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跡 濁されたまま 5 ※

 双海のいる個室に辿り着く。スライド式のドアをノックする。目に優しい木目。木材を模した、けれど木材ではない材質のドア。小さいけれど何か声が聞こえた。それが応答だと思って、牧島は徐にドアを開く。カーテンで覆われたベッド。寝ていたのだろうか。それとも入ってすぐにベッドが見えるのが恥ずかしいのだろうか。 「お邪魔します」 「双海さん、こんちわす」  後ろ手ではなくきちんと振り返ってドアを閉めきる。返事はなかった。双海から会いたいと言ってきたはずだ。物音はする。カーテン越しにいるのは分かっているのに、何故無言を貫くのか。カーテン越しの陰が蹲って震えている 「双海さん!? 」  容体の急変だろうか。呻くような咽ぶような声と息が聞こえて牧島は慌ててカーテンを捲った。 「双海さ・・・ッ」  牧島はだらしなく口を開いて、それから目を瞠った。カーテンを握ったままの手が力なく落ちて、カーテンに皺を残す。ベッドの上で、双海が四つん這いになっている。下半身は何も纏わず、臀部を高く上げて。声にならない息が牧島の口から漏れる。無意識に口が動く。この現状を、宛てのない誰かに問うている。 「見・・・ッて・・・・っ」  双海の震えた声に牧島は我に返る。肩越しに潤んだ瞳を向けて牧島を捉える。ぽとり、と小さく曝け出された臀部の奥から何か落ちる。羽織っただけのシャツがレースカーテンのように揺れた。鼻を啜る音と吐息の音と漏れ出したような声。 「見て・・・ッ基生くん・・・っ」  薄紅色の蕾から濡れて光るガラス玉が、現れる。閉じようとする蕾に押されてベッドの上に落ちて、小さな音を立てる。青いけれど玉虫色に反射する透明感のある指で摘まめそうなほどの大きさの玉。ビー玉だ。はっきり名前を呼ばれて、牧島は目を泳がせる。見てくれと懇願するような眼差しと声。けれど牧島は見てしまったことに申し訳なさを感じて、どこを見ていいのか分からない。 「ま、た・・・んんッ」  ベッドの上にはすでに2つのビー玉が転がっていた。濡れていると思われる反射のしかたで、シーツの色を少し変えている。双海の手が自らの尻に伸びて、揉み解すように肌を撫で回すと、また薄紅色の窄まりからビー玉が姿を現す。 「ふ、たみ、さん・・・? 」  何してるんすか?と訊ねることは簡単であるのに、牧島の口は動くことを拒否した。頭が真っ白に塗られ、何を問いたいのか、何が知りたいのか、何を言えばいいのか、それすら分からず言葉が浮かばない。 「もと・・・き・・・もと・・・」  双海が名を呼ぶ。牧島はどうしていいのか分からずただ茫然と立ち尽くす。男なら不思議ではない。溜まった欲望を開放することなど。ただその方法が少々奇抜なだけであるのかもしれないし。それが目の前で行われている。驚くことではないはずで。牧島は段々と働く兆しを見せ始める頭の中で言い訳を巡らせる。 「ご、めんなさいっす・・・」  覗くつもりは確かになかった。双海の容体を心配したのだ。自慰を覗くつもりではなかった。自慰中だとも思わなかった。そしてそれが牧島自身馴染みのある方法でなかったことも知らなかった。察せなかった。分からなかった。牧島は頭を振って、やっと脳から口に繋がった言葉は謝罪で。 「あっ・・・あふっ・・・」  苦しそうに双海が悶えて身体を震わせると、一度に3つのビー玉が粘膜を押し破るように漏れ出てベッドの上に転がった。白い体躯とそこにだけ色があるような薄紅。独立した意思があるように蠢いて、まるで牧島を誘い込むように収縮した。 「あの・・・あ・・・いや・・・えっと・・・」  何か言うべきか、言わざるべきか、迷っている間に脚はここから退くべきだと告げて、それから実行に移そうとしている。身体を捻るような体勢になりながら、逃げようとする下半身に、何か言ってから去るべきだという頭が折り合わない。 「待って・・・ああッ・・・基生・・・待って・・・・」  縋り付くような声で名を呼ばれながら、双海は牧島の手を取った。一瞬の狼狽が隙を突いた。冷たいけれど妙に生温かい手が牧島の手を握る。握られてから、牧島は自分の手が震えていることに気付いた。 「基生・・・っ」  自分の名前だけれど、自分の名前ではない。ならばあの飼い鳥の名前か。牧島は双海を見下ろした。紛らわしいからと、牧島は双海に名前ではなく苗字で呼ぶように言ったはずだ。双海は身体を起こして、牧島に向き合おうとするが、身体がいうことを利かないようで肩からシーツに倒れ込む。腹を抱き込むように丸まって、ビー玉がまた3つ4つと溢れ出す。 「恥ずかしい・・・・とこ・・・もっと・・・・」  いくつ入ってるんだ?という疑問を呑み込む。