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跡 濁されたまま 4
たった2日の非日常。牧島は「日常」に戻ったつもりだった。帰宅して、同じ名前のオカメインコに作った簡易的な巣は使用されることはなく、牧島は乱雑に片付けた。大きく欠伸をした。日が暮れる前までには戻ってこられた。今日予定されていた大学の授業よりも帰宅時間は早いが疲労は倍だ。牧島は床に敷いているラグの上に座ったがそのまま寝転がる。ワンルームだ。入ってすぐに小さなキッチンがある。ベッドを置くスペースはなかったために布団で寝ている。畳んだ布団を背凭れに、テレビを観たり、端末をいじったりして過ごしていることが多い。目を閉じてこのまま眠ってしまおうと息を深く吸い込む。深く吐きだそうとした瞬間に脳裏に日野の迫る顔が過る。ガラス玉のような眼球が細められて見下すような目元から覗いていた。薄い形の良い唇もまた、どこか牧島を軽んじているようで。
―――あ~よく見てたな!? オレ!!!
寝返りを打った。日野が唇に触れた指の動きや日野が迫ってくる時の光景が蘇ってくるのはこれが初めてではない。双海の病室を出てすぐ、それから帰りの電車と、アパートまで歩いている途中にも。
―――なんなんだよ、あの兄弟・・・
日野にも何か、自分の考えの及ばない事情があったのだ。日野の行動を正当化して納得しようとする自分に気付き、牧島は頭を抱えた。何か気を紛らわせようと端末を手に取る。友人たちの近況を見よう。世間の新しい騒ぎでも牧島は楽しめた。もしかしたら今日休んだ分の授業の話題があるかもしれない。今日あったことは取るに足りないことなのだ。アプリケーションを開こうとしたところで端末が震えた。マナーモードのサイレントに設定しているはずなのに、いつもよりも震えが大きいような気がして吃驚して端末を一度放り投げてしまう。すぐにまたキャッチする。
「あ~もうホントなんなんだよ」
登録はされていないが、覚えのある電話番号からの着信だ。今朝、自らの手で打ち込んだ覚えがある数字の羅列。日野だ。牧島から話すことはない。うんざりして、通話ボタンは押さなかった。けれど切るボタンも押せず、牧島は震えたままの端末を置く。日野とは関わりたくない。今度は何をされるのだろう。端末の震えが止まった。端末を握って安堵の溜息をつくと留守番電話サービスの連絡が入る。聞くだけ聞いてみるのがよいと判断し、牧島は留守番電話サービスに繋ぐ。機械的な女声のアナウンスが頭を抜けていく。
『もしもし、牧島くん?双海です。明日の午後に退院が決まったから、よかったらまた来てほしいな。漣 くんもまた会いたいって』
双海の柔らかい声がする
―――嫌に決まってんだろ。漣くんて誰だよ
おそらくだが日野だということは牧島も察した。また会いたいということはおそらく日野だ。他に漣という名前に心当たりがない。牧島は上唇に引っ掛かった下唇の皮を舐めた。
また次の日も欠伸をしながら牧島は裏門をくぐる。これが日常で、でも日常を少し変えてしまった意識が芽生え始めていて。旧学生会館が目に入った。遠回りにはなるけれどいつも通っていた旧学生会館の前は通らなかった。いつもは何も考えず、ただ通り道だから通っていた。それだけのことなのに、2日間の非日常だけで、この旧学生会館前の道はそれまでとは違う行動をさせる。授業のある教室に向かう途中で、尻ポケットに入れた端末が震えた。嘲笑うような顔をした美青年が脳裏を過る。案の定、取り出した端末の画面に表示されている電話番号は打ち覚えのある番号で。また双海かもしれない。退院前に病院を訪れるつもりはないが、留守番電話ではなく、話だけ聞き、そこで本当に終わりにするのがよい。
「はい、牧島す」
『日野だ』
言葉に詰まった。そもそも掛けてきている電話は、日野の物であるのだから、驚くことではない。唇に蘇る感触に、身体が急に暑くなりはじめ、どんな顔をしていいのかも分からず牧島は俯いてしまう。電話越しであるのに。日野が話し出すのを待つ。牧島には、電話を掛けるほどの用など日野にない。返事をしなければ、日野はこのまま沈黙を続けるのだろうか。
―――何か喋れよ!
