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第1話

-ハナミズキ-  月下(つきもと)さんは冷たい人だ。  エドさん―みんなからはそう呼ばれてるしボクもそう呼んでる―染井エドワーズ八重(やえ)さんは全くエドワーズなんて単語がフルネームに入っていることを思わせない顔立ちだけど、それでももうボクの中ではエドさんはエドさんだった。もう江戸さんかなって、頭の中で勝手に変換されちゃう。長い付き合いだから。昔からの顔馴染み。4つ5つくらい歳が違うけどずっと一緒だった。秋桜(あきお)さん―秋桜(あきお)咲多(さくた)会長さん―ともずっと一緒で、兄弟みたいに育った。秋桜(あきお)さんとはもっと歳が離れてるんだけど。だから分かるんだ、秋桜(あきお)さんとエドさんのちょっとした感情の動きみたいなの。特にエドさんは感情がすぐ表に出る。秋桜(あきお)さんは熱いしむさ苦しいけど、やっぱ大きな組織束ねてるだけあって、なんだかんだで落ち着いてるからっていうのもあるんだけど。 「気のせいですよ」  月下(つきもと)さんは冷たい人だ。ボクは、え?とおどけた。月下(つきもと)さんの部屋で月見蕎麦を啜る。なんだか小難しい本を読んでいたらしいけどボクが来たことで栞を挟んで机に置いた。秋桜(あきお)さんの妹を妻にして、でも半年前に病で亡くなった。急なことじゃない。もう余命宣告もされていて本人は知っていたのか分からないけど、秋桜(あきお)さんもエドさんもそれから夫の月下(つきもと)さんも勿論知っていた。月下(つきもと)さんはそれから少しずつ体調を崩すようになって、秋桜(あきお)さんは義弟のことを心配しているし、会長であり幼馴染がそんなだから側近のエドさんも、やっぱり月下(つきもと)さんを心配してる。それは秋桜(あきお)さんを(おもんばか)って、ではなくて。多少なりともそれはある。でももっと個人的に。月下(つきもと)さんが頼んでくれた月見蕎麦を食べながら、ボクはエドさんが月下(つきもと)さんを心配しているのだという旨を余計なお世話を働かせて伝えに来た。でも気のせいだと一蹴。 「そうですかぁ?ボクはエドさん、月下(つきもと)さんのことを心配してると思うけどなぁ」  月下(つきもと)さんは神経質そうな切れ長い瞳を伏せて苦笑いしながら首を振った。綺麗だな、と思う。三十路に差し掛かっているのに同年代と比べると透き通るみたいに白くてシミとシワもない綺麗な肌。知的で綺麗な人、って印象だけど少し間違えると陰険にも見えたし実際頭が良くて気が回って秋桜(あきお)さんの顔を立てようとするから普段は優しそうなんだけど時には厳しいし、少し敬遠されがちだった。秋桜(あきお)さんとは夫婦役みたいなエドさんに遠慮があるみたいで上手く立ち回れる器用な人ではある。 「それは、会長が私を心配してくださるからでしょう。染井さんには申し訳ないと思っています」 「そうかなぁ」 「ええ、染井さんに面と向かって言われましたからね、お前は気に入らん、と。はっきり」  なんだかスッとした気持ちになった。謎の安心感。満たされた腹の消化が始まった時の感覚にも似ているから、もしかしたらそれかな。 「エドさんが?随分とはっきり言うなぁ」 「私が何か気に障ることを言ったのでしょうけれど」  特に傷付いた様子はない。淡々と普段の雑談と変わらない。ボクが与り知らないことだった。エドさんは素直じゃないし、意地っ張りだ。ボクや秋桜(あきお)さんには付き合いの長さもあるから少しの弱みくらいなら見せるけど、他の人にはそれを隠そうとする。冷静を装って、少し抜けてる秋桜(あきお)さんの足りない部分を補おうとする。 「でも今は、純粋に心配してるって感じでしたけどね」  月下さんは少し困った顔をした。表情は何も変わらないけど、何となく分かった。心配されることに困ってるんだ。ボクらか、それともエドさん個人に心配されることを月下さんは困ってるんだ。 「それをわざわざ君は伝えに来てくれたのですものね。ありがとう」  つまらない人だと思う。冷たい人だと。ボクたちの心配とボクの余計な世話を受け入れて肯定する形をとって、それで終わらせる気だ。 「いやいやそんな、」 「アイス食べますか。