、ピンと指を立てた。 「こいつのその行動の起源は全部弟なんだよ」 「どゆこと?」  ふ、と笑う光山に、小野原は小首を傾げた。背も小さく柔らかい顔をした小野原には、そう言った仕草も馴染んでいる。 「チョリはな、弟の尚斗が犬飼いたいってごねて、ちゃんと世話をするって約束で買ってもらった犬らしい」 「ふむふむ」 「でも尚斗は一週間で世話に飽きた。で、両親に怒られる尚斗を庇って、章斗が自分が世話するから叱らないでって言って今に至るわけだ」 「おお~香寺ってばお兄ちゃんだ。でも弟君ってなかなかわがままな子だねぇ」 「次な、弁当。章斗はなにかと尚斗の面倒をみたがるんだ。それで尚斗の弁当は自分が作るって言ってきかなくて、作るようになったらしい。おかげで料理嫌いなくせに、今じゃその腕はピカイチだ」 「へー。弁当男子ってやつじゃん?」 「弟を起こすのも、物心ついたときから章斗がやってる。尚斗に朝一番に会うのは自分がいいってさ」 「へ、へぇ…?」  さすがに小野原の顔が少し引き攣る。しかし彼はまだ自然を装って、相槌を打った。 「朝の話はここで終わり。さて感想は?」 「うーんと…香寺ってブラコンなんだな」  小野原は当たり障りないように言って、にこにこ笑う。  光山はその余裕がいつまで持つかな、と内心で思った。確かにブラコンなのだが、章斗の場合世間一般の生やさしいもんじゃない。 「尚斗ってさ、ちゃあんと今時の中坊なわけよ。髪とかも染めて遊ばせてさ」 「ふーん。香寺とは違うんだ」  小野原はちらりと章斗を伺った。彼はまだひとりの世界で「ネットじゃなぁ…」などとぶつぶつと呟き、真横で自分の話題が上っているのに気づく様子はない。  そんな彼は、どちらかと言えば真面目そうな出で立ちをしている。髪は処女髪のまま黒いし、制服もきちっと着る。 「んでま、その尚斗の髪な、いつもこいつが染めて切ってるんだよ」 「え?いつも?」 「そ。初めて染めるとき美容室行くって言う尚斗に泣きついて、染めさせてもらったんだ」 「は?泣きついて…?」 「ものすごい練習しまくって染髪と散髪の腕をみがいてな、絶対かっこよくするから初めてだけは俺にやらせてーって大泣きだよ。俺も練習台にされたんもんだ」 「大泣き…」  当時のことを思い出し、光山は苦笑した。無意識のうちに自分の髪を撫でてしまう。今は短く刈りそろえられ、深いアッシュブラウンに染まっている光山の髪だ。  あれは約一年前。章斗に頼まれて練習台になった光山は、見事に髪色を斑にされて、直後美容室に駆け込んだ。その後他の友人たちも同じように練習台にされていたが、もともと器用な章斗は三人目くらいからは店でやるのと変わらないほどに上手にできるようになっていた。そして念願叶い、尚斗の髪を染めてやったとそれはそれは嬉しそうな顔で報告してきた。そのときの笑顔は見ていてこちらも温かくなるものだったが、その直後、髪を染め終えた尚斗の写真を見せられて、その魅力が増しただの、この色は尚斗のためにある色だの、兄馬鹿話に散々付き合わされたのはいただけなかった。 「こいつ、そういうやつなわけよ」  光山が言うと、小野原は可愛らしい顔を少し歪ませながら、曖昧に返事した。 「うーん、まあ…」  光山と章斗は幼稚園からの付き合いで、章斗のそんな度の過ぎたブラコンぶりを熟知しているが、小野原は高校三年になって同じクラスになった仲だ。知り合ってまだ一ヶ月ちょっと、しかしだいぶ仲良くなってきたため、こうやって光山が章斗の変人ぶりを前もって説明しているわけである。  どん引いて離れていくなら仕方なし。章斗はブラコンと嘲笑されても一向に気にしない人間である。むしろそう言ってくる相手に弟の魅力を滔々と、相手がもう勘弁してくれと泣いても語り続け、ブラコンになるのは仕方ないことだと主張するような男だ。  引いても章斗と友人関係を続けていくというのなら、この十数年光山が味わってきたなんとも言えない微妙な気分を、小野原と分かち合うことができるだろう。そうすれば自分の感じる不快感が幾らか和らぐと光山は信じたかった。  小野原は弁当をもぐもぐ食べる章斗を見た。