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跡 濁されたまま 1
あらすじ:ある日出会った男・双海とその"おとうと"日野によって奪われた牧島の日常的数日間。
大学生受/穏和おっさん受/義兄弟/女性キャラあり/受同士の絡みあり
*
べちゃ
視界に入っていた人と思しき点が消えた。振り向いた弟の目を背後から塞ぐには遅かった。家から見える陸橋は自殺の名所だと、亡き祖母から牧島 基生 は教えられていた。実際見たことはなかった。けれどそうとは教えられていた。窓を見つめる年の離れた弟はただ振り向いて、それから何の疑問を投げかけることもなかった。男が視界から消えた。陸橋の下の線路へダイブした。田舎だった。電車のブレーキの音が聞こえた。誰かこの数十秒前に死んだ、同じ時間軸を生きていた人間が数十秒前にその生を終えた、そんな感覚は一切なかった。
遠くでサイレンの音が鳴っている。ココアを飲みながら牧島はベンチに座っていた。コーヒーは好まなかった。
糖分の摂取量に気を付けろ、と健康診断で言われたことがある。それでもストレスばかりの社会で、濃い味付けばかりの世間で自ら糖分を控える気など牧島にはない。烏龍茶を買うつもりで気付くとまたココアを買っていた。
地元を離れ、都会に出てみれば都会という幻想から目が覚め、地元と何ら変わらない日々がそこにある。ただ口実が欲しかっただけなのかもしれない。地元から離れて、そこになら何か、期待と理想に添える何かがあるとずっと思っていた。舞台俳優を目指しながら大学に通う友人や、バイトをしながらでないと学費を払えない友人の愚痴を聞きながら牧島は指先から伝わる温かい缶の感覚と口に広がる甘みに集中して適当に相槌を打っていた。昼飯時は常にこうだった。午前に2コマ、昼休みを挟んで3コマある時間割の中で、牧島は午前に2コマ昼休みを挟んで1コマ終えて帰宅する時間割にしていた。
「おい基生 、聞いてんのかよ」
すでにひとつ舞台の出演が決まったらしい舞台俳優志望の友人はコーンスープの缶を顔の真上で逆さにして、視線を寄越すことなく訊ねる。
「あん?聞いてるって」
牧島は笑みを浮かべながら、温かいココアの缶を握る。最近の端末は手袋をつけていると操作しづらいのだ。寒さよりも、小さな一点への集中を選ぶせいで牧島の指先はいつでも冷たかった。
「単位落としそうなんだろ?」
耳に入ってきてはいたが頭には入ってきていなかった単語を拾い集める。友人は大きく溜息を吐いた。どうやら違ったらしい。
「落としそうじゃなくて、落としたんだよ。今朝人身事故あっただろ。遅延届もらうの忘れたのがイタかった」
コーンスープの最後の1粒にこだわりを見せる友人に適当にまた頷く。牧島の生まれた地域の主な交通手段は自動車か自転車だった。電車はあまり使用しない。高校生や社会人の通学通勤と帰宅時間を中心に、朝夕以外は本数も少ない。大学を徒歩で通える範囲のアパートを借りた牧島に電車通学という文化が馴染めずにいる。
「やめてほしいよなぁ、人身事故とか」
友人の話に短く、同感、と答えてココアを飲む。
「んじゃ、俺行くわ」
バイトが忙しい友人が腕時計を確認して、去る準備をする。適当に頷いて牧島は去っていく背中を少しの間見つめた。
「お前はどう?余裕?単位」
「今のところはな~」
舞台俳優志望の友人と二人きりになり、視線は自然とそちらに向く。舞台に映えそうなビジュアルだ。大学でもよく女子から声を掛けられているのを牧島は見たことがあった。
山間部に建てられた大学の喫煙所のすぐ横の自動販売機は男子大学生の雑談所と化している。朝からの講義の出席登録だけして講義そのものを受けない時などに人口が多い。大学構内の中でも特に山に近いこの溜まり場は鳥の声が聞こえてくる。そして今もだ。
「お前は授業いいの」
舞台俳優志望の友人は缶を自動販売機の横のゴミ箱に捨て、牧島に訊ねた。
「そろそろ行くよ」
鳥の声が聞こえる。聞いたことのない鳴き声だ。友人が「じゃあまた今度な」と言って手を振ったが、雑に応えて牧島の意識は鳥の鳴き声へ向かう。この大学周辺は立地の都合で坂と階段が多い。大学構内もまた坂と階段が多く、自転車通学者は特に苦痛の声を上げていた。短いけれど急な階段を上がりながら、鳥の声を探す。大学構内の端には旧学生会館というのがあって、新しい学生会館が出来てからは物置と化している。誰が持ち込んだのか卓球台も置いてあり、人が多い曜日はここで卓球をして遊んでいる者も見たことがあった。木陰が多くあり、人通りも少ない。ここで昼飯を摂ったり、休んだりしている者も少なくなかった。牧島の学部学科は特にこの旧学生会館の近くの建物を使う。電車通学や自転車通学、バイク通学の者が出入りする正門とは反対に位置するため、やはり牧島と同じ学部学科でもこの辺りに来る者は少ない。この旧学生会館の周りは急な階段が多いのだ。
