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第12話

 七時までに家に帰りついた章斗は、無事尚斗を出迎えられた。  いつものように世話を焼いて、父親を除いた家族三人で夕飯を取る。夕食は、なんだか味がしなかった。  その後、自室にこもって何もせずにベッドに転がっていた。紘希はちゃんと夕食を作れただろうか。ぼんやりとそんなことを思っていると、尚斗がやってきた。 「兄ちゃん、なんか今日おかしくない?」  開口一番そう言われた。章斗を気にして来てくれたようだ。  章斗は泣きたくなった。尚斗が心配してくれるのが嬉しいというのもある。しかし、感激の涙ではない。章斗の様子がおかしい原因は間違いなく紘希で、その紘希の事を思い出すと、理由も解らず涙が込み上げてくる。 「あのさ……ナオ、セックスしたいって言ってたじゃん」 「えっ?ああ、うんまぁ…言ったね、そんなこと」  頬を少し赤くしながら、尚斗が頷く。 「だから、兄ちゃんがさ…」  させてやる。そのために練習したから、きっと気持ち良くできる。  だけど、その先の言葉が続かない。  嫌だと言った紘希が脳裏に蘇る。尚斗の望みより、紘希のそれを優先させたい自分がいる。  そして、それ以上に、尚斗との行為にだんだんと違和感を覚え始めていた。紘希とのセックスは気持ち良くて幸福感に満ちて、幸せだった。あの行為を紘希以外とすることに、拒絶感が芽生えてしまっている。  ほろり、と章斗の目から涙が零れた。 「………ごめん…兄ちゃん、なんもしてやれないんだ…」  自分が情けなくて、章斗は項垂れた。 「へっ!?なに言ってんだよ、なんもしなくていいって!」  尚斗がぎょっと声を上げた。驚いたその声に、章斗はゆっくり顔を上げる。尚斗は困った顔をしていた。 「いいの…?」 「兄ちゃんに彼女の世話までされたくないよ。そんなことで悩んでたの?もー、泣かなくていいってば!」  ぽんぽんと慰められるように頭を撫でられ、章斗の目から更に涙が溢れ出た。 「ナオぉ…!」  がばりと勢いよく尚斗に抱きつくと、彼は優しく受け止めてくれた。  しかし、章斗がずびずびと鼻を啜り出すと、 「ぎゃっ!鼻水つけないで!!」  と、いつものように叱られた。  翌日、章斗はいつも通り家を出たが、いつも乗る電車を見送ってから、次の電車に乗り込んだ。  この時間帯なら、通学路で紘希に会えるかもしれないと思った。尚斗とセックスをするのはなくなったと、はやく紘希に伝えたかった。  果たして、章斗は学校のほど近くで紘希の姿を見つけた。 「船橋!」 「あ……おはようございます」  振り返り立ち止まってくれた紘希は、眼鏡をかけていた。最近はずっと外していたので、眼鏡姿は久しぶりな気がする。その顔は微笑んでいたが、どこか違和感がある。 「おはよう。えっと…その…」  並んで歩きながら、章斗は話を切り出そうとした。しかし、それより先に紘希が話題を振ってきた。 「テスト週間入りましたね。もう勉強してますか?」 「あ、いや。まだ全然」 「俺も。早くやんないと地理がちょっとヤバいんですよね。香寺さんって社会の選択なんですか?」 「あ、うん。俺も地理」 「マジすか。じゃあ二年の時どんな問題出たか教えてくださいよ」  そのまま会話は弾む。というより、紘希が次々と話を振ってくる。結局、尚斗のことを話せないまま、二人は下駄箱まで着いてしまった。  仕方なく、章斗は強引に話を切り出した。 「あのさ!尚斗のことなんだけど…」 「あ、すいません。おれ宿題してなくて急いでいかなきゃなんで!」  しかし、紘希はそれを遮って、そそくさと教室に向かってしまった。  宿題があるのなら仕方がない。章斗は肩を落としながらも、またあとで言えばいいかと自分に言い聞かせた。  しかし、教室に向かっている途中でふと気付いた。もう紘希と会う約束はしていない。レッスンは昨日で終わってしまったので、紘希の家に行く必要もなく、約束も取り付けていない。日曜のように一緒に出かける予定もない。  別に、教室まで会いに行けばいいだけの話なのだが、気分が沈んだ。自然、取り巻く空気が暗くなり、ずーんと沈んだまま章斗は教室の中へと入った。 「おはよう、香寺!…って何か暗くない?」  席に着くと、小野原が寄ってきた。そして不思議そうに章斗を眺める。 「何かあったのか?」  隣の席の光山も、怪訝そうにこちらを伺ってくる。 「……船橋が」  名前を出すと、涙がせり上がってきた。昨日から泣きすぎだと解っていても、止めようがない。  小野原はぎょっとしたが、幼いころから章斗が泣くのを見慣れている光山は、またかと呆れたような顔だった。 「聞いてやるから、話せよ」  光山の声に、章斗は頷いた。 