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第13話

 その日章斗は四時に起きた。いつもより早い散歩だったが、チョリは気にした様子もなく元気に走り回っていた。  その後、章斗と尚斗の弁当を作るのだが、それとは別メニューに紘希の好きなものを詰め込んだ弁当を丹精込めて作った。おいしいと笑う紘希の顔を思いだすと、俄然やる気が湧く。  それからはいつも通りの朝を迎え、ただ、尚斗よりも先に家を出た。どきどきと胸を高鳴らせながら、いつもの通学路を速足で行く。 「…もう来てるかな…」  学校に着いたのは、約束の十分前だった。校庭には朝練をする運動部の姿があったが、校内にはまだほとんど人の姿はなかった。  紘希を呼び出してもらったのは二年五組の教室だ。章斗は学校に着いたその足で真っ直ぐそこへ向かった。  廊下に面した窓から、椅子に座った一人の人影が見える。紘希だ。  後ろの扉をがらっと開くと、気付いた紘希が立ち上がって振りかえる。 「何だよ、徳永。こんな朝っぱらから――…」  言葉は途中で止まった。現れたのが自分を呼び出した徳永ではなく、章斗と解った瞬間、紘希の目は真ん丸に見開かれた。  章斗は驚いて固まっている紘希の方へ寄っていった。 「ごめん、用があるの俺なんだ」 「そ、うなんですか…」  紘希から一メートルの距離で立ち止まると、章斗は一つ深呼吸した。  今から言うのだ。ただでさえ速かった心拍が更に増していく。 「…なんですか?わざわざこんな…」 「あの、あのさ」  紘希に訊ねられ、章斗は視線を下に向けて口を開く。口の中が乾いて言葉が上手く出ない。  まずは、何を言うんだったっけ。章斗の頭は真っ白になった。昨日さんざん考えてちゃんと段取りよく伝えることを決めていたのに、それが一気に吹っ飛んでしまった。 「あ、そう、そうだ!弁当!あるんだ!」  真っ白な頭にまず浮かんだのは、今朝作ったお弁当だった。 「え?」 「よかったら、食べて」  言いながら、章斗は慌てて鞄を漁る。二つ入っている弁当箱の内、一つを取り出すと紘希の前へと差し出した。  章斗は紘希を見上げる。その顔が、いつぞやのように笑顔になって、「いただきます」と言ってくれるのを待った。  しかし、紘希の表情は逆に暗くなった。 「悪いけど…いりません」  辛そうな顔で、紘希は言う。言われた言葉が信じられず、章斗は愕然とした。 「なんで…」 「…弟のためのものを、俺はもらいたくないんですよ」 「え?」 「つーか、俺、しんどいんです」  はあ、と紘希は大きく息を吐いた。 「あんたの口から弟のこと報告されたくないんです。それなのにこんな呼び出しまでされたら、どうしようもないじゃないですか。それだけは聞かないように避けてたのに……」  苦々しく吐き出された声に、章斗は頭を大きく殴られたような気がした。一瞬目の前が暗くなり、息が詰まる。 「……船橋、俺のこと避けてたのか?」  章斗が震える声で訊ねると、紘希は自嘲気味に笑った。 「そうですよ。気付きませんでしたか?」  言われてしまえば、避けられていた気もする。  ―――いや、避けられていた。嫌われていたのだ。 「………っ」  それから後、章斗は記憶がない。  気付けば自分の教室の机に突っ伏していて、「どうしたんだ」と聞いてくる小野原や光山に応えることもできず、ただただ静かに涙を流し続けていた。  目の前に、弁当箱が落ちている。  紘希はしゃがみこんでそれを手にとると、大きく息を吐いた。  傷つけてしまった。ひどく辛そうな表情をしていた。  今しがた弁当を落として走り去っていった章斗の表情を思い出し、胸が苦しくなる。突き放すことしかできなかった自分が情けない。  だけど、紘希だって苦しいのだ。尚斗のために作られた弁当を食べて、思い知らされるのはもう嫌だし、好きな人が他の男と寝た話など――しかも本人の口から――聞いて、笑顔で「よかったですね」と言えるほど、紘希は大人ではないのだ。  