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跡 濁されたまま 2
大学の講義が終わって、牧島は帰宅しようとしていた。大学構内は今日は講義の時間割的に人が少ない。単位の取りやすい授業や必修科目が少ない曜日なのだ。牧島の周りはそうではなかったが、牧島は特殊な資格の取得より、大卒の肩書がほしかった。周りが高校に進学するから高校に進学し、周りが大学に行ったほうがいいというから大学に行くことにした。高卒でもよかったし、専門学校でもいいと思っていた。周りに流されて、理屈も理由も分からないまま牧島はそれを自らの意思とした。徒歩通学の牧島は正門の反対の旧学生会館の近くを通って裏門へ向かう。正門からでも帰れるのだが、その場合は遠回りの上、長い坂道を下ることになる。
今日もまた自然に溢れたこの構内は小鳥の囀りが聞こえる。主張の激しいカラスの鳴き声も大きく聞こえる。
牧島は足を止めた。そこは、夏場に学生たちがしゃがみこんで愚痴を溢し合って涼んでいる建物の影だ。見覚えのある人が倒れている。横になっているのだろうか。地面に?
「あの」
牧島は数時間前のことを思い出す。自分の方が負担が大きいと思っていたけれど、高所といえるかは曖昧だが落下してきた男の方が身体にかかる負担は大きいのではないか。牧島の顔から血の気が引いた。男の身体に触れる。白いシャツから覗く男の青白い首。節くれだった長い指と手首。男に触れた部分に近寄ってくる、牧島を見つめる小さな黒い瞳を持った小さな身体。
―――嘘、だろ?
この場合、自分が殺したことになるのか。牧島は目を見開く。身体は冷えているけれど、どこか暑い。能天気にまだ男に触れている腕を突いてくる小さな存在も気にならず。動転した頭で微かに上下するシャツとその下の肌を見るといくらか落ち着きを取り戻す。生きている。眠っているのか? 放っておいていいのだろうか? 男の頬を、手の甲で軽く叩:(はた)いてみる。青白い。こめかみの辺りが照っていることに気付いて、牧島は軽く触れる。汗だ。顔も青白い。体調不良か。牧島は大きく溜息をついた。医務室のある本館はここから遠い。カウンセラールームという、相談室に向かうのが早いだろう。大学入学時にメールアドレスを登録したせいで、進路や大学生活、家庭環境、どんなことでも悩みを相談しろ、としきりにメールがくるのだ。荷物を置いて、カウンセラールームに走る。使用したことはないけれど、他に頼れそうなところはない。
カウンセラールームの受付の若い男のスタッフに訳を話すとすぐに駆けつけ、運ぶのを手伝った。長椅子に寝かせて、スタッフが内線で医務室の人を呼んだのだ。「貧血ですね」医務室のスタッフは言った。
「マジ、で、すか・・・」
適当に返事をして、牧島は息を大きく吐いて、それから眠る男を見つめながら近くの椅子に力なく座る。カウンセラールームのスタッフが元気づけるように背中を叩いた。「どこか打っているかもしれないから救急車呼ぶね」医務室のスタッフの言葉も耳に入らなかった。「手、震えてるよ」カウンセラールームのスタッフが牧島に言う。関心もなく、「さっき捻挫したんすよ」と答えると、「湿布ならあるよ」と言われてカウンセラールームのスタッフが事務机に向かった。いつの間にか男のオカメインコは牧島の肩に乗っていた。「とりあえず、この人の家の人に知らせたほうがいいかもしれないね」医務室のスタッフが言う。牧島はゆっくりと立ち上がって、眠る男の衣服をまさぐった。何か端末があるはずだ、と思った。けれど財布すらも持ち歩いていない。牧島の肩に乗った鳥だけ眠る男が所持しているもののようだ。鳥籠すら、男は持ち歩いている様子がなかった。
「この人さっき、空から落っこちてきたんすよ・・・」
ハサミの軋む音が聞こえてから、震える手を取られ、手首に冷たさが広がる。項垂れながら呆れるように言うと、「君、大丈夫かい?」とカウンセラールームのスタッフの哀れみを含んだような声を掛けられる。
救急車はすぐに来た。牧島は数時間前の出来事と、彼からの誘いを断ったことの罪悪感から自ら同伴の意を示した。「その鳥は困ります」と言われて、けれどどうすることも出来ず、牧島は男との付き添いよりも鳥の保護を選んだ。
―――体調悪かったのかもしれねぇよな・・・
すでにあの時点で体調が優れず、だから見ず知らずの自分を家へ誘ったのではないか。牧島はストレッチャーに乗せられた男を凝視した。飼い主の緊急事態にもかかわらず、能天気な色味をした、能天気な鳥は能天気な顔で牧島の肩に留まっている。逃げ出してしまっても、ケージがないのだから仕方がない。もう会うことはないだろうが、仮に再会して責められ咎められ怒られても自分の知ったことではない。牧島はそうは思っても、納得いかず大きく溜息をついた。
