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第1ー1話
校了明けの休日。
数日ぶりにしっかりと睡眠を取って気分が良い。
昨日…正確には今朝帰宅してシャワーだけは何とか浴びて寝たので、空腹を満たす為にキッチンに立つ。
もう午後になっているので夕食を考え、サンドイッチと野菜たっぷりのスープを作る。
それにブラックコーヒーを加えてダイニングテーブルに並べ、かき込むようにして食べる。
普段は絶対しないその行為。
行儀も悪いし、消化にも悪いと分かっているが、気持ちが焦る。
それでも必死に気持ちを落ち着かせ、洗い物まで済ませてコーヒーのお代わりを淹れたら、マグカップを持ってソファに移る。
テレビのスイッチを入れ、BDレコーダーを起動する。
いつもこの瞬間からワクワクしてしまう。
顔も緩みきっている自覚はある。
普段、職場で冷静沈着・ポーカーフェイスと評される自分のこんな姿は、両親でも想像つかないと思う。
まず録画のリストを確認する。
『Emerald』と『吉野千秋』でヒットして自動録画するように設定しているので、『吉野千秋』は兎も角、『Emerald』で関係の無い番組が録画されている可能性がある。
無用な『Emerald』を消去すると、テレビを観る暇も無かった10日前からの録画を再生する。
羽鳥芳雪、28歳。
職業、丸川書店、少女漫画雑誌月刊エメラルド編集部副編集長。
そして。
筋金入りのアイドルオタクである。
羽鳥が『Emerald』を初めて知ったのは、帰宅途中の電車の中で見たネットの芸能ニュースだった。
それは大学2年生の夏休み明け。
9月の自分の誕生日前のこと。
普段芸能ニュースなんて殆ど読まないし興味も無い羽鳥だが、よく見るネットニュースのトップページに載っていたのだ。
グループ名は『Emerald』。
男の5人のアイドルグループだ。
記事を読むと『ドラゴンワン芸能事務所』が初めて売り出すアイドルグループということだった。
『ドラゴンワン芸能事務所』は芸能界に疎い羽鳥でも知っている。
質の良い俳優や女優が揃っていて、その中には日本アカデミー賞最優秀主演男優賞や最優秀主演女優賞を受賞した者や、最優秀助演男優賞や最優秀助演女優賞を受賞した者もいるし、『ドラゴンワン芸能事務所』の俳優女優が日本アカデミー賞にノミネートされるのは毎年の事だ。
それに『ドラゴンワン芸能事務所』の俳優女優はCMにも数多く出ていて、テレビで観ない日は無い。
だが、『ドラゴンワン芸能事務所』に所属する芸能人は、他の芸能事務所に比べて格段に少ない。
それは社長の才能を見抜く目が厳しいと言われている。
ただ顔やスタイルが良いだけでは『ドラゴンワン芸能事務所』には入れない。
そんな訳で『ドラゴンワン芸能事務所』には美男美女系では無い個性派俳優女優もいる。
だが、演技のレベルは高く、話題のドラマや映画、CMに引っ張りだこだ。
そんな『ドラゴンワン芸能事務所』が満を持してアイドルグループをデビューさせるのだ。
話題にならない筈は無い。
羽鳥は男5人のアイドルグループには全く興味がなかったので、その記事を飛ばそうとした。
だが、5人の写真が載っていたので、何の気無しに拡大して見てみた。
それはデビュー記者会見の模様。
写真はバストアップと全身を撮したものだ。
センターにいるのは美少年という言葉がピッタリの木佐翔太。
小柄で身長163センチ位だろう。
その右側にはイケメンのいう言葉がピッタリの小野寺律。
どことなく上品そうで、王子様っぽい。
小野寺律の隣りは…170、2、3センチの小野寺よりも10センチ以上は背が高い横澤隆史。
ゆうに180は越えているだろう。
それに顔は整っているしスタイルも良いが、アイドルにしては少し強面気味だ。
木佐と小野寺を見た後なので、なぜこの人がアイドルなんだ?と羽鳥は素直に疑問に思った。
そして木佐の左側に視線を移す。
そこには美少年というより『美人』という言葉がしっくりくる柳瀬優。
猫を思わせる大きなアーモンド型のつり目にクールな雰囲気で『美人』らしさが際立っている。
身長は小野寺律と変わらない。
その横にいるのが吉野千秋。
吉野千秋は柳瀬優と木佐翔太の中間くらいの身長だ。
羽鳥は何故か吉野千秋に目が釘付けになった。
木佐や小野寺や柳瀬に比べれは、美少年でもイケメンでも美人でも無い。
ただ、かわいらしい。
それに他の4人とは違って格段に頼りない雰囲気。
