3 / 13

第3話

 キーンコーンと全国共通なチャイムの音で、船橋紘希(ふなばしひろき) は目を覚ました。  教卓に立った教師が、「今日はここまで」と言って、委員長の号令が響く。この後はSHRで今日は終わりだ。  教師が出ていった途端に騒がしくなった教室内で、紘希は隠さずに盛大な欠伸をして机の脇に置いてあった眼鏡をかけた。 「ふ、船橋くん…」  自分を呼ぶ声に、紘希はそちらを向いた。そこにはクラスメイトの女子三人が立っていて、真ん中の髪をハーフアップにさせた子――確か、西岡といったか――が、おずおずとこちらに話しかけてきた。 「今日、一緒に帰らない?カラオケの割引券あるんだ。よかったら…」 「今日用事あるから無理」  言葉を遮って断ると、三人は見るからにがっかりした様子で、しかし食い下がることはなく去っていった。遠くからクラスメイトの男子の恨めしい視線が飛んでくる。どうやら、西岡は男に人気のある子みたいだ。  困ったものだ、と紘希は思う。これじゃ何のためにカミングアウトしたのか解らない。  紘希は、男しか性対象に見れない――生粋のゲイだ。しかし、紘希は男にはモテずに女にモテる。その理由は九割見た目に起因する。  それなりに締まった体は背も高く、顔も一重の目は程よく鋭く、鼻筋もすっと通って綺麗に整っている。着崩した制服や遊ばせた髪、耳に光るピアスのせいで軽いイメージがあるが、アクセントとして掛けられた眼鏡が少し知的なイメージを与え、その絶妙なバランスがとても魅力的に映るらしい。もちろん、これは紘希が意図して作っている外見だ。女の子にモテたい願望はないが、男にモテたい願望はある。紘希は自分を磨くことに手を抜きたいとは思わない。わざわざ外見を悪くさせるなどもってのほかだ。  そのため、告白してくる女子たちが絶えず、昨年、意を決して「自分はゲイである」と真実を告げて断り始めたのである。最初のうちはその言葉を誰も信じてくれず、六人目に同じ言葉を告げた時くらいから、やっと「一年の船橋って男はホモだ」という噂が浸透しだした。告白してくる女子には上級生もいたので、他学年にもその噂は広がっていった。  ありがたいことに高校生というものはそれなりに大人のようで、遠巻きにこちらを見ながら噂話をしてくる人ももちろんいるが、あからさまに避けられたり、迫害を受けることはなかった。それまで付き合いのあった友人も、変わらない態度で接してくれている。  しかし困ったことに、数は減ったものの、自分にアピールをしてくる女子が絶えることもなかったのだ。  二学年にあがって一ヶ月ちょっと。同じクラスの女子に誘われたのはこれで八度目だ。友情を築きたいのか、恋情を抱いているのかはすぐに解る。  見た目に手は抜かないが、女子に対する態度は冷たくしているつもりだ。それなのにこうなるのは、紘希をアクセサリーの類としか思っていないのか、生粋のゲイではなくバイだとでも思っているマゾヒストなのか。  深く溜め息をついていると、担任がやってきてHRを始めた。特に連絡事項もないようで、あっという間に解散となる。  さて、帰るか。再び騒がしくなった中、紘希が鞄を持って席を立った時だった。 「船橋!」  名前を呼ばれ、紘希は振り返った。呼んだのは特に仲のいいわけでもないクラスメイトの男子で、珍しいと目を瞬く。紘希の視線を受けた生徒は、すっと教室の後ろの入口を指差した。 「客、きてる」 「あー…どうも」  また呼び出しか。うんざりしながら紘希は鞄を抱え直し、教室の入り口に向かった。他クラスの人間は放課後を狙ってやってくることが多いのだ。  しかし、教室を出た船橋を待っていたのは女子ではなかった。 「君が…船橋、くん?」  そう言って紘希を見上げてきたのは、紛うことなく男子生徒だった。 「…そう…だけど…」  しかも、わざわざ確認をしてくるということは、紘希の顔を知らないということだ。  紘希が頷くと、その男はほっとしたように微笑んだ。 「ちょっと、話がしたいんだけど。いい?こっち…」 「え、ちょっと…!」  何の呼び出しかも解らない紘希の手を掴み、男はずんずんと歩き出す。引かれるまま、紘希は後をついていくしかなかった。  やがてたどり着いたのは屋上へ続く階段の踊り場だ。屋上に出ることは禁止されているため、ここにはめったに人がこない。紘希は何度かここに呼び出されて告白を受けたことがある。  しかし、まさかこの男が自分に告白をしてくるとは思えなかった。