風信(かぜのぶ)がたくさん置いていきましてね、どうもなかなか減らなくて」  ボクの言葉を遮って、聞こえないふりをして月下さんはボクに背を向ける。風信(かぜのぶ)さんが置いていったアイスを取りに行くのだろう。風信(かぜのぶ)さんは、ボクが秋桜(あきお)さんとエドさんと付き合いが長いように、月下さんと付き合いが長い。月下さんより少し年下で、月下さんは彼にだけ砕けて話す。風信(かぜのぶ)さんも、もともと砕けた明るいひとだけど月下さんにだけは敬語を使わない、犬のような人だった。あの人も、あまり顔を出さなくなった月下さんのもとに来ていたらしい。仲良いし、別に不思議じゃないけどさ。なんだかつまらない。ボクが秋桜さんの次くらいに来たと思った。妻を亡くした男の、殺風景な部屋を見回す。月下さんの落ち着いた匂い。腹の奥が小さく痛む。腹痛とは違う、軋みのようなもの。月下さんは年少のボクを気に掛けてくれる。よく声をかけてくれる。集まりの時は隣に来ることも多いし、なんでかなって思った。秋桜さんの義弟なんだし秋桜さんとエドさんの近くでも何ら問題はない。エドさんと不仲なのを気にしているのかな。そういう秋桜さんエドさんと比べたら長くもないけど短くもないの中で、月下さんは酷く冷たくて孤独な人だと思った。ふと見せる剥き出しの表情が危うげで、ボクは信用されてるんだなって思う。信用、じゃないかも。あれは。あれはボクを軽んじているわけではないけど、ボクのこと、弟とか子供みたいに思ってるんだなって感じだ。子供っぽさで言えば、風信(かぜのぶ)さんだって負けてないのに。 「バニラとチョコ、どちらにします?」 「チョコ」  月下さんの穏やかな笑み。チョコを選ぶことを見越していたような。少し高いアイスをスプーンと出されて、反射しても傷の無い銀の表面が神経質な月下さんだなって思った。 「月下さん、ちゃんと食べられてます?」 「はい。そろそろ、きちんと」  きちんと、何だろう。手首を摩り俯いてしまう。微かに見えた痣。白くて三十路の男にしては細い手首に残る妙な掠れた傷。 「きちんと、何ですか」 「いいえ、きちんと顔を出します」  風信さんに見せるよりは少し遠慮があるけど、やっぱりボクは月下さんに可愛いがられてるんだなって思う柔らかな笑顔。 「エドさんと喧嘩してたじゃないですか」  ぴくって眉が動いて、でも月下さんは上手く逸らすでしょ。分かってるんだ、月下さんもエドさんが苦手で、ボクのことは弟みたいに思っていて、風信さんは気の置けない友達で、秋桜さんに男とか上司とか義兄とかで括るには括りきれない想いを抱いてるってこと。 「喧嘩…ってことのほどでは、ないですよ」  誤魔化されるのかと思って、肯定した上で訂正されるとは思わなかった。 「そうでしたか。まぁ、首を突っ込む気は全くなくて。ただエドさん、あれから少し様子が変だから。怒ってるわけじゃなくて。ただばつが悪いんだと思います、やっぱ素直じゃないから」 「…はい」  線の細い身体は男性とすぐ分かるけど、なんだか妙に妖しくて。控えめな返事はまるで泣き始めるんじゃないかってくらい沈んでいた。腹の奥の軋みが大きくなって疼きが心臓にまで響いてくる。節くれだった綺麗な手が動くたびに嫌でも目が関節だの切り揃えられた爪だのを追ってしまって、口の中に溶けていくお上品な苦味を帯びた甘味と微かなしょっぱさ。カップの中のチョコアイスが溶けて縁が濡れている。汚したいな、って思った。そう思うよね?チョコアイス。 「花水木(はなみき)くん?」  くっくく…って笑い声が押し殺しきれなかった。俯いて、止められない笑いをどうにか抑えようとするけどダメで、月下さんはボクに甘いから、心配そうにボクを覗き込む。病気で妻を亡くしたのもあって、少し大袈裟だ。 「月見蕎麦に(あた)ってしまいましたか」  ボクの隣へ近寄って、ボクは月下さんの両腕を掴み、のしかかる。びっくりした月下さんはボクを突き飛ばそうとしてでもやっぱりボクに甘い。結局躊躇って。ボクはチョコアイスを口に放り込んで、そのまま薄い唇を塞ぐ。不意の口付けに油断して冷たさが月下さんの口元を汚しながら消えていく。月下さんを床に転がしボクは上から動きを封じる。擦れた手首をわざと掴んだ。痕を撫でる。チョコの甘さが広がって、月下さんの熱で溶けていく。飲み込み音。唇と口角を汚すチョコを舐め取って、月下さんの口に戻す。