小野原としてはまだ短い付き合いだが、章斗の事は嫌いではない。真面目なくせに、どこか面白いと思っている。 「別に、ホモで弟狙ってるってわけじゃないんだよね?」  恐々と聞いてきた小野原に、光山はすぐに頷いた。 「ああ、それに関しちゃ大丈夫だ。こいつの性対象は女だ。ちなみに好きなタイプは美尻のセミロング。AVだって普通に見るしな。弟のことを性的に愛してるわけじゃない」  ただ、尚斗のファーストキスの相手は章斗だった、ということはあえて言わない。幼稚園の話だし。 「じゃあまあ、いいんじゃない?」  小野原の顔が一気に明るい生来のものに戻った。もう全く引いていない様子だった。それが章斗の重症さを軽く見ているからか、本気で気にしていないからなのかは解らない。しかし、光山は心底安堵した。 「それで、さっきから何をぶつぶつ言ってんだろね、香寺は」  そう言う小野原の声で話題は打ち切られ、光山も章斗に目を遣った。章斗はちょうど弁当を食べ終えて、それをごそごそと鞄に詰め込んでいた。そんな作業をしながらも考え事は続いているようで、真横にいる小野原と光山の存在は一向に遮断されている。  実は、光山は最初から嫌な予感がしていた。章斗がこんな様子になるのは、大抵弟が絡んでいるからだ。だから、今、小野原に章斗のブラコンの説明をしたのだ。本当はもっと先でもいいと思っていたのだが。 「こーうーでーらぁー!」  少し拗ねた様子の小野原が、章斗の袖をぐいぐいと引っ張った。流石に接触まであれば章斗も二人の存在に気付き、ぽかんとした顔で目をパチパチと瞬かせた。 「あ、小野原…何?どしたん?」  本気で今気付いた様子に、小野原と光山はそろって息を吐く。しかし小野原は直ぐ笑顔に戻ると、首を傾げた。 「ま、いいけどね。さっきから、なにぶつぶつ言ってんの?」 「え…俺、口に出てた?」  どうやら章斗には自覚がなかったらしい。これは本気で弟絡みだ、と光山は確信した。 「さっきから、ビデオがどうのネットがどうのって言ってたぞ」  光山がそう言うと、章斗は一気に先ほどまでのような深刻な顔になった。あ、聞かない方がいいな、と光山は思ったのだが、小野原はあっさり踏み込んでしまった。 「何なに、香寺悩み事でもあるの?」 「あー、うん。あのさぁ…」 「うん?」  小野原が促す。隣で光山が渋面を作っていたが、小野原は特に深く考えていなかった。 「男同士のセックスのやり方がいまいちわかんなくてさぁ」  ピシリ、と空気が音を立てて割れた。三人を包む温度が一気に氷点下まで下がってしまったのには全く気付かず、章斗は臆面もなくなおも続ける。 「ネットとかで調べてみたんだけど、素人同士だったらちゃんとしないと流血沙汰とかになるとか書いてあってさ。ハウツー読んだりしてみたんだけど、いまいちわかんなくて。で、AVだと肝心なとこモザイクかかってて見えな…むぐっ!」 「待て待て待て待て、落ちつけ、落ちつけよ章斗!」  そう言って章斗の口を抑え込む光山の方がよほど慌てていたが、小野原がそこに突っ込みを入れることはなかった。 「お前、自分がなに言ってるか解ってんのか」 「?みつやん、どうしたんだよ」  早口になる光山の言葉に、章斗は本気で意味が解らないとばかりに眉間にわずかに皺をよせ、ハテナマークを浮かべている。 「どうしたじゃねぇよ!」  この微妙な気持ちを全く察してくれない章斗に、光山は泣きだしたい気分に駆られた。 「こ、香寺、男同士のセックスに興味があるわけ?」  やっと口を開くことができた小野原が訊ねると、章斗はひとつ頷いた。そしてにこっと笑う。章斗が笑うとえくぼができて、とても愛嬌があった。 「興味って言うか…ナオがセックスしてみたいっていうから、俺が筆下ろしをしてやりたいんだ」  ナオとは、言わずもがな、愛弟の尚斗のことだ。  笑顔で言うことじゃない、と、薄れそうになる意識で光山は思った。  がっと小野原が光山を見る。可愛らしさをかなぐり捨てた鋭い視線は、「おい、話が違うじゃねぇか!!」と責めている。光山は力なく首を振った。  これは光山にとっても青天の霹靂だった。

ともだちにシェアしよう!