一人暮らしのアパートに帰宅すると、すぐに端末が震えた。大学からだ。何か問題行動でもしたか、とすぐに出る。あの男の話だった。運ばれた病院と病室、名前と電話番号を伝えられた。お礼がしたいから来てほしい、と。部屋に入った途端に勝手に羽ばたきテーブルの上を行ったり来たりしている鳥を見ながら、帰路で逃げ出さずに良かったと安堵する。このアパートはペット禁止なのだ。「明日向かいます。連絡ありがとうございました」と言ってから電話を切る。鳥はどうしようと思いながらまた今日何度目かの溜息をつく。巻き込まれたものだ。かに座は厄日か、と牧島は項垂れた。
日が空けると大学を休んで、牧島は病院に向かうことにした。部屋に放置していたネット通販のダンボールにポストに雑に突っ込まれているチラシを敷いて、食パンを千切って投げ入れ、鳥はそこに入れたがすぐに出てきて室内を歩き回る。今まで肩の上に置き物のようにいたくせに活発だ。まだ朝だったが鳥をどうしてよいか分からずあの男の携帯電話へ掛けてみる。電話番号まで教えてくれるとは気が利いていが、院内では電源を切っているかもしれない。
2コールで電話は繋がった。
『もしもし、日野です』
昨日聞いた声とは違った。明らかに違ったが、電話のせいだろう、牧島は話を続ける。何を言うかもまとまっていなかった。電話は繋がらないだろうと高を括っていた。
「どうも、昨日は本当にすみませんした。えっと、それで、あの、鳥、オレが預かってるんすけど、病院に連れて行けなくて、その・・・」
言葉が出ずに口籠る。
『ああ、貴方でしたか。お名前頂いてもよろしいですか? 』
機械を通しているが、牧島の耳に届く澄んだ低い声。落ち着かせるような、眠気を誘うような声。
「牧島す。:牧島まきしま)基生 。牧島の牧 は牧場の牧 で、島は山つかないす」
手元にやってくる書類や宅配物に「槙島」や「巻島」、「牧嶋」と書かれていることが多く、酷い時には二文字とも違っている時がある。
『もとき・・・? 』
電話の相手・日野と名乗る男の声が濁った。
「えっと、基生 は基礎の基 に生まれる、す」
漢字を求めらえているのだろうかと思い牧島は下の名前の漢字の説明を始める。
『牧島くん、か。私は牧島さんにお世話になった双海 暁人 の おとうと です』
え、と声を上げてしまった。本人ではなかったのだ。
「あ、えっと・・・じゃあ昨日の人が双海さんで、日野さんはその弟さんってこと、すか? 」
『そうです。その折は本当に、どうもありがとうございます。どうお礼を申し上げたらよいか・・・』
「あ、いえ! 何てゆーか、なんか体調悪かったみたいなのに、オレ、気付かなくて」
『・・・』
日野は黙った。
『牧島くん、これから会えないか? 』
日野の雰囲気が変わったことを、牧島は感じ取る。突然馴れ馴れしくなったような話し方に、何かしただろうかと牧島は不安を覚える。怒っているのかもしれない。兄になんてことをしてくれたのだ、と。
「わ、分かりました。えっと、病院でいいすか? 地元民じゃなくて、地理とかよく分からなくて・・・」
病院の位置ならネット検索ですぐに分かる。交通機関も調べれば都会なのだから問題はないだろう。
『君の大学は聞いているから、迎えに行こう。大学へ向かってくれるかい? ここから40分かかる・・・11時には会えるんだが、君の都合はどうだい?』
「大丈夫す! あの、鳥、どうします?」
目の前を歩くインコを一瞥する。視界にどうしても入ってこようとするのだ。
『それなら、一緒に連れてきてくれるかい』
「分かりました。車だと多分正門になると思うんで・・・その辺りで待ってっす」
『すまないね』
そう言って電話は切られた。話している感じは似ない兄弟だ。双海と伝えられたあの男の何かが分かるほど、話してはいないけれど。牧島が鳥に手を差し出すと、鳥は指に乗る。
日野という男を目にして、牧島は昨日のように尻餅をつくかと思った。作り物だと思った。美容整形ほど不自然な顔立ちではないけれど、俳優かモデルなのではいだろうかと思って、言葉を失くし、挨拶を無視するかたちになってしまった。息を呑んで、なんとか言葉を絞り出す。「は、じめまし、て」と言葉を忘れたようだった。けして華奢ではないが細く、長身でスーツ姿がよく似合う。センスもいいのか胸ポケットから少し見えるハンカチーフの色味もスーツと日野の雰囲気とよく合っている。双海と教えられた男とは似ていない兄弟だ。
「乗ってくれ。散らかっていてすまない」
車種に詳しくはない牧島にはこの車がどういう格のものだかは分からなかった。ただ綺麗に磨かれ、日光に当たっても傷や汚れ一つ見えない。深い青だ。一色で表せない、綺麗な青。
―――マジかよマジかよマジかよ・・・!?