少なくとも9つは入っていた。想像してみて、牧島は寒い気分になる。9つも腸にビー玉を入れる遊びなど、牧島にはできなかった。手を握られて振り払うこともせず、振り払うという選択も牧島の中に起こらないまま、双海の弱そうな身体を見下ろす。動き出す様子のない双海を不審に思って、空いて手で頬や口に触れてみる。息はしている。肩も微かに上下している。目を瞑り、睫毛が濡れて光っている。赤みが差した目元は被れたのだろうか。いい歳をしているように見える男が泣いていたようで、牧島は溜息を吐いた。端に寄せられた布団をそのまま双海に掛ける。ベッドを斜めに横断するように眠ってしまっているが、体勢を直す気力が牧島にはない。片手は掴まれたままで、放そうとすると僅かに双海の手が力む。 ――双海さんが来いって言ったんだからな?  会う用意くらいしておいてくれよ、と牧島は内心怒ってベッドに座る。片手は塞がっていて、手を伸ばそうにも届く距離にないため椅子を用意できない。 ――なんで病院でこういうことするかな・・・  双海の身体から出てきたビー玉は布団の下に隠れた。それほどまでにそういう欲求が蓄積されていたのだろうか。淡泊そうな見た目と、そういうことに関しての興味や衝動が薄れていそうな年代でありそうなのに。双海がたまたま、まだ盛んなのだろうか。暇は嫌な想像を膨らませる。牧島は眠る双海を一瞥した。笑い飛ばせばよかったのだろうか。けれどそのような雰囲気ではなかった。切羽詰ったような。欲望の処理というには、切羽詰ったような双海の様子。見てくれとせがむよう言われて、むしろ羞恥を煽られたのは牧島の方だ。 ――帰ろうかな  日野には悪いけれど、目を覚ました双海にどのような顔をすればいいのか分からない。日野にはありもしなかった、勘違いできつく当たってしまったこともある。「君は童貞か」という日野の言葉がふと蘇る。日野の余裕ぶりと、自身の余裕のなさ。疑心が晴れた今では、日野は男としての目標ともいえるだろう。なにせ、外見が良ければ声も良く、立ち振る舞いはスマートで、性格は落ち着いている。世間の女性が好きそうな強引さも兼ね備え、気配りも忘れない。女を知れば、手に入るのだろうか。あの問いはそういう意味なのだろうか。天井を凝視しながら考える。ポケットに入れた端末が震えて、片手で手に取る。双海に握られた手側の後ろポケットに入っているため。身体を捩りながら手を伸ばす。やっとの思いで取った端末には無料通信アプリの通知が一件入っている。原田からだ。日野とのやり取りを邪魔してすまなかったことと、授業で課題が出たことを知らせる内容。派手さや華やかさには欠けるけれど、原田は律儀で気が利く。そういうところが牧島はやはり好感を抱いた。原田とは親しくない。仲が悪いわけではないけれど、波長が合うという雰囲気でもなかった。日野に訊かれて初めて、原田を意識してみる。女を知れば、日野のようになれるのだろうか。それなら相手は原田が良い。 「基生」  牧島の手が引かれた。双海の寝言だろうか。随分とはっきりと人の名前を呼ぶものだ。牧島は双海の方を向いた。目が覚めているようで、牧島を見つめている。 「おはようございます」  双海はにこりと微笑んでから、「おはよう」と返す。牧島に何を見せたのか、忘れているのだろうか。首を傾げて牧島は双海から放すのを待つ。双海は起き上がって、シャツの前を留めている。 「外、出てっすね」  牧島は愛想笑いを浮かべて病室から出た。 ――真昼間から何やってんだあの人・・・  要注意だったのは日野ではなかったのだ。双海だったのだ。 「もう大丈夫だよ」  扉越しに呼ばれて牧島は再び病室に入る。きちんとシャツとジーンズを履いた双海がテーブルの上を片付けて椅子を出している。 「どもっす」  頭を軽く下げて牧島はソファに座る。双海が小さな冷蔵庫からペットボトルを取り出して、グラスに注ぐ。ミルクティーだ。 「昨晩は、電話出られずすみませんっした」  何から話し出していいのか分からず、まず浮かんだ話題は居留守を使ったことだ。 「気にしないで。ごめんね、牧島くん。どうしても君に逢いたくて」  嫌味の笑みに牧島は返事に困った。流行の曲の歌詞のようなことを言われても、牧島には上手いこと言える器用さはない。 「え・・・っと」 「って言われても困っちゃうよね。いいんだ、何も返さなくていいし、何も言わなくていい。ただ僕の話を聞いてほしいんだ」  お茶目な笑みを見せて、次の瞬間には真剣な顔をした。牧島は注がれたミルクティーを一口飲んだ。気取った風味を無難な甘味が口内と鼻に広がる。 「まず何から話したらいいんだろう・・・」  無言で牧島はまたミルクティーを口に含む。肘をついて、顔の前で手を組みながら考え込む双海の眉間に皺が寄っている。