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第2話

 それは三日前、金曜日のこと。章斗はいつものように学校から寄り道もせずすぐに帰ると、自室で月曜の弁当の中身を考えながらレシピ本を捲った。  尚斗の弁当を作るのは、章斗の一番の楽しみでもある。たまに気に入ったメニューがあると、「うまかった」とにこやかに言ってくる尚斗はとてつもなく可愛い。逆に嫌いなものがあれば、何も言わないが一口食べて残してあるのでとても解りやすくて助かる。決して偏食の我儘、とは思わないのが章斗だ。  本当は三食全て世話してやりたいのだが、専業主婦である母に「お母さんだって可愛い息子たちのためにご飯作ってあげたいんだから!」と泣かれて諦めた。なので、章斗は弁当に全てを懸けている。マンネリにならないよう、栄養バランスも考慮して、尚斗が気に入りそうなメニューを決めるのだ。  やがて時計が七時を指した頃、章斗は二階にある部屋を出て一階のリビングに向かった。そろそろ尚斗が帰ってくる時間だ。尚斗は中学でバスケ部に入っているため、いつも章斗より遅い。  母親が料理を作っているのを遠くに眺めながら、今か今かと尚斗の帰りを待っているとガチャッと扉の開く音がした。章斗は急いで玄関に向かう。 「腹減ったー」 「おかえり、ナオ!お疲れ様!」 「んー、ただいまー」  部活で走り回った尚斗はぐったり疲れた様子だったが、章斗にちゃんと返事を返し、のそのそと靴を脱ぐ。  章斗はその隙に床に置かれた尚斗のスポーツバッグを抱えた。ふんわりと汗の臭いが漂う。章斗からすれば、弟のそれは決して嫌なものではない。本当は荷物だけでなく尚斗も抱えてやりたい、と思う章斗なのだが、成長期の弟は身長が伸びてきて、今では章斗とほぼ変わらないくらいに大きくなってしまった。しかもスポーツをしている分、尚斗の方がウェイトがあるので、昔のように抱えてやることはもうできないだろう。 「洗濯しとくな」  バッグの中には汗まみれのTシャツやらタオルが詰め込まれている。章斗はそのまま脱衣所に向かおうとした。 「あ、兄ちゃん、これもお願い」 「ん」  章斗を呼びとめた尚斗は急いで制服のワイシャツを脱ぎ、手渡す。受け取った章斗はスキップでもしそうなくらい上機嫌に廊下を進んだ。尚斗に甘えられるのが嬉しいのだ。 「ふふふんふーん、洗濯、せんたっく~」  脱衣所についた章斗は、変な節を口ずさみながら尚斗の洗濯ものを洗濯機に放り込んでいった。一通り入れてこれで全部かな、とバッグの中を章斗は再度覗きこんだ。そしてそこに、いつもは入っていないものを見つけ、ん?と首を傾げた。 「何だこれ?」  そう呟いたものの、手に取ったそれはどう見ても手紙だった。ピンク色した可愛らしいレース模様の入った封筒には、尚斗せんぱいへと宛名されている。 「……もしかして、これって…」  ぺらりと裏返して見れば、カホより、と女の子らしい名前が。 「なっナオー!」  章斗はその手紙を抱え、大急ぎで弟の部屋を目指した。その勢いのまま、扉を開くと、着替え中だったらしい尚斗がびくっと体を跳ねさせて振り返った。 「え?なに?」  きょとん、とする尚斗は可愛い、と思いつつも、それを振り切って章斗は手紙を尚斗に突きつけた。 「ナオ!これ!これってまさか…!」 「あっ、それそっちのバッグ入れてた?」 「ら、ラブレターというやつじゃ…!」 「ああ、うん。今日もらったんだ」  あっけらかんと尚斗は言った。穿いている途中だったジャージをウエストまで上げ、ベッドに座るとにじり寄ってきた章斗の手から手紙を取った。 「兄ちゃん?」 「尚斗…!」  章斗の声は震えていた。尚斗がぎょっと目を剥くのが解る。章斗はそんな尚斗にがばりと抱きついた。 「ナオはやっぱりもてるんだな…!そうだよな、女の子が放っておくわけないもんな!こんなかっこよく立派に育って…兄ちゃんは嬉しい…!」 「ちょっと、ちょっと、兄ちゃん…もー、なんですぐ泣くかなぁ。告られただけなんですけど。めんどくせぇの」  尚斗は呆れた声で言うと、抱きつく章斗の背中をぽすぽすと叩く。  でも章斗は涙を止められなかった。尚斗は確かにかっこよくなった。もともと整った顔立ちをした子だったが、中学に入って背も伸びたし、自分でもおしゃれに気を使っているようだ。  スポーツマンにしては長めの髪は、章斗が奇麗に染めてやっているし、いじったりピンでとめたり工夫している。ただでさえ凛々しい眉も整えられて、きりっとしていて精悍だ。兄の欲目なしにして、尚斗は十分女子を引きつける魅力を纏っていた。  そんな風に立派に育ってくれたのだと思うと、章斗は幸福感でいっぱいになり、すぐ涙腺が緩む。もともと泣き虫な人間なのだが、尚斗の事となるとひとしおだった。  尚斗はそんな章斗に呆れ、頻繁な干渉にうんざりすることもあるのだが、それが愛情から来るものだと知っているので強く怒ったり反発したりすることはない。そんな尚斗の優しさに章斗はまた感激し、尚斗を構い倒す。無限ループのできあがりだ。 「げっ、ちょ、鼻水付けないで!」  