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跡 濁されたまま 3 

 双海という男が住んでいるらしい家は平屋だ。重厚な木製の常に開いたままの門があって、その奥にまた寺のような建物がある。敷地が広く、新興住宅に囲まれているせいか歴史を感じる。荘厳さに見惚れた。 「もういいかい」  駐車場と家に挟まれた門の前で日野が振り返る。 「え」 「上がっていってくれ」  牧島は、マジか、と呟いてしまう。その声は明るい。 「すごいすね!かっこいい・・・!」  門をくぐると次に見えたのは庭園だ。玄関まで敷石があり、周りは苔が()し、灯籠が立っている。小規模な池泉まである。塀に沿って茂った木々が陰を落としている。 「気に入ってくれたかい。足元滑るから気を付けて」  玄関の前でスーツのポケットから鍵を出し、引き戸を開ける。玄関には沓脱石がある。まるで旅館のような内装だ。 「すごい、す」  日野は笑って鳥と共に革靴を脱ぐ。お邪魔しますと頭を下げてから牧島も靴を脱いだ。日野の後を追う。玄関を上がってすぐ、左にある部屋に入る。床は畳だ。大きな薄型テレビがまず目に入る。長テーブルと4枚の座布団。縁側もある。日野は障子を開けていた。庭園がよく見える。鳥かごもこの部屋に置いてあった。木製の軸に吊られている。牧島はハムスターを飼うようなケージに入れるものだと思っていた。 「お茶と紅茶とコーヒー、どれがいい? 」  どれも苦手で牧島は戸惑った。お茶が無難だろう。お茶、と答えようとしてから日野が、「近くに自販機があるから買ってくる」と言い出した。 「いいんですって!お茶、にします!」 「いいんだ。気にしないでくれ。炭酸飲料大丈夫か」  日野が突然、牧島の頬に触れた。冷たい手だ。輪郭を沿うように優しく撫でる。 「はい・・・」   ―――は? え? なんで?  特別な関係でもなければ男同士で頬を撫でたりなどしない。冷房でも掛けたのかと突然寒気に襲われた。日野はすぐにまた玄関から出て行ってしまう。 ―――双海さんケータイ持ってねぇの?  だから電話番号が 弟 のもので本人に繋がるものではないのだろうか。庭が一番よく見えるところの座布団に座って、鳥かごに入れられた同名の鳥を見上げる。 「お前も大変だな」  溜息をついて端末を出す。暇なときは無料通信アプリを開くか、近況を報告し合うSNSを開くかだ。 ―――てゆーかオレは双海さんの見舞いとかしなくていいワケ?  病院と病室は知っている。鳥も返せた。日野と別れてから病院に向かうのがいいだろうか。授業はなるべく出ておきたかった。真面目ではないが、出席日数だけで単位が取れる授業ばかりではない。課題や授業内レポートが出るかもしれない。今日の授業は捨てた。今日この後病院に向かうのがいい。習慣化した動きで端末の表面を指で擦るように画面を動かす。表示される文字や画像などは殆ど頭に入ってこない。痛めた手首は指を動かすだけでもぴくりぴくりと緩やかな痛みが広がる。手首に湿布や包帯は、あらぬ誤解を生みそうで昨夜の風呂前に外してしまった。 「待たせて申し訳ない」  引き戸が開く音がして日野の声がする。 「あ、いえ、こっちこそ、すみませんした」  牧島のいる部屋を覗いて、日野は通り過ぎていく。すぐに日野は牧島の前にグラスを差し出した。自然界には存在しないであろう毒々しい緑色に浮かぶ氷は透明だ。ストローの飲み口にはストローの包装紙の口の部分を残し、コースターまで敷かれている。中身は自動販売機で買ったというが喫茶店で出されるようなもてなしだ。 「いただきます」  細かい炭酸が口内で弾ける。日野は牧島の向かいに座る。黙って日野は牧島を見つめた。メロンソーダを啜りながら見つめる日野を何度か見上げる。 ―――この兄弟はいちいち人のカオ見つめんのか?  牧島もストローに口を付けたまま日野を見つめ返すけれど、日野の整い過ぎた顔を直視できず、すぐに目を逸らしてしまう。  日野の手が牧島の顔に伸びる。またか、と内心諦める。親指が他の4本とは違う動きをして、牧島の唇に触れて、端から端まで沿っていく。何か塗るように。思考が停止する。何をしている? 何をしている? 何をしている? この男は自分に何をしている? 「日野さん?」  日野の切れ長の瞳が細められる。怒っているのか、不機嫌なのか。日野の指は優しいけれど、雰囲気はそうではない。牧島の顔を覗き込むように日野の顔が近付く。綺麗な顔だ。 ―――くそイケメンだよなぁ・・・  などと呑気に考えた牧島はストローから口を放す。 「日野さ―」    ピョロロロロ ピョオオオ ヒョロロロ  唇が触れそうになった。日野の唇が迫って、牧島は身動きが取れなかったが、あのオカメインコが突然鳴き出した。我に返って牧島は身を引いた。 「わぁあああああ!! 」 牧島は声を上げた。けれどどこか冷静な頭はグラスの横に置いた端末も、脇に置いた荷物も忘れることもせず、乱暴に抱き込むと、慌てて立ち上がる。脚が縺れた。玄関まで走って、靴に足を突っ込んだ。大きな音と立てて引き戸を開き、走り出す。 ―――嘘だろ!?キスしそうだったよな!?  大学まで辿り着ければ方向は分かるけれど、どの方向から来たのか忘れてしまった。太陽を目印にしたところで大まかな場所は分からない。最悪の場合は通行人に訊こう、と牧島は歩き出す。都会の中であるけれど、双海の家の周りは長閑(のどか)だ。見覚えのある風景を探しながらまずは大学に戻ろうと決めた。 ―――日野さんはホモなのかな。それともホントは女とか?  無意識に口元を拭う。迫る日野の顔が脳裏にこびりつく。 「あ~」  こうなるつもりではなかった。このようになるはずではなかった。これから双海が運ばれた病院へ向かう元気が残っているだろうか。暫く歩いて、電柱の張り紙に地図が載っていた。近くに駅がある。大学に戻ってから病院に行くつもりだったが駅に向かって、そこから病院に行ってしまうのがいいだろう。端末で病院までの道のりを調べる。全く良い時代だ、牧島は内心厭味ったらしくそう思った。  双海のいる病室の前で牧島はやはり帰ろうか迷った。日野から逃げて迷子になったところで見つけた駅には花屋があった。見舞いというから花を買ってしまった。一人暮らしの身には苦い出費ではあったけれど、日野に車を出してもらったりメロンソーダを奢られてしまった。今日見舞い、これで双海とはもう何の関係もなくなる。日野を含めて。ノックする。「どうぞ」と声がして、扉を開いた。どうやら個室らしい。やはり金持ちなのだ。「お邪魔します」と言って病室に入る。 「君は・・・」  双海は上体を起こしてベッドの上にいた。 「どうも、す。昨日は色々と、その・・・」  何を言っていいのか分からず、もごもごと口を動かす。双海は柔らかく笑みを浮かべている。 「あ、お見舞いの花・・・えっと、花瓶・・・」  牧島は見舞いなどしたことがない。両親は健康で、父方も母方も祖母も祖父も既に他界している。 「後で僕がやるよ。ありがとう。置いてくれる? 」  ベッドに付いた簡易的なテーブルを双海は差した。牧島は指定されたそこに花束を置く。花束というには小さいが、やはり大学生には痛い出費なのだ。それでも双海は嬉しそうに花束を見つめる。慈しむような手付きで花束を手に取り眺めた。 「どうぞ、座って」  双海がベッドの脇に置かれたパイプ椅子を指す。牧島は言葉に甘えてパイプ椅子を出して座った。 「えっと、双海さん」 「え?」  双海は不思議そうな顔で花束から牧島へ向いた。 「へ?」 「名前、知っているのかい」 「さっき日野さんに会ったんす。それで名前聞いたんす。日野さんと双海さんの家行って・・・」  説明していけばいくほど、双海の表情は曇って俯きだす。牧島は話すのを止めた。牧島も、日野の名前を出すことが躊躇われる。 「どこか調子悪いんすか?誰か呼んだほうが―」 「いや、続けてくれ」  双海は顔を上げる。透明感のある雰囲気が病的に思える。 「双海さんの鳥は日野さんが籠に戻してくれました」 「モトキは逃げなかったんだ。そうか・・・」  双海からも自分のではない自分と同じ名前を呼ばれて牧島は返事をしそうになる。 「日野さんにメロンソーダ奢ってもらっちゃって、なんか悪かったなぁって・・・よろしく伝えておいてほしいすけど、いいすか?」  もう会わないだろう。そして牧島自身、会いたくない。兄弟だというのなら双海に伝えてもらうのが早い。 「そんな、君が気にすることじゃないよ。それより、ごめんね。何度も迷惑、掛けてしまって・・・」 「ああ、もう、いいですって。じゃあそれはお互い様ってことで!オレも双海さんの誘い断っちゃって、こんなことになっちゃったんすから」  双海の目が泳ぐ。双海は悪くないことは牧島も分かっている。そして日野の奇行も全く双海の関係ないことだ。 「じゃあそんな感じで!もしまた大学で会えたらよろしくお願いしますね」  何をよろしくするというのか。上っ面だけの挨拶をして病室を発つ仕草をして相手に帰ることを訴える。牧島自身がすでに双海に会うつもりがない。日野にはもう関わりたくないのだ。一部とはいえ大学構内を一般開放している大学へ不満を抱いた。食堂が大学関係者以外の使用で混雑を助長させていても、図書館の蔵書が大学関係者以外に貸し出されていても、牧島にはどうだっていいことだった。遠回りになるが双海と出会った旧学生会館の周辺を通らずに生活することだってできる。 「待って、君」  双海が呼ぶ。日野よりやや高いが澄んだ声だ。立ち上がってパイプ椅子を片付ける手と足を止める。 「君の名前を教えてくれるかな・・・改めて僕からお礼を・・・」 「えっと、牧島基生す。お礼はマジで要らないす、ホント」  双海の目が見開かれた。眼球が零れ落ちそう、という表現がよく似合う。 「もとき・・・? 」  双海が訊き返す。ペットと同じ名前だと呼びづらいのだろう。 「双海さんのペットも同じ名前っしたね。呼びづらかったらフツーに牧島とかマッキーとかでいいす」  もう呼ばれるような機会を牧島は作るつもりがなかった。この件はこれで終わりなのだ。だからこそ日野への伝言を頼んだ。双海と関わる以上、日野とは切れない気がしてならない。 「いいや、基生って、呼んでいいかな」 「でもそれじゃややこしいすから」  肩を竦める。双海は傷付いたような表情に変わって、それから取り繕うように笑う。双海は悪くないことを牧島は十分に分かっていながら、それでも日野とは関わりたくないのだ。 「そうだね。じゃあ牧島くん。今日はどうもありがとう。すぐに退院になると思うから、その時に・・・」  双海の話を最後までは聞かなかった。多少失礼な態度は取ったけれど、お互い謝ってお礼を言って、この件は終わる。日野のことは犬に噛まれかけたことなのだと思って忘れよう、牧島は双海に焦点を合わせることなく振り向いて、軽く頭を下げてから病室を出た。

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