どろどろに溶けた甘さの中に生暖かい月下さんを感じて、夢中になって吸った。 「い、や…ッ」  弱々しい手がボクの胸元を掴む。縋り付いて、悲痛に歪む。いつもボクを安堵で見る目が虚ろになった。エドさんが可哀想だと思った。月下さんも報われない人だと思った。  冷たかったはずが温くなって熱くなって、腹の奥の奥がグッと引き締まって、胸が引き攣れた感じがして、やっぱり月見蕎麦に(あた)ったのかなって思った。もうチョコの味なんてしないのにボクは月下さんの口の中を荒らすのがやめられなかった。ボクに向けた微笑みとか、集まりの後にボクに追加であれこれと説明を付け足しに来る親切心とか、食べない菓子を分け与える手とか色々、記憶の中の光景にチョコみたいな泥を塗りたくる。それが胸をちくちく刺してきて楽しくなった。 「はな、み…あっ」  放された唇を追って、赤く擦れた手首を、この綺麗な肌を締め上げた物を真似して掴む。潰したいと思った。締め上げて、壊したいと思った。 -バラ科モモ亜科スモモ属-  気に入らない、と思う。  目の前で小気味よく閉まった扉から出てきた痩身長躯に溜息を吐く。その部屋に向かう俺とヤツはすれ違わなければならない。ヤツは俺を見て見ぬフリは出来ない。そして俺もだ。嫌なら見なかったことにすればいい。だがそういうわけにもいかないだろう。いかない。 「こんにちは」  躊躇いがちに顔を逸らしてすれ違いざまにヤツは挨拶した。 「おう」  遠慮がある。そうさせたのは俺だ。俺は(さく)秋桜(あきお)咲多(さくた)にNOが言える。でもヤツは言えなかった。何より(さく)の妹を嫁にするには知り過ぎていた。俺にも妹同然だった女を嫁に出来るはずがなかった。そうなると必然的にヤツのもとに回されることになる。ヤツは(さく)にNOが言えない。そして(さく)はそれに気付かない。 「あの、先日は…」  ヤツが立ち止まった。お互いに振り向かない。まさかヤツから掘り返されるとは思わなかった。 「何か、あったか」  初めて(さく)がヤツを見た時、危ないなと思った。(さく)は女が好きだ。細かい要求も長く付き合いそれなりに下卑た話でもしていれば分かってしまう。知的で冷静で性格がキツそうな、上品さのある細く長身の美人。男である点を除けばそのままヤツだった。男だから、と片付けてしまうには(さく)の酒癖の悪さだの、懐の広さだの、頑固なくせ思い切ってしまうと突き抜ける性分だの色々が不安材料だった。現実になる前に裏で俺が社会的にでもどういう意味でも抹殺しても構わないと思った。ヤツから目を離さなかった。(さく)と2人きりにはしなかった。ヤツが弟みたいに可愛がる深月(みつき)花水木(はなみき)深月(みつき)はまだ中身がガキだからそれとなく(さく)とヤツを2人きりにはするなと言った。  沈んだ顔はいつも通りだ。嫁が死んでからなおのこと暗くなる。元々が陰気ですらあった。その姿が酷く、愛しい。  嫁の死を己の責任だとヤツは言った。妹を死なせた自分が(さく)の傍には居られないと言い出した。(さく)は困った顔をした。頭の良いヤツが、(さく)みたいな単細胞がどんなことを考えるか分からないはずがないだろう。義兄弟として俺と深月には入り込めない新たな関係を持っているあいつらなら尚更だ。(さく)は妹のこと思い出すし、そんなことを言わせて悪かったとヤツに謝って自分を責めはじめ、場場 は混乱。気付けば俺はヤツを掴んでいた。深月が、「いやだなぁ、取っ組み合いの喧嘩ですかぁ?」だとかなんとか言いながら乱入してくるからなんとか収まったが、それきりヤツはあまり顔を出さなくなった。  ヤツを訪問して、また口論になり無理矢理犯したのはついこの前だった。(さく)が男に惚れるのはまずかった。立場的に、どうしても。(さく)が妹をヤツの元へ嫁に出した時、心から安堵した。そして(さく)の理想とはかけ離れた娘を娶り、子が産まれた時。だが同時に気付いてしまった。俺がヤツに惹かれていたこと。妻を亡くし、慕う男を裏切ったのだと失意に暮れるその姿は美しかった。衝動的にネクタイで縛り上げ、無理矢理に身体を暴いた。知らないわけではない。快楽を与えるためではなく屈辱を与えるために得た知識のはずだったそれを、ただ相手を快感に溺れさせ自身もまた相手を貪りたいという欲求のためにやった。