ずびずびと鼻を啜りだした章斗に、尚斗は慌ててその体を離した。章斗はのそのそと尚斗から離れると、ティッシュを取ってずびーっと鼻をかんだ。そして落ち着くと、涙で赤らんだ顔をへらりと緩ませた。 「それで、ナオはこの子のこと好きなのか?付き合うの?」  ちらちらと手紙を見ながら、好奇心を隠さず章斗は訊ねた。せんぱいと書かれているのだから、相手は一年生だろう。まだ中学校入学間もないのに、早熟な女の子だ。もし付き合うのなら、家に連れてきてほしい。そして、尚斗をよろしくお願いしますと挨拶しなければ。 「んー…どうしよっかなー」 「へ?どうしよっかなって…」 「話したこともない子だし、顔も…不細工じゃないけど、好みってわけじゃないからさぁ」 「なら、断ればいいじゃないか」  好きじゃないなら答えはそれしかない。それでも尚斗はうーんと思い悩んだ様子で、章斗は首を傾げた。 「あっ、もしかして断るの、言い辛いのか?それなら兄ちゃんが代わりに…!」  尚斗は優しいから、女の子を振ったりできないのかもしれない!と、章斗は手を挙げて身を乗り出した。しかし、尚斗は「いやいやいや」と呆れきった顔をした。 「いらないって、なんで女の子振るのに兄ちゃん出てきちゃうんだよ。ただ、ちょっと彼女欲しいかなーって思って」 「男女交際がしてみたいのか……うーん…でも…」  交際は好きな相手じゃなければ苦痛だ。章斗も昔、経験がある。告白をされてなんとなく流れで付き合ってみたのだが、趣味も合わなければ会話もはずまない、二人でいる時間は禅修行のようなものだった。結局その彼女とはたった一週間で別れることとなったのだ。  そのことを告げると、尚斗は苦笑した。 「いや、付き合ってみたいっていうか…ぶっちゃけセックスしてみたいんだよね」 「!!!!」  思いもよらない尚斗の言葉に、章斗は絶句し固まった。  しかし、中学二年のくせに、しかも相手はまだ一年のくせに、そんなただれた関係は不適切だ!とか思っているわけではない。尚斗も、セックスに興味持ちだす歳になったのか…!!と、再び感動していた。  自慰だってつい二年前に覚えたばかりだったのに、とじんわり涙を溜める章斗に気付かないまま、尚斗は「でも…」と言葉を続ける。 「やっぱやめとこっかな。体目的とかちょっとサルみてーだし…」  尚斗は章斗に話しつつも、結論付けてしまったようだ。きっと最初から断る気持ちの方が大きかったのだろう。 「腹減った。飯食おうぜ」  そう言って、立ち上がる尚斗を涙の滲んだ目で見つめながら、章斗は決心した。  ――お兄ちゃんに、任せとけ…!! 「ってなわけで、さ。…みつやん?小野原?」  どこか遠い目をしている友人二人の顔の前で、章斗はぶんぶんと手を振った。 「章斗、それはな。きっと『女と』セックスがしたいんだと思うぞ」  眼前で振られる手をぱしりと掴み、どこか引き攣った顔で光山が言う。 「だって女の人はさすがに用意してやれないし…、男でも十分気持ちいいらしいぞ。しかもちゃんと開発してたら女以上に気持ちがいいとか書いてあったから」 「そういう問題じゃなくてー!お前兄弟でって…ありえねーよ!お前相手に尚斗が勃つか!」 「ああ、ナオに目隠ししてしようと思ってるから大丈夫」 「大丈夫じゃねーよ!むしろ更にアブノーマルになってる!」  流石の俺でももう嫌!と叫んで光山は頭を抱えて俯いた。その隣でずっと黙り込んでいた小野原は、急に目に光を宿した。 「分かった!!」  その大きな声に、章斗も俯いていた光山も彼に顔を向けた。小野原は章斗の手をがっと両手で掴み、力強く言った。 「俺が力になるよ!香寺!」 「小野原!」 「えええー!!」  章斗は嬉しそうに顔を輝かせ、光山は目を見開いてあんぐりと顎を落とした。 「小野原なに言ってんだお前」 「なんかもう引きすぎて一周して面白くなってきちゃったー」  小野原はケラケラと笑い、心底楽しそうに言う。そして、うなだれる光山を残し、章斗に向き直った。 「香寺、ビデオなんかより実体験!確か二年にホモだって噂の奴がいるから、そいつにやり方とか聞いてみたらいいんじゃないかな!」  小野原の提案に、章斗はおお、と感激して声を上げた。なんと素晴らしい情報だ。確かに、体験者からやり方を習うのが一番解りやすい。 「誰!?何て名前!?」 「えーとね、確かー…二年五組のぉ…フナダ?フナバシ?とかそんな名前だったか…」  曖昧な情報だが、クラスははっきりしているのですぐに解るだろう。章斗はがたっと勢いよく立ちあがった。 「ありがとう、小野原!よし、さっそく会いに――…」  と、そのままの勢いで教室を飛び出そうとした章斗だったが、その声に予鈴の音が被さってきた。 「あ、午後の授業始まる」  ぴたりと動きを止めた章斗は、再び席に戻っていそいそと次の授業の準備を始めた。サボるなんて選択肢は章斗にはない。フナダだかフナバシだかに突撃は放課後に持ちこしだ。  そんな章斗を見ながら小野原は笑い、光山は「もう勝手にしてくれ」と溜め息をついた。

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