今日はいつもならこのようになるはずではなかった。午後から始まる、ノート提出で単位が取れるというだけの退屈な授業を受けて、同期と駄弁って帰るだけの日のはずだった。肩で忙しなく首を動かしている鳥のことも忘れて、日野に車に乗るよう促される。日野の品の良い指がドアの取手に触れた。滑らかな音でドアが開き、「お願いします」と言って車に乗る。散らかっていてすまない、などただの謙遜でしかなく、新品同然、新品なのだろうかという内装。とんでもない立場にいる男へ、とんでもないことをしてしまったのではないかと、体内に鉛を詰め込まれたように牧島に疲労感が襲う。
「寝ていてくれて構わない。モトキ、おいで」
「へ」
寝ていてもいいと言っておきながら、日野は牧島の名を呼んだ。一時は緊張感より疲労感が勝り、背凭れに体重を預けていてしまっていたがすぐに背を直立にする。肩に乗ったままの鳥が運転席に座った日野の肩に跳んだ。
「君も もとき だったね。こいつもなんだ」
日野の外見によく釣り合う美声が耳を擽る。
「そ、うでした、か」
「これから にいさん の家に向かうから」
「そういえばここの近くって言ってたすね」
車窓から空を見上げる。空よりもずっと深い青い車体。日照りで淡い水色にも見えるけれど、陰ると深海のような色合いになる。
「・・・君は、にいさん が倒れているのを発見したのでは、なかったのかい」
―――あ・・・
墓穴を掘った。牧島の心臓が跳ねる。日野の美声が冷たいナイフのようになって胸を突き刺した気分になる。話したら、やはり怒られるのだろうか。
「あの・・・えっと・・・」
「先程の電話でも、体調が悪そうだったのに、と言ったね。どういうことだい」
日野は牧島の方を向かなかった。空気を読まない鳥がちらちらと牧島を振り向く。
「実は、貧血起こした日野さんのお兄さんを見つける3時間くらい前に、会ってるんす、日野さんのお兄さんと」
日野の声はまだ冷たい。怒気を含んでいる。
「何故」
「授業向かう途中の階段で、日野さんのお兄さん、オレの上に落ちてきて・・・その後に、申し訳ないから家寄って行かないかって誘われたんす」
ゆっくり誤解がないように説明する。日野に怒鳴られるかもしれないし拒絶されるかもしれない。けれど鳥はすでに返した。日野ほどの美しくどこか気品溢れる男が目の前に現れたことの方が非日常なのだ。
―――オレは被害者だー!!
牧島に、双海という男が加害者というつもりはないが、巻き込まれたのは自分の方であるというつもりならばある。
「だから、今思えば、体調悪かったから、付き添っていてほしかったのかな、って・・・思った、す」
「そうかい、 にいさん がそう言ったのか。一度ならず二度も済まないね」
責められると思っていたが日野の声音は柔らかさを取り戻す。ずっと喋って、ずっと聞いていたい声だ。
「あ・・・いえ・・・こちらこそ・・・すみません、す。まさかこんなことになるなんて・・・」
車が動き出す。
「そのことについては気にしないでくれ。とりあえずモトキを家に置いてから、何か御馳走させてほしい。 にいさん のお礼も兼ねて」
自分のことではないとはいえ、同じ名前を美声で呼ばれて牧島の肩が跳ねた。
「いえ!本当にいいですって!」
跳び上がりそうになる。鳥を置いた後は病院に向かうものだと思っていた。
「これから授業なんす!ホントに構わないでいいすから!」
そこまでしてもらうほどのことはしていない。美味しいものを食べさせてくれるかもしれないというのは惹かれる申し出だが、牧島にも負い目があったから。
「だが、このままでは にいさん も納得しないだろうし・・・」
「ホントに!今日マジで鳥返せるだけで!ホントにそれで十分なんで!なんか高そうな車にも乗れて!いい体験できたっす」
「それなら、 にいさん の家まで来てほしい。モトキも君のこと、気に入ってくれているらしい」
車が大学を囲むようにある住宅街に入っていく。沈黙に気が滅入りそうなりながらも鳥は日野の肩に乗りながら牧島を見つめる。呑気なやつだと思いながら、見たことがなかった大学周辺の住宅街を見つめる。新興住宅なのかどの家も新しくかわいらしい。
「地元民ではないと言ったね」
日野が口を開く。話し方も声も落ち着かせてはくれるけれど、越えようのない何かが牧島を疲れさせる。雄としての格差か、生まれ持った格差か、育った環境の格差か、それとも年齢か。日野は20代後半から30代前半だろう。牧島はそう踏んだ。
「大学生なんで、近くにアパート借りてるんす」
「そうか。頼もしいな」
日野の言葉はここで終わった。日野も沈黙に気不味さを覚えるのだろうか。牧島は日野の後ろ姿を一瞥してまた風景を目で追う。
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