日野の吐息の音も、雑音も一切しない。電話は切れたのだろうかと思っても、画面はまだ通話中になっている。
「あ~・・・双海さん退院するんすよね。こういう時何て言っていいか分からないすけど、おめでとうす」
『・・・』
「えっと、そろそろ授業なんで、切っていいすか?」
嘘である。まだ授業開始時間には余裕がある。
『にいさん が、君に会いたがっているんだ。迎えに行く。会ってやってくれないだろうか』
「え~っと、だからオレ、これから授業で・・・それに日野さん・・・昨日・・・あの・・・何て言ったらいいか・・・」
オレにキスしそうだったよな? と牧島には訊けなかった。本当は夢だったのでは、錯覚だったのでは、勘違いだったのでは、という思いを現実だと受け入れてしまいそうで。言葉にするのが躊躇われた。
『はっきり言ってくれて構わない』
声音が落ち着いている。初めて会った時のように。溜息が聞こえたが、保護者のような、飼い主のような、どこか優しさと甘さ、穏やかさを覚える声。
「双海さんと、2人で話したいことがあって・・・だからその、迎えはいいっす・・・」
嘘である。双海と会って特に話すことはない。強い拒絶感もないけれど、日野とは会いたくない。
『そうか。病院までは私が送り届けよう。私はそのまま仕事に向かう。それなら構わないだろう? 』
否とは言わせない威圧的な問いだ。牧島は固唾を飲む。否とは言わないことはまるで前提のように聞こえる。このまま話しても拗れていくだけのような気がして。
「あ、あの、ヘ、変なコト、とかしない、すよね?」
言葉を選ぶ。キスしようとするなよ、などと牧島には言えなかった。
『変なコト、とは? 』
端末の奥で、くすりと笑った声がする。
「・・・何でもないす。・・・変なこと言ってすんません」
とぼけているのか、本当に身に覚えがないのか。無意識の行動だったのだろうか。これではただ牧島が悲鳴を上げて突然家を飛び出して行った無礼なやつではないか。日野の態度は、あの時までと変わらない。日野の意図していない範囲外の行動なのか。変態か、文化が違うところの出の者か、それとも異性に受ける外見を持った者特有の慣れなのか。
『昨日と同じところで待ち合わせでいいか? 』
牧島は小さく了承の意を伝える。不本意だ。
大学の授業が開始した。チャイムが鳴ったのだ。項垂れながら、目の前に停まった車を睨む。軽快な音を立てて車のドアが開く。日野が姿を現した。映画やドラマのワンシーンのような華麗な様に牧島は舌打ちしたくなる衝動を抑え込む。もし昨日のことがなかったなら、その目を輝かせていただろう。日野は牧島を視界に捉えて歩み寄る。今日もまたスーツだ。スーツに着られることなく、しっかりと着こなしている。
「はようございます」
目の前に日野がやってくると、牧島は身構えてしまった。日光を遮るように日野は牧島を覗き込む。
「ああ、おはよう」
日野は頬を緩める。日野の一挙手一投足に目を放さず、全て思考が昨日のことに繋がってしまう。牧島は縮こまった。日野は牧島より背が高く、身体つきも良い。無理強いされたなら、抗い切れる自信が牧島にはなかった。日野の顔を見ていられなかった。顔さえ逸らして、日野の長く細いけれど逞しい指が伸びる手を見つめる。
「聞いているのか?」
目線の先のその手が動いた。牧島の顎を掴む。温かい手が牧島の顎を掴んで上を向かせる。逆光した日野の顔と視線がぶつかった。
「っい・・・!」
「聞いていないだろう。まぁいい」
日野の拗ねたような表情と無理矢理向き合わされる。黒い瞳は冷めている。日野は牧島から見て完璧そうな男だ。自分以外の男を見下してしまうのも仕方ないのかもしれない。放せよ、と言おうとしたところで、牧島に声が掛かった。
「まっきーくん?」
柔らかい女声。ここは正門で、人の出入りがとにかく多い。時間的にそう多くはないけれど、最も使用人数が多い正門である。
「お兄さん?・・・大丈夫?」
牧島を呼んだ女は戸惑っていた。日野と牧島を交互に見て、苦味を帯びた笑いを浮かべた。
「原田さん!」
以前グループワークで一緒になった女子だ。地味で控えめだけれど、きちんと意見や主張はする、透明感のある子、というのが牧島の認識だ。日野とのやり取りに不信感を抱き、原田は声を掛けてくれたのだろう。
「知り合いか?」
日野が苛立ったように問う。原田には聞こえない、小さな声で。
「トモダチすよ、トモダチ。ガールのフレンド」
「どっちだ」
牧島は原田とそう仲良くはない。けれど会えば挨拶はするし、雑談もしたりする。ただ約束も取り付けず会ったりするような仲ではない。日野は訝しんで眉間に皺を寄せる。
「行こう、ただのお友達みたいじゃん」
原田の隣にいるのは大学のマドンナが原田に言った。牧島が見てきた同じ大学生の中では最も可愛く華やかな同期。すれ違う度に男子学生の間では噂になるけれど、牧島は隣の原田の方が好みだ。そしてマドンナの方とは、知り合いではない。