だから、弁当は受け取らず、尚斗の話だけは聞かないようにしていたのに。逃げられない状況を作られてしまえば、紘希にはもう拒絶することでしか自分を守ることができなかった。  これでもう、普通に友人として付き合っていく道すら断たれてしまったのか。 「情けねぇの…」  ずっとその場で項垂れていると、だんだん校舎内が騒がしくなってきた。  どんなに落ち込んでいようとも、いつものように日常は始まっていくのである。  昼休み、紘希はゆっくりと立ちあがり、いつものように食堂へと向かった。  章斗が落としていった弁当は、鞄の中に入れてある。後で、光山か小野原にでも頼んで章斗に返してもらおうと思う。  食堂に入ったところで、紘希は券売機の前に徳永の姿を見つけた。向こうもこちらに気付いたようで、徳永は手を挙げた。 「よぉ、何してんだこんなとこで」  笑いながらそんなことを言う徳永に、紘希はぴくりとこめかみを震わせた。 「飯食いに来たに決まってんだろうが」  自然、言葉が刺々しくなってしまう。元はといえば、この男が紘希を呼び出すことに加担しなければこんな結末にはならなかったのに、という思いが湧いてくる。  冷静になれば、徳永がおらずともいずれはこうなっていたと紘希も解る。ただ、今はこのやるせない気持ちを誰かにぶつけてしまいたかったのだ。  しかし、徳永は紘希の態度を気にする様子は全くなく、きょとんとする。 「なんで?愛妻弁当は?」 「はぁ?」  なぜ徳永が弁当の存在を知っているのだろう。それを訊ねるより早く、徳永は不思議そうに言葉を続けた。 「今頃仲良く弁当突っついてんのかと思ってたのに。あーんとかしちゃったりしてさぁ。男同士は羨ましくはないけど、バカップルってやつはどんなのでも妬ましいしムカつきはするな」 「なに言ってんだ?お前…」  紘希は眉根を寄せて訝る。徳永は何を知っていて、どう勘違いをしているのだ。  徳永はニヤリと笑う。 「隠さなくても知ってるって。俺が頼まれて、お前呼び出したんだぜ?」 「だから、何を知ってるんだよ!」 「なにカリカリしてんだよ。香寺さんに手作り弁当もらって、告白されたんだろ?」  紘希は言葉を失った。息も心臓も止まってしまったかと錯覚するほど、全てがぴたりと動きを止めたかのように固まる。 「初彼氏おめでとう」  その徳永の言葉に弾かれるように、紘希は走り出した。 「あ、おい、船橋?」  驚いた徳永の声を無視し、紘希は今来た道を遡るように全速力で駆けた。  まさか、そんな、そんなわけない…!  息せききって教室に駆け込んだ紘希を、何人かいたクラスメイトが驚いた顔で見つめる。その視線もすべて無視して、紘希は鞄から弁当箱を取り出した。  蓋を開けば、落としたせいか中身はぐちゃぐちゃによれてしまっていた。しかし、それでもおいしそうだった。こふきいもに鶏肉のソテー、玉ねぎのマリネ、それから玉子焼き。他にも紘希の好きな物ばかりつまっている。  紘希は玉子焼きを手で掴んで口に運んだ。食んだ玉子焼きは柔らかい。そして、出汁の味が効いている。  おいしい。これは間違いなく、尚斗ではなく紘希のためだけに作られた弁当だった。  紘希は立ったまま、がつがつと弁当をかきこんだ。どれもこれも涙が出そうなほどおいしい。  あっという間に全て食べ終わると、紘希は弁当箱を持って教室を飛び出した。三年の教室が連なる廊下を走り、章斗のクラスの扉を勢いよく開いた。  激しい音に、教室内にいる生徒の目が一斉に紘希に向く。その面々に、紘希はさっと目を通す。しかし、そこに章斗はいない。代わりに光山と小野原の姿を見つけ、紘希はそちらに駆け寄った。  小野原は紘希に冷めた視線を送ってくる。光山の表情からは何も読み取れない。しかし構わず、紘希は問いかけた。 「香寺さん、どこですか」 「…お前、香寺をどうしたいの?両思いだと思ってたのに、香寺のこと焚きつけるんじゃなかっ…」 「どこかって聞いてるんです!!」  怒ったような小野原の声を遮って、紘希は怒鳴った。  