「船橋が……終わって、もう何にもなくって、たぶんそれが悲しい」 「は?」  小野原が首を傾げる。しかし章斗は止まらず、ほろほろと涙を零しながら続けた。 「ナオの、船橋がやだって言って、俺も嫌で、結局何もできなくて、悲しい。でもナオもいいって言って、でも船橋、何か笑顔が違って、言いたいのに言えてなくて、それもきっと悲しい」 「……意味が全く理解できないんだけど…」  苦笑しながら小野原が言う。章斗自身も考えがまとまっておらず、何が言いたいのか解っていないのだ。仕方のないことだろう。  でも、光山だけは一つ息を吐くと、とんとんと机を指で叩いた。 「えーと、まず、船橋にアレを教えてもらうってのが終わった、と?」  章斗は一つ頷く。 「それで…もう会う理由がないから悲しい?」 「うん」 「すごい、みつやん。よく解るね」 「だてに長年世話してねーよ」  感心する小野原に、光山は鼻を鳴らした。 「あと、ヤダってのは…あれか。船橋が、お前が尚斗とするのが嫌だって言ったのか?」 「そう」 「えっ?それってさぁ…」  小野原が驚いたように声を上げたが、光山が視線でそれを制した。小野原はおとなしく口を噤む。  光山は再び章斗に向き直った。そしてまた、簡単な問いかけをしていく。章斗は頷いたり首を振ったりして答えていった。 「まとめると、だ。船橋からのレッスンが終わったところで、船橋からお前と尚斗が寝るのはいやだと言われた。それでもお前は寝ようとしたが、いざしようとなると、何故かお前も尚斗とするのは嫌だった。で、結局は尚斗も全然乗り気じゃなくて、筆下ろしは中止。そのことを船橋に言おうとしたが、まだ言えてない。で、今朝会った船橋は笑顔だけどどこか違和感あって、なんだか寂しくて、レッスンが終わってしまっているから、もう船橋の家に行く約束もないことに気付いて暗くなってた」 「…………そう」  章斗は情けなくて、応える声を萎めてしまった。小野原は見事に纏めた光山に感銘を受けているようだった。 「……一応聞いとくけど、なんで尚斗としたくなくなったわけ?」 「ナオは船橋じゃないから」  そう言った瞬間、光山と小野原が同時にはぁぁぁっと大きな溜め息を落とした。何事かと章斗は目を瞬く。 「最初の執着っぷりからそんな気はしてたけど……お前、船橋のこと好きなんだな」  どこか困った顔で告げる光山に、章斗はうんと頷く。 「好きだよ。みつやんと小野原と同じくらい…」  そう言いかけて、あっと章斗は首を振った。 「いや、ごめん、みつやんたちより好きかも」  こんなことを言うのは失礼だと解っていたが、それが章斗の本心だ。もし、光山と紘希に同時に遊びに誘われたら、きっと紘希の方に行きたいと思ってしまうだろう。  しかし、意外にも光山は怒ることなく、どこか呆れた顔になった。 「なんでそこで俺達を引き合いに出すんだよ。俺に対してとじゃ好きの種類が違うだろうが」 「へ?」  言われた意味が解らず、章斗は間抜けな声を上げた。もう一度大きな溜め息が聞こえた。 「何だよ、香寺そこから解ってないの?」 「お前が船橋のことを好きなのは、友人としてじゃないだろ」 「は?」 「お前は…船橋に惚れてるんだろーが」  こんな恥ずかしいこと言わせんなよ、と光山は章斗の頭をすぱんと叩く。小野原が次いで、章斗に詰め寄ってきた。 「香寺はさ、恋愛の意味で、彼氏彼女…じゃなくてこの場合彼氏彼氏…とにかく船橋とらっぶらぶな本当の恋人同士になりたいんでしょ?だから最愛の弟くんでも他の人とやるのは嫌で、船橋といつも一緒に過ごしたいって思ってるんじゃん」 章斗は目をパチパチと二回瞬かせ、光山と小野原の言葉を何度も頭の中でリフレインさせた。そしてその意味をじっくりと吟味していくと、すとん、と心が落ち着いた。 「ああ、そっか…そうだ。俺、船橋のことが好きなんだ…」  紘希との時間に幸せを感じた。どういう意図であれ、好きだといわれて胸が震えた。キスに心が満たされた。  それらは全て、紘希のことを好きだったからだ。  やっと解ったか、と光山と小野原がほっと胸を撫で下ろす。しかし、次の瞬間章斗はまた泣きそうになり、二人の安堵はあっという間に霧散する。 「おい、今度は何だ!」 「駄目だ。俺、駄目」  がっくりとうなだれた章斗に、光山は苛立ち気味だ。 「だって、俺、船橋の好みかすりもしてないらしいんだ…」  紘希から好きだとは言われたが、それは友人としてのものだ。以前、章斗は紘希から告げられたことがあった。章斗は紘希のタイプではないと。さらに小野原が調達してきた紘希のタイプのメモ内容も、章斗からは程遠かった。 「なぁんだ。そんなこと関係ないよ」  内容通り、何とも無さそうな声音であっけらかんと小野原が言う。章斗はちらりと顔を上げて縋るように小野原を見た。 