なにせ顔も知らなかったくらいだ。 「で、何の用スか?」  男の上履きの色が自分と違うことに気付き、紘希は一応敬語を使ってみた。男はくるっと振り返ると紘希と向き合った。  いかにも真面目を絵に描いたような男だ。身長は平均で、紘希よりも視線が十センチは下だ。ワイシャツの裾はぴったりズボンに入れられネクタイもしっかり締めてあるし、黒い髪は重たく少し野暮ったい。しかし、顔は割と整っていた。目はぱっちりとした二重のアーモンド形で、まつ毛も長い。鼻と口は小さめだが、バランス良く乗っかっている。磨けば光る人材だ。  ただ、一ミリも紘希のタイプではなかった。 「いきなりごめん。俺、三年二組の香寺章斗っていうんだけど」 「はぁ、コウデラさん、ね」 「船橋が、ゲイだって人から聞いて」  む、と紘希は顔を歪ませた。冷やかしかと思うと、胃のあたりがむかむかとしてくる。 「だったら何だって言うんスか」  不機嫌さを隠さず、紘希はぶっきらぼうに答える。すると、章斗はぱっと顔を明るくさせて紘希に詰め寄った。 「本当なんだな!?」 「そ、うですよ」  この反応は何だ。ニコニコと笑う章斗を見ながら、紘希は訝しげに柳眉を寄せた。なぜこの男はここまで嬉しそうにするのだろう。  その疑問に答えを出せないうちに、章斗はるんるんとした声のまま爆弾を落としてくれた。 「俺とセックスしてくれないか!」 「――――――は?なんて?」  紘希は言われた意味が解らず、たっぷり間をおいて聞き返すことしかできなかった。 「だから、俺とセックスをしてほしい!」  再び同じ内容を言った章斗の顔は真剣そのものだ。 「あんた、ゲイなんスか?」  聞きたいことが山ほどあったが、とりあえず紘希の口をついて出たのはそれだった。訊ねられた方は一瞬きょとんとした顔をして、直後ぎゅっと眉間に皺を寄せて深く考え込んだ。 「ゲイ…ではないかなぁ?女の子でしか抜いたことないけど」  うーん、と唸りながら出てきた答えに、紘希はますます混乱しそうになった。が、ふと気がついた。  なるほど、これはあれだ。罰ゲームか何かなんだろう。ホモがいるからそいつに告白して来いとかそんな指令を出されたに違いない。まったく、人の性癖を面白がりやがって。 「あんた、こんなことして失礼だとか思わないんスか」  苛立ちのまま、声は硬く鋭く尖る。章斗を睨みつけてやると、彼は不思議そうな顔をして見せる。それがますます紘希の癪に障った。 「ふざけんなよ。人の性癖笑いものにして、楽しいか?あんた、サイテーだな」 「え…俺、別に…笑ったりしてないけど。なんだよ、いきなり」  章斗は動揺した様子もなく、何故紘希が怒っているのか本気で解らないといった表情だ。その表情は演技に見えず、少し、紘希の熱が冷める。 「……あのさぁ、そりゃゲイだっておおっぴらにしたのは俺だけど…こんな風にダシに使われたら少しは傷つくんだよ」 「ダシ?」 「罰ゲームとか」 「罰ゲーム?」  オウム返しばかりする章斗に、紘希は地団駄を踏んで怒鳴った。 「ああもうっ!だから、あんたは罰ゲームか何かでそんなことを言いに来たんだろう!」  その声量に驚いたのか、章斗は目を丸くしてぱちぱちと何度か瞬く。そして、おもむろに口を開いた。 「いや、罰ゲームとかじゃない。俺は男同士のセックスの仕方を知りたくて…俺の知り合いにゲイの人はいないから、君に聞こうと思ったんだ」 「え?」  章斗はじっと紘希を見上げてくる。その強い視線に、彼の真剣さがびしびしと伝わってくる気がする。 「弟とセックスしたいんだけど、仕方が解らなくて困ってるんだ。絶対失敗はしたくないから。百聞は一見に如かずって言うだろう?君とやったらやり方解るかと思って」 「は?今、弟って言った?」 「うん」  なるほど、なるほど、なるほど。紘希は混乱する頭を順番に整理させていった。  どうやら、本当に罰ゲームや冷やかしの類ではないようだ。で、この人は弟とセックスをしたい。でもゲイじゃないからやり方が解らないし、やり方を知っている知り合いもいない。それで、俺がゲイだって聞いたから、俺にやり方を教えてほしい。で、教えるのは実践で頼む、と……  なるほど。 「いやわっかんねーよ!突っ込みどころだらけだよ!」  やり方を聞くだけならまだ良いけど、実践こみで教えろだなんて普通ない。紘希だってレクチャーでゲイでもないやつと寝たことなんてないし、そんな話聞いたこともない。  そして何より、弟とセックスしたいって…なに。