体液の匂い、素肌の感触、内部のうねり、治まらない熱、底のない希求に浮かされた。  ヤツはとうとう自責のあまり体調を崩したのだと、お前も自責で体調を崩すんじゃないかと心配していただ(さく)が言うものだから深月に何か持たせて見舞いに行かせると、ヤツに昼飯とデザートをご馳走してもらったとかなんとかと言って嫌に上機嫌だった。ガサツな咲(さく)、放任な俺と違ってヤツは細かく気が付く。口煩いところもあるがヤツも深月が可愛いらしく深月もそれを分かっているから甘えやすいんだろう。 「いいえ、何も」  ヤツの足音が遠くなっていく。俺も目の前の部屋へと歩を進める。 「八重(やえ)…やっぱりダメだ。ヨシの意思が固くてな…」  ヤツ―月元(つきもと)美仁(よしたか)への説得が上手くいかないことに咲(さく)は困って笑う。 「いいだろうが、もう諦めて自由にしてやったらどうだ」  (さく)は気に入っているようだった。俺の失態とは違った形で、義弟を可愛がっている。俺たちやヤツが深月を可愛がっているように。 「そうは言ってもな」  非情の掟はありつつも、それを忘れて、「オレたちは家族だ!」と(さく)は軽率に言う。 「もう(しがらみ)もない」 「よせよせ。そういうつもりで嫁がせたワケじゃあない。そういうつもりじゃあ…」  組長の提案は断れなかった。まず俺に来て、それからヤツに言った。ヤツが断ればまたその下、さらにその下だったはずだ。(さく)にそのつもりがないと言っても事実そうだった。そしてかえって亀裂を生じさせてしまっているから厄介だった。 「うちの内情知ってるどころか知り過ぎてる奴に出て行かれるのは確かに厄介だ」 「八重…だからそういうんじゃ…」 「制裁を加えんのが怖ぇんだろ」  項垂れた太い首。頷いたようにも見えた。 「もうオレとは義兄弟でもないと言われちまったよ。ただの上司と部下だとね。あまり気にかけてくれるな、と」 「大袈裟なやつだな」  ちくちくと下に小うるさい姑みたいなやつだった。会長の顔を立てろ。会長に忠義を尽くせ。看板に泥を塗るな。他にも他にも。(さく)にも容赦なく物を言う。美しく男。 「嫌われていたのかも、知れないな。不甲斐ない」 「それこそよせよ。辛気臭ぇ。お前までそんなでどうする」  人を惹きつける力はあるが、性根は向いていない。だから俺がいる。ヤツがいるはずで、深月が下に潜って底上げしている。 「妹はヨシのこと、あんな形でも愛してたと思うんだけどな」  逃げ場がなかった。拒否は出来たが実質ないも同然だ。(さく)の身が組長に縛られていても妹は関係なかったはずだ。ここまで育つのに組長さえ関わっていなければ。 「女じゃねぇから、女の愛だの幸せだのは分かんねぇな」  (さく)は溜息を吐く。士気が下がるからやめろ、と俺なら言わない。 「ばっか、同意しろよ、そこは」  愛していた愛していないの話は分からないが、大事にしてはいたんじゃないかとはヤツの自宅を見て思った。何があった何を見たというわけではなかったが、ただ嗅覚とは違う家の匂いが、調和していた気がした。名残と、あの妹を知っていれば何となく分かる空気とがそこで生活しているヤツのそれらと。 「ま、目ぇ離さないでおいてくれや。なんか危うげで」  情けなく(さく)は笑った。並びのいい白い歯は親の顔より見た気がした。(さく)は知らねぇんだろう。お前がヤツに惚れちまうのを不安視して、代わりに俺が惚れちまっていただなんて醜態は。だがそれでいい。あの器量はそこそこだが飾らず気風のいい娘が(さく)みたいなのには似合ってる。 「…風信(かぜのぶ)に探り入れさせるか」  深月は風信(かぜのぶ)がヤツの元を訪れていたらしいことを言っていた。ただの話のついでの報告だったが、口調や顔に反して、狂犬と呼ばれるだけのギラついた目で言っていた。まるで本題の調査報告のように。あれはただ様子見に行かせた軽い私的な頼み事のつもりだったが深月には通じていなかったのかも知れない。 「よせ。深月にお前の探り入れさせるようなもんだろうが、そんなの」 「意外とぺらぺら話すだろ」 「野暮だ」  (さく)にぴしゃりと言われて俺は黙る。卑怯で姑息で狡猾でもなければやっていられない立場にいながら(さく)は己が美学に基づいた手段を選びたがる。 「そういうことだから」  深月に頼まないのもそのためか。