小さな真っ白い顔に印象的な大きなタレ目気味の黒い瞳。
横澤隆史を除いて皆色白だが、吉野千秋が一番色白だ。
それに一番華奢だ。
身長180近い羽鳥だったら片手で持ち上げられそうに細い。
頼りない雰囲気と相まってかわいらしい顔立ちと華奢な身体が、羽鳥の庇護欲や保護欲を掻き立てる。
それに全体的に愛らしい。
羽鳥の胸がドキドキと鼓動を打つ。
相手は男だぞ、と理性では思う。
だがドキドキは止まってくれない。
そして会見の内容の記事を読むと、一番年下かと思われた木佐翔太が一番年上で、その下が柳瀬優と吉野千秋の同学年コンビ、次が横澤隆史、一番下が小野寺律だ。
そして何故かグループのリーダーは、年齢が下から2番目の横澤隆史だ。
司会者の問いかけに横澤隆史は「社長命令です」と苦笑したらしい。
そして小野寺律は高校3年生で、小野寺律以外は皆大学生という事だった。
ドラゴンワン芸能事務所の方針なのか、高校名も大学名も公表はされなかった。
しかも趣味や尊敬する先輩なども司会者からEmeraldのメンバーに話を振られることは無いし、芸能記者が直接質問する事も無い。
これは元々打ち合わせをしてある記者会見だな、と羽鳥は思った。
ドラゴンワン芸能事務所がEmeraldに相当力を入れている事が分かる。
そして30分もかからず、デビュー記者会見は終わったらしい。
最後にリーダーの横澤隆史が、10月1日にCDデビューします、ファンクラブも同じ日にスタートしますと告知して、Emeraldのメンバー全員がよろしくお願いしますと頭を下げた、どんなCDか楽しみだと記事は締めくくられていた。
羽鳥はスマホをバッグにしまうと、その足で、一人暮らしをしているコーポがある最寄り駅前のCDショップに向かった。
CDショップにはまだCDデビューしていないEmeraldのコーナーは作られていなかったが、特大ポスターが貼られていて、女の子逹が群がって我先にとスマホで写メを撮っている。
どうやらEmeraldの特大ポスターは撮影が許可されているらしい。
羽鳥も女の子の群れに紛れてポスター全体の写メを撮る。
それから吉野千秋をクローズアップして写メを撮った。
Emeraldのメンバーは記者会見の時の緊張した面持ちと違って、皆アイドルスマイルを完璧に決めている。
吉野千秋も同様に。
けれど他の4人に比べると、やはり頼りない雰囲気はいなめない。
そして特大ポスターの下に『初回限定盤・通常版予約受付中』とポップに書かれてあって、羽鳥はカウンターに向かった。
そして店員にEmeraldの初回限定盤と通常版の違いを訊いた。
店員はにこやかに「初回限定盤にはDVDが付いていて、通常版にはDVDは付いていませんが初回限定盤とは違うカップリング曲が入っています」と答えた。
羽鳥はその場で初回限定盤と通常版を予約した。
そして自宅に帰るとパソコンでドラゴンワン芸能事務所のHPを見た。
そこにはトップページに、鮮やかなグリーンにゴールドカラーが散りばめられた『Emerald』の文字がある。
羽鳥が『Emerald』をクリックすると、Emeraldのファンページに飛んだ。
上からひとつずつクリックしていくと、メンバー紹介とCD発売日以外は『coming soon』になっていた。
メンバー紹介も記者会見した内容と同じだ。
たが一番下にある『ファンクラブ』をクリックすると、ファンクラブの入会方法が書いてあった。
羽鳥は愛用しているスケジュール帳のフリーページに入会方法をメモする。
そしてもう一度、メンバー紹介のベージを開いた。
そこには記者会見ともCDショップの特大ポスターとも違うEmeraldのメンバーの笑顔がある。
木佐翔太と小野寺律は完璧なアイドルスマイル。
柳瀬優はちょっと澄ました微笑み。
だがそれが柳瀬優の魅力を引き出している。
横澤隆史は辛うじて笑顔を作っているという感じだが、それが逆に誠実そうで好感が持てる。
吉野千秋はあの印象的な黒い大きなタレ目気味の瞳で上目遣いでこちらを見ながら、恥ずかしそうに小さく微笑んでいる。
羽鳥の胸が高鳴る。
そして羽鳥は迷うこと無く、翌日Emeraldのファンクラブに入会した。
こうして羽鳥は『エメオタ』の第一歩を踏み出したのだった。
第一歩どころか。
頭の天辺までどっぷりEmeraldにハマってしまう出逢いが、すぐそこにやって来ることも知らずに。
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