弟って。 「?」  頭を抱える紘希を、章斗は首を傾げて見ている。  そうか。この人は、可哀相な人なのか。  紘希の表情は一変、優しくなった。ふ…、とどこか達観した憐みの目でもって、章斗を見る。 「あんた、病院行った方がいいと思う」  馬鹿にしている、というのもあるが、半ば本気の意見だ。  しかし章斗はそんな紘希の憐憫にも気付かずに、にっこり笑ってどんと自分の胸を叩いた。 「ああ、大丈夫。病院なら行ってちゃんと検査した。性病とかないから安心してくれ」 「そうじゃねーよ!」  なんでそんなとこ準備万端なんだと、がくっと肩を落とし、紘希は頭をぼりぼりと掻いた。  この人と会話するのは疲れる。はぁーと深いため息を吐く紘希に、章斗は少しだけ表情を曇らせた。 「なあ、するのが駄目なら…船橋が誰かとしてるとこ見学させてもらうだけでもいいんだ!頼むよ!」  本人はハードルを下げたつもりだろうがやはり突拍子もない申し入れに、紘希は首を振った。 「あんた、やっぱ病院行った方がいいよ。精神科か脳外科な」  ため息交じりにそう言って、紘希は踵を返した。これ以上、この人に時間を割いてなどやれない。 「あっ、船橋!」 「悪いけど、どれもお断りだ」  背中に呼び掛ける声に振りかえることもなく、ばっさりと切り捨てた紘希はすたすたと階段を下っていった。  本当に、世の中には変な人間がいるものだ。しかし学年も違うし、もうあの人とは関わることはないだろう。紘希はそう思った。  ―――のだが。 「船橋、おはよう!」  翌朝、教室の目の前で紘希を待っていたのは、笑顔の章斗だった。二年五組の入口に立ち、欠伸交じりにやってきた紘希にぶんぶんと手を振る。まだ登校したばっかりなのに、紘希はどっと疲れを感じた。 「……信じられない。俺、断りましたよね」 「お願いだ。俺が頼れるのはもう船橋しかいないんだ!ビデオいろいろ見たんだけどやっぱりよくわかんないし、昨夜ちょっとためしに指入れてみたんだけどすご…」 「ストップ、ストーップ!!」  朝っぱらから何を言っているのだこいつは!  紘希は慌てて章斗の言葉を遮り、周りを見回した。案の定、クラスメイトは離れてはいるが、興味深々とこちらに耳を傾けているのが解る。 「あの、そういうことをペラペラしゃべらないでください。あんたデリカシーってもんがないんですか」  きっとないだろうな、と思いつつ、紘希は小声で忠告した。 「ああ、みつやんにもよく言われる…俺は、ちゃんと気を付けてるつもりなんだけどな」  紘希はその『みつやん』にひどく同情した。 「何度来られても俺の気は変わりませんよ」 「困るんだ。ちゃんと練習して、尚斗に最高にいい思いをさせてやりたいんだ」  ナオトというのが弟だろうかと紘希はあたりをつけたが、あえて聞くことはしない。 「もう教室戻ってください。それで、二度と来ないでください。ほら、あと五分でHR始まりますよ」 「はっ!もうそんな時間なのか!じゃあまた昼休みな!」  とにかく帰って欲しい一心で告げた言葉に、予想外にも章斗はあっさりと去っていった。ただ、「昼休み」という不穏な言葉を残して。きっと来るのだろう。昼休みもあのテンションで。 「勘弁してくれよ…」  ぐったりとした紘希はよろよろと教室に入り、向けられる好奇の視線を遮るように机に突っ伏した。  昼休み、宣言通りに章斗はやってきた。紘希はいつも学食に行くので、やってきた章斗をひたすら無視して一人食堂に向かった。しかし、彼は弁当を携えついてきた。そして、なぜか並んで昼食をとることとなってしまった。うんともすんとも応えない紘希の隣で、章斗はまったくめげた様子もなくしゃべり続ける。  彼の弟がどれだけ素晴らしいか。その弟がセックスに興味があるとかないとか。だから自分がしてやるんだとかなんとか。  そんな話を聞いても協力してやる気持ちはこれっぽっちも湧かない。むしろ、章斗がますます重症に思える。セックスの世話までしてやるなんて、ブラコンじゃない。病気だ。  結局昼休みはずっと章斗がべったりくっついていて、紘希は授業を受けるより疲れてしまった。  そして放課後も、予想はしていたが章斗はまたやってきた。紘希は話をする隙も与えず走って逃げた。紘希の方がリーチも長いし、体力も上だったようだ。結構あっさりと振りきることができた。  しかしまた明けて次の日、同じような一日が紘希を待っているのだった。

ともだちにシェアしよう!