「だってさぁ、どう考えても船橋だって香寺のこと――…」  そこで、言葉が途切れた。 「いや、やめた。やっぱり、告白をするべきだと思うのです!」  一拍置いた後、小野原が口にしたのは先ほどの言葉の続きではなくそれだった。 「そうか…告白かぁ…」  ぼんやりと章斗は呟く。そうそう、と小野原は頷くが、光山はもう会話に入ってはこなかった。どこか疲れた顔で、小野原を見ている。  生まれてこの方、章斗は告白というものをしたことがない。駄目だと解っていても、告白はするものなのだろうか。  その疑問をそのまま口にすると、小野原はにやにやした顔で頷いた。 「当然!言うべきだね。自分の気持ちを伝えるって大事だよ」 「でもそれで迷惑がられたら嫌だなぁ」 「そこは大丈夫!迷惑がられることだけは絶っっっ対ないから!!」  小野原は確信を持っているのか、どんと胸を張ってそう言いきる。なぜ小野原にそんなことがわかるのだろうか。小野原の方が章斗よりも紘希の事を理解できていると言うことなのだろうか。そう思うと、章斗はすこしむっとした。 「ああ、これも嫉妬になるのか…」 「嫉妬?何が?」 「いや、別に何でもないよ」 「まあ、とにかく!付き合う人イコール好みの人、ってわけじゃないからね。世の中、好みのタイプと付き合ってる人の方が少ないと思うよ。告白した者勝ちだって!」  そういうものだろうか。少し疑問に思いながらも、章斗もだんだんとその気になってきた。  告白した者勝ちなら、早い方がいい。まずは尚斗とはセックスはしてないし、これからもしないということを伝えないといけない。それから、好きだと言おう。友人としてではなく、ふりではない恋人同士になりたいと。駄目だったら、今まで通りの友人で居てもらおう。 「……じゃあ、言ってみる!今から言ってくる!」  章斗はガタリと立ちあがった。基本、章斗はプラス思考だ。 「その意気だ!行け、香寺!」  小野原が囃し立てる。しかし、その瞬間。  キーンコーン…… 「あ、HR始まるや」  サボりなどできない章斗は、再び椅子に座りなおして小野原に溜め息を吐かれたのだった。  結局、紘希の元へ行くのは昼休みとなったのだが、教室に行ってみても紘希の姿はなかった。いつも食堂に行っていることを知っているので、そちらにも行ってみたがそこにも紘希はいなかった。  紘希のクラスメイトに訊ねてみると、今日は購買でパンを買っていたと言う。それならどこかでそれを食べているのだろうが、探せども探せども、紘希を見つけることは出来なかった。  出鼻をくじかれ、章斗は肩を落として教室へ戻った。こうなれば放課後にまた行くしかない。  そして放課後、章斗は再び紘希の教室へと足を向けた。 「船橋!」  走ってきた甲斐あって、紘希はまだ教室にいた。ちょうど席を立ったところだったようだ。 「ああ…どうしたんです?」  小首を傾げながら、鞄を持った紘希は章斗の元へ寄ってきた。 「あのさ、ちょっと話が…」 「話?」 「ナオの…」  僅かに緊張しながら、章斗はそう切り出した。おずおずと紘希を見上げる。しかし、紘希はふいと章斗から目を逸らした。 「あっ…すいません。俺今日バイトで、急いでるんですよ」 「え」 「それじゃあ、また」 「ああ、うん……」  紘希は章斗の脇を抜け、廊下をすたすたと進んでいく。  追いかけることもできずに、章斗はその背中を見送った。無理に止めて嫌われたくはない。だけど、紘希の態度がどこかおかしいのは解る。 「めげるな香寺!俺に任せて!」 「小野原…」  しょんぼりしていると、小野原がすすっと寄ってきた。章斗は気付いていなかったが、どうやらすぐ近くにいて章斗たちのやり取りを見ていたらしい。  小野原は制服のポケットから携帯を取り出すと、どこかに電話をかけ始めた。 「……あ、もしもし、徳永?あのさぁ、頼みたいことあるんだけどー」  相手はどうやら、紘希のタイプを教えてくれたあの後輩のようだ。 「明日の朝、船橋呼び出してもらえない?香寺が話したいんだって。うん、香寺じゃなくてお前の名前で呼び出しといて。いやいや、徳永は来なくていいよ」  その内容に、章斗はぱっと顔を明るくさせた。 「うん、うん…そうそう、よろしくな。じゃーな」  電話を終えた小野原は、にっと笑った。 「明日、八時に学校来るように呼び出してもらうから、そのとき告白しな。朝だったら用事もないだろうし、ゆっくり話せるでしょ」 「小野原、神…!!」 「だから崇めていいよー」  章斗は感激に打ち震えながら、明日のことを思った。  明日――なら、弁当を作ってこよう。それを渡して告白しよう。章斗は紘希のタイプの人間じゃないけれど、料理は気に入ってもらえているから。

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