(さく)には俺とヤツの関係がどう映っているんだか。肩を落としたままの(さく)を放って俺は一礼し部屋を出る。  そろそろ深月の「御三時」だ。朝買ったコンビニの袋を掴んで給湯室に向かう。甘やかしすぎだと言われたらそれまでだが俺と(さく)で散々深月を甘やかした結果、20になっても20を越えても深月にケーキだの団子だのアイスだのを買い与えてしまう。ヤツもこそこそとキャンディだとかチョコレートだとか深月に食わせている。猫のようにマイペースで犬のように懐きうさぎのような可愛らしさがあるためつい乗せられる。その実、狂犬と呼ばれるだけ凶暴性と残虐性を秘めた妙な野心を持っている。腹っぺらしいできらきらした目を向けわんわん鳴いたかと思ったらゴロゴロ喉鳴らしてどこかへ消える見慣れた姿からは想像出来ないが。 「花水木(はなみき)くん…」  給湯室の前で聞こえたヤツの声と呼ばれた名前に足を止める。 「やっぱりつまらない人だなぁ、月下さんは」  声変わりしても深月は声が高かった。低めの声の女といっても通じる。 「だって…そんな…ぁっ」  困惑と甘い声。俺は、給湯室の前を通るに通れなくなる。ヤツを縛り上げて、何度も突き上げた時の声が蘇る。最終的には自ら前の解放を求めて、乱れ、上下する白い胸板。引き締まった腹を汚す体液。額を押さえる。思い出してはいけない。 「あんなことされたのに、どうしてのこのこ自分から近寄って来るのかなぁ…ん、」 「あ…っ、も…はっぁん」  何の話をしている?ヤツの声が頭の中が砂嵐みたいだった。深月は何か知っているのか。それとも 「溢れちゃった。ほら、また口開けてください」 「なっ、ぁ…ンんっく」  何してんだ?俺はおそるおそる給湯室の壁に背中を当て、中を覗こうとする。ヤツの甘やかな細い喘ぎがなんだか腹に響いた。俺が縛り上げて無理矢理脚を割り開いた時と同じ。 「給湯室、使いますか?」  深月の問いかけ。まだ俺だとバレていない?このまま何も聞かなかったことも出来る。俺は口を固く閉ざした。やり過ごす。深月の前でヤツと顔を合わせたくない。 「エドさん?」  寒気と嫌な汗。どきり大きく鼓動が速くなる。俺の普段意識していない呼ばれ方がふと俺とは関係ない別の誰かの呼び名に思えた。いつもは意識しないエドワーズ姓。似なかったし教えるたびに驚かれた。顔とフルネームが一致しないと。 「エドさぁん?」 「…お前の御三時」  深月に壁際に追い込まれたヤツの唇が光った。深月は能天気な顔をしてヤツを壁際に追い込んだまま、俺が見せたビニール袋に目を輝かせた。 「やったぁ。今日は何かな」  そう言ってヤツを放し、俺のほうへ来る深月の手には容器に入ったアイスが握られていた。白い中身が少量、底に溜まっている。 「月下さんも食べますよね?」  壁に背を預けたヤツは深月から遠慮がちに俺を見た。 「私は…」 「遠慮しないでください、ボクがまた食べさせますから」  俺から持っていったビニール袋の中を見ながらにこりとヤツに笑みを向ける。赤らんだ目元が深月を気まずそうに伏せらる。それが何か違和感だった。この2人は俺よりも兄弟のようだと言われていた。(さく)と深月ではまるで親子のようだったし、俺は深月に御三時以外はあまり関わらない。だがヤツと深月はやたらと親しかった。だが本当にそれは親子のようでもあったし、兄弟のようでもあったし、先生と教え子のようでもあった。妙な艶は感じたことがない。邪推も憚られ、まるでそれを忘れてしまうほど。 「…深月、お前、好きなのか?」  ヤツの、月下が追い詰められたみたいな顔になる。悪くないと思った。 「はい?好きって?好きか嫌いかでいえば好きですよ?もちろんエドさんのことも、秋桜(あきお)さんのことも、それから…」 「違う。だから、そういう意味で」 「そういう意味?ってどういうことですか。食べられそうかとかですか?」  深月は首を傾げた。手にした溶けたアイスの容器を一気に呷り、背伸びして月下にキスする。月下は嫌がったが、拒否しきれていなかった。 「は?」  この現状に、深月と月下に、俺はまるで付いて行けず、言葉が出てこない。疑問だけ。口から飛び出ていく疑問だけ。 「いや、恋愛感情、抱いてんのか」

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