「授業遅刻しちゃうすよ~」
顎を掴まれたままだったが、牧島は原田へ手をひらひら振った。気にするな、という意味を込めて。
「まっき~くんは授業出ないの?」
「今日はちょっと用事あるすよ」
原田が日野を一瞥して、それから「また今度ね」と言ってマドンナと正門を潜る。牧島は顎を掴まれたままで、すぐに日野へ目を戻した。
「放せよ」
睨んで言えば日野は牧島から手を放した。訝しんでいる表情は消えないまま、日野は牧島を見下ろしている。
「君は童貞か?」
日野の言ったことが素直に牧島の頭には入ってこなかった。耳に入ってきたけれど、聞き間違えたのかもしれない。空耳なのだろう。牧島は聞こえていないフリをした。
「質問に答えろ」
「質問なんてしたすか?」
空耳ではなかったのだ。日野に背を向けたが肩を掴まれて、振り向くよう引かれる。
「君は童貞なのか、と訊いた」
日野はまるでそう訊ねることに何の問題もないかのように問うた。牧島の性遍歴を、何の遠慮もなく、答えて当然かのように。牧島の眉根に皺が寄る。
「それ、訊いて何かあるすか?」
原田との仲を疑ったのだろうか。牧島に原田とどのような関係があろうが、日野には関係のないことで。仮にあったところで、原田とのあまり長くも深くもない付き合いの方が、日野との付き合いよりも長く深い。
「何度も同じことを言わせるな。質問に答えろ」
「別に答えるのはいいすけど、その質問内容、関係あるんすか」
牧島は唇を舐めた。昨日のことが日野に対する疑心を募らせていく。
「私には、ない」
日野は牧島の肩を強く掴む。冷えた声で日野は答えた。視線を外された。
―――は?じゃあ誰にならあんだよ
「原田さんとはそういうカンケーじゃないすし、オレは童貞ですから、どうせ・・・」
童貞の悩みとは縁の遠そうな日野を睨みあげて、拗ねたように口を尖らせる。不可解な言動はむしろ、日野の秀麗な外見も美しい声も全てをマイナスにさせ、牧島が思っていたほど日野は女性から人気などないのかもしれない。
「少し異性と話したくらいでいちいちそんなこと気にするすか?」
嫌味混じりに吐き捨てる。今時の大学生、高校生にしたって、交際しているのかと疑うほどに近い距離にいることなど多々あるし、交際すらしていなくても身体の関係があることなど珍しいことではない。日野はそれを知らないのだろうか。交際していない異性とは話してはいけない文化圏の人なのだろうか。牧島の脳裏に過る、昨日の日野との接触。異性への欲求不満が自身に向いたのだろうか?ぐるぐると牧島の中で邪推が膨らむ。
「慣れてなさそうだったから、な」
すぐに反応して顔を向けた牧島に少し驚いたのか、目を見開いてから一呼吸、鼻で嗤われる。肩をそのまま引かれて車まで誘導された。抵抗しようと見上げた日野は、牧島には悔しいほどの美青年で。日差しを遮るように牧島を覗き込んだ。無愛想だ。だが愛想のなさがその端整な顔立ちを引き立たせている。
車に乗せられて牧島は病院へ向かう。運転中、日野は何も話そうとはしなかった。駐車場に車が停まると、牧島はドアを開こうとするが開かなかった。「今開ける」と日野が静かに言って、日野が車から降りて牧島の座席のドアを外側から開く。日野は仕事に向かうと言っていたからここで別れるだろう。どう別れを切り出していいのか分からず、思い出したくはない昨日のことを謝ることにした。お互い伏せたことでも牧島が突然双海の家を飛び出したことには変わりがない。そして牧島をそれを心地悪く感じていた。
「昨日は、すみませんした。急に腹が痛くなって・・・」
牧島は日野を見ることができなかった。あれが故意であったらどうすればいい。笑い飛ばしてくれたらいい。日野が言葉を発するのはほんの数秒だったのだろう。だが牧島には数分に感じた。答えに迷っているのだろうか。日野の表情が見たい。けれど牧島に日野の顔を見るだけの度胸がまだなかった。ふわりと牧島の髪に温かい重みを感じる。日野の手だ。すぐに下ろされた左手。薬指には金色のリング。意中の女性がいるのだ!!! 胸の中に安堵が広がる。あれは、ただの勘違いだったのだ。
「にいさん によろしく頼む。寂しがり屋だから、たまに遊びにくるといい。何か食わせてくれるだろう」
声音は優しい。けれど見上げた日野の目元は笑っていない。口元は確かに攣り上がっているのに。笑うのが苦手な人なのだ。そして自分は彼を誤解していた。じゃあな、と呟くように言われて、日野はまた車に戻る。牧島は運転席に戻る日野を見た。照れるような仕草で日野は牧島に手を振る。気分が軽い。気にするほどのことではなかったのだ。牧島は双海の病室に急いだ。急いだつもりはなかったけれど、足取りが軽いのだ。
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