「モトキ」
名前を呼ばれて牧島は立ち止まった。聞き覚えのない声だと頭が理解して、人違いだと分かると牧島は再び歩き出す。大学の人間であるなら学籍番号か苗字で呼ぶはずだ。下の名前で呼ぶほど親しい教授はいない。再び聞いたことのない鳥の鳴き声が聞こえて、空耳だったのだろうか、と不思議な気持ちで牧島は教室に歩き始める。突然肩にトンと乗った軽い物にまた足を止め、確認しようと首を横にした途端に視界が大きく陰った。
「うわっ」
肩の軽い何かが消え去るけれど、空から降ってきた重みは牧島を覆った。温かいけれど固い何かに地面に押し付けられるように牧島の身体は尻から敷き詰められたレンガに崩れていく。咄嗟に手をついて、掌が粗いレンガの表面に減り込む感覚が少し痛痒い。鼻を降ってきた物に強打する。
「大丈夫かい!?」
鼻血は出ていないかと鼻に触れる。確認しようとした手を掴まれ、大きく抱きすくめられ、目の前に顔が現れる。知らない人だ。30代後半くらいの男性だ。焦りを前面にだしている。白髪交じりで目元に柔らかい印象を受ける。
「大丈夫す・・・」
鼻血は出ていないようだった。牧島は視界を捉えた男の肩を見る。インコがいる。黄色に目元に赤みが差し、アンテナのようなトサカが伸びている。忙しなく首が動いて瞬く。オカメインコだ。オカメインコから視線を移して男へ向けると、目が合う。真剣な顔して見つめられている。牧島はツンとした鼻を大きく啜ってから立ち上がろうとするが、男は牧島を覆ったまま動こうとしない。
―――空気読めないのか? この人
男は牧島を見つめたままで、何度か目を逸らしても男はじっと牧島を見つめる。
「そちらはダイジョーブなんすか?」
退けとも言えず、牧島は無難な問いを投げかける。男は、はっとしてすぐに牧島の上から退いた。
「ご、ごめんね。本当に申し訳ない」
男は立ち上がって両手を払う。尻餅をついたままの牧島は男を見上げる。華奢だ。逆光しているけれど男が柔らかく、けれどすまなそうに微笑むのが見える。その間も肩のオカメインコは首を忙しなく動かしている。男は牧島に手を伸ばす。爪が短い。切り揃えられているわけではないようだ。清潔には見えたが、妙に歪んでいる。牧島は男の手を取る。立ち上がろうとした瞬間にずきりと腰に稲妻のような痛みが走る。骨が折れたような激しい痛みではないけれど、呻いてしまうと男の柔和な表情はすぐに訝しみを込めたものへと変わる。
「あ、大丈夫、す。大丈夫。気にしないでください、すぐ治ると思うんで・・・」
両手を振って慌てて牧島は喋る。咄嗟に地面に付いた手首も疼き始めて、けれどこの痛みは耐えた。好い人そう、という男の印象が牧島に罪悪感を植え付けていく。
「それより、腕とか膝とか大丈夫すか?」
話題をすり替え、男の身体を見る。華奢だが牧島より少し背が高い。男はにこりと笑う。儚いけれど純に思えたその笑みを真正面から突き付けられて牧島は顔を逸らしてしまう。何故か恥ずかしい。
「僕の家、この近くなんだ。よかったら・・・その・・・これから授業かい?」
「え・・・ああ、はい。そんな気を遣わないでください。本当に大丈夫なんで」
そうか、と男はまた笑う。風にそよぐレースカーテン、牧島の中で男のイメージが思い浮かぶ。大学の者でないのならもう会うこともないだろう。深く関わることもない。
「じゃあ、オレ、そろそろ授業なんで。オレの方こそすみませんでした」
牧島はまたオカメインコを一瞥して、男に背を向ける。オカメインコは牧島を見つめていた。思っていたよりも実物のオカメインコは大きかった。ペットを飼ってみたいと長年思っていたけれど、牧島はペットロスに耐えられないだろうことを自覚していた。子どもの頃に飼っていたハムスターが死んで、ずっとめそめそとしていたものだ。
まだ少し痛む手首を捻る。沁み渡るような鈍い痛み。捻挫だろう。適当に湿布をしておけばすぐに治る。手首を酷使する習慣は牧島の生活の中にはなかった。
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