小野原はむっと口を噤み、それっきり口を開こうとしない。紘希はもう一人――光山に視線を向けた。 「……不本意だけど、俺はあいつの保護者みたいなもんなんだ。傷ついて欲しくないわけ」  その言葉は、章斗の所在を教えることを拒絶している。 「俺だって…」  章斗を傷つけたくなどなかった。だが、自分が傷つくのを恐れ、代わりに傷つけた。ちゃんと章斗の話を聞けばよかったのだ。悔やんでも悔やみきれない。  ぎり、と歯を噛みしめる紘希に、光山がひとつ、呆れたように息を吐いた。 「……まあ、あいつの方にも悪い要因がいくつかあるもんな」  そう呟いた後、光山は外を指差した。 「章斗は早退した」 「早退?」 「目が腫れて授業どころじゃなかったからな」  それは、泣いて、ということだろうか。涙もろい章斗のことだ。きっと泣いたのだ。うぬぼれではなく、紘希に嫌われたと思って涙を零したのだろう。  紘希はぎゅっと拳を握った。 「香寺さんの家の住所、教えてください!」  紘希は光山に食いつくように頼んだ。 「教えたら、どうすんだよ」 「今から行くに決まってんでしょう!!」  食い気味に紘希が応えると、それまで仏頂面だった小野原の顔が少し和らいだ。 「なんだ…やっぱりそうなんじゃん…」  ほっとしたように呟く小野原の横で、紘希は光山が言う住所を頭に叩き込んだ。それから教室を飛び出す。  鞄は置きっぱなしだが、財布だけはポケットにあるので大丈夫だ。紘希はそのまま学校を抜け出した。  インターホンを鳴らすと、女性の声がした。 「はーい、どちら様ですか?」 「あ、こんにちは。章斗さんと同じ学校の船橋と言います」 「あらあら、ちょっと待ってくださいね」  ぶつりと回線が切れ、数秒後、玄関のドアが開かれた。ひょこっと顔を出した中年の女性は章斗の母親だろう。アーモンド形の目が一緒だった。 「どうぞあがって」  言葉に甘え、紘希は家にあがらせてもらった。 「船橋君て言うの?かっこいいわねぇ。こんなお友達がいるなんて、章斗も幸せ者ねぇ」  そんなことを言う母親に、紘希は曖昧に返答をする。しかし話は長引くことなく、すぐに二階にある章斗の部屋に案内された。  コンコン、とノックをすると、中から「はーい」と返事があった。  章斗の声だ。それだけで紘希は緊張した。 「章斗、お友達がお見舞いに来てくれたわよー」  ドアに鍵は掛かっていなかったらしく、母親がドアノブを捻るとあっさり開いた。 「さ、中へどうぞ。ごゆっくり」  促され、紘希は眼鏡を外してから一人部屋の中へと進む。ベッドがこんもりと膨らんでいて、もぞもぞと動いた。 「誰?みつやん?」  くぐもった声と同時に、掛け布団がばさりと払われ、章斗が顔を出し、固まった。 「船橋…?」  真ん丸に見開かれた章斗の目は赤く、腫れていた。その痛々しい姿の原因は紘希だ。ぎゅっと心臓を鷲掴まれた気分になった。 「なんで…」  章斗の顔がぐしゃっと歪み、目に水が溜まっていく。それは喜びではなく、明らかに哀しみの涙だ。紘希は慌て、口を開こうとした。しかし、掛けるべき言葉が思いつかない。勢いでここまで来たはいいが、どうしたら章斗を傷つけず、笑顔に戻せるのだろうか。 「あのっ……」  どうしたらいい。何を言えばいい。  言葉に詰まり、沈黙が落ちる。紘希は自然と俯いた。 「………ごめん」  謝ったのは、章斗だった。紘希は弾かれたように顔を上げる。 「俺、俺…船橋のことが好きなんだ。俺、船橋のタイプじゃないし、嫌われてるけど…好きなんだ。親友になりたいって言ったけど、本当は船橋の恋人になりたいって思っちゃって……」  ほろほろと涙を零しながら、心底申し訳なさそうに章斗は言う。  紘希は自分をぶん殴ってやりたかった。こんなことを言わせたいんじゃない。紘希が、章斗に好きだと言いに来たのだ。 「ごめんな…ごめん、ご…っ!!」  何度も謝ろうとする章斗の口を、紘希は己の唇で強引に塞いだ。呼吸をすべて奪うように口づけ、ゆっくりと離す。  章斗は目を瞠り、潤んだそれで紘希を見上げる。 「俺は、香寺さんが好きです。俺の言う好きは、最初から友情なんかじゃない。今まで俺が何度も何度も言ってきた好きは、全部、あんたを愛おしいと思って言った言葉です。だから、恋人になりたいって言われて、死ぬほど嬉しい」  じっと章斗の瞳を見つめながら、紘希は伝われ、伝われ、と意志を込めながら言う。 「避けたのは、嫌いだからじゃないんです。逆に、好きだから…避けたって言うか…その、弟に嫉妬したって言うか…とにかく、すげー後悔してるし、反省しまくってます。ごめんなさい」 「じゃあ……船橋、俺と本当に恋人になってくれるの……?」  呆然としながら、章斗が問う。 「もちろん。というか、こっちからお願いします。俺と付き合って下さい」  また章斗の顔がぐしゃっと歪み、瞳が潤む。今度は間違いなく喜びの涙で、紘希もほっと微笑む。何度もコクコクと頷く章斗に、紘希は再び唇を寄せた。  章斗の顔を両手で包み、近い距離で見つめ合う。すると、章斗がおずおずと口を開いた。 「……あの、あのな。俺、ナオとしてないから」  章斗の気持ちを聞いてからはそうではないかと思っていたが、実際に本人の口から聞いて紘希は心底安堵した。 「船橋以外とはしたくないんだ」  頬を染めて付け加えられた言葉に、紘希はごくりと唾を呑んだ。おあつらえ向きに今はベッドの上だ。  欲望のまま章斗を押し倒そうとしたところで、部屋のドアがノックされた。 「お茶持って来たわよー。船橋君、シュークリームとショートケーキどっちがいいかしら?」  お盆を持って入ってきた母親に、紘希は慌てて章斗から離れたのだった。  その後、紘希は夕飯を食べて行けと言う母親に引きとめられ、香寺家に居座ることになった。  もうすぐ午後七時。目の腫れも引いた章斗は、今や元気いっぱいだ。 「あ、そろそろナオが帰ってくる」  そう言って当然のように玄関に向かう姿は、少し面白くない。しかし、こればっかりは諦めるしかないと、無駄な嫉妬で章斗を傷つけまいと紘希は堪えた。 「ただいまー。あれ?お客さん?」  帰ってきた件の弟は、章斗とは似ておらず、普通に今時の子だった。 「兄ちゃんの友達ですか?かっこいいっすね。俺、尚斗っていいます」  しかも愛想もいい。  しかし、章斗が、 「後輩の船橋って言うんだ」  と紹介した瞬間、その愛想は消滅した。 「ああ、この人があの後輩?ふーん」  一気に感じの悪くなった尚斗は、明らかに紘希を敵対視していた。章斗が今まで紘希の事をどんなふうに話していたのかは知らないが、どうやら、尚斗の方も相当なブラコンのようだ。これは強敵だ。 「な、ナオかっこいいだろ?」  自慢げに言ってくる章斗に、紘希はむっとした。堪えが効かなくなりそうだ。 「俺とどっちがかっこいいですか」  つい、そんなことを聞いてしまう。 「え?うーん…えーと………」  暫く章斗は真剣に悩み、ややあって頬をほんのり染めてへらっと笑った。 「船橋、かな」  その答えに、紘希は頬を緩めた。今はこれで十分だ。  素早く章斗からキスを奪う。  そのうち全部の愛を紘希に向けさせてやると、心の中で誓いながら。  香寺章斗の起床時間は、十分早くなった。  四十分かけて愛犬の散歩をし、弁当作りを開始する。この弁当作りが十分延びたためだ。  弁当箱は三つ。玉子焼きは、甘いものと出汁巻きと、必ず二種類作る。彩りよくおいしそうな弁当をせっせと愛情込めて作るのだ。  章斗はそのうち二つの弁当箱を抱えて登校する。  学校の最寄駅に着けば、その弁当を食べる相手が毎日待ってくれている。 「おはよう、船橋」 「おはようございます」  そうして学校までの道のりを、二人並んで歩んでいくのだ。 「およそ男子高校生らしからぬ朝だね」  二人を眺めながら、にやっと小野原が笑う。  その隣に並んだ光山が、ふっと息を吐いた。 「まあ、いいんじゃないか」 END

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