場を和ませようと、牧島は双海の眉間を指で押した。場を和ませたつもりだった。牧島はそういうつもりで双海の眉間の皺に触れた。双海が信じられない、という顔で目を大きく開いた。眉毛が大きく動いて、いっそう眉間の皺は深く刻まれる。失礼なやつだと、躾がなっていないと、怒られるだろうか。牧島はしまった、と思った。 「ごめんなさ・・・っごめ・・・」  怒鳴られる前に謝れば許してもらえるだろうか。牧島の体温は一気に氷点下になった気分だ。 「牧島くんは、僕の息子に似ているんだ」  そう切り出した双海の目元が柔らかくなる。 「子どもいたんすか」  不思議なことではない。双海は牧島からみて30代後半から40代前半だ。けれど双海の身の回りの世話を日野がやっているらしいのが、どこか引っ掛かる。双海の妻子が忙しいのだろうか。 「ああ」  にこりと笑ってすぐにまた苦しそうな、思い悩むような皺を眉間に寄せては、一度牧島から目を逸らした。 「もとき っていうんだ、名前」 「え、へ?ええ」  今更?と内心思いながら返事する。今まで何度も呼んでいただろうに。牧島はグラスを握る。 「違うんだ、僕の息子が」  ごめんごめん、と困った顔をして双海は笑う。 「偶然すね」 「本当に。だから最初ビックリしちゃって。でも名前が同じだけなのかな、って思ったら・・・」  思い出を語るような双海の雰囲気に、牧島はグラスを傾けてミルクティーを飲み干す。結露しだしているミルクティーのペットボトルのキャップを双海は空けながら、続きを話し出す。 「眉間に皺寄せると、指で押してくる仕草まで似てるんだもんな」  話しながら牧島の飲み干したグラスにペットボトルを傾けた。「お菓子あるよ」と言って双海が席を立つ。牧島にも考える時間を与えられ、何か言わなければという気持ちになる。 「ってことはあの鳥は・・・」 「あの子もモトキだね。息子と同じ名前・・・親バカだね」  離婚して、親権が元嫁の方にいったのだろうか。痛いところを突かれたとばかりに双海は苦笑した。 「いや、別に・・・」  テーブルの上に出されたスナック菓子を牧島は早速つまんだ。おそらく別居状態にあるのだろう。根掘り葉掘り訊くのは得策ではないように牧島は思えた。 「日野さんて婿入りなんすか」  話題を変えようとして、牧島は訊ねる。 「え?」 「え、双海さんと日野さんて兄弟なんすよね?苗字違うから・・・あ、これ訊いちゃマズイやつっした・・・?」  スナック菓子をつまんだ手をどうしていいか分からずにいると双海がウェットティッシュの箱を差し出した。 「漣くんは僕とのことを、何て言ってた?」 「日野さんは双海さんのこと にいさん って言ってたすけど・・・? 」  訊いてはまずい質問だったのではないか。牧島はウェットティッシュで指先を拭う。 「漣くんは、義理の弟だよ。妻の弟」  驚きはなかった。似ない兄弟だとは思っていた。似ていない兄弟など珍しくはないけれど。ただ、離婚ではないのかもしれないという可能性が牧島の中で浮かんで。 「仲良いんすね」  無難な返しをしたつもりだったが、双海は困ったようにまた笑う。「そう見える? 」と双海は言ってまた笑う。 「実は仲悪いとかすか?」 「そんなんじゃないよ」  双海の声は優しい。先程自慰行為を見るようにせがんだ人と同一人物とは思えなかった。夢だったのだろうか。牧島は双海を見つめながら思い出す。 「息子に似てるから・・・なんて言い方悪いけれど・・・度々こうして、僕と会ってくれないかな」 「日野さんにも同じようなことを言われたすよ」  途端に傷付いた表情をして、牧島の顔を覗き込む。 「漣くんに、何か・・・」  双海は一度周囲を確認する素振りを見せて、唇に指を当ててから静かに牧島の方へ屈み、耳元で小さく問う。牧島の後ろの壁に手をついて、覆い被さるような体勢。至近距離で不機嫌さを隠そうともしない双海に牧島は狼狽えた。 「何かされなかった?」  意図が分からず牧島は何度か軽く頷く。誤解はあったけれど、解けたのだ。それともこれから何かされるのだろうか。 「もう彼には・・・近付いたらいけないよ」  耳元を撫でるように日野に近付くなという警告が囁かれる。 「なんで、すか・・・」  穏和そうな印象受ける双海の目元も、柔和な笑みを湛えていた口元も、冷たい。怒っているのだろうか。牧島の上から双海は退いて、それから牧島の頭を撫でる。 「君にも彼にも・・・すまなく思ってるんだ」  独り言だった。牧島の見知った双海のカオに戻っているけれど、双海は牧島を見ているくせに見ていない。 「君とこれからも一緒にいたいから・・・だから、ダメなんだ」  双海は、一瞬驚いたような我に返ったように目を大きく開いてから双海自身の両手を握り合う。指先を温めるかのように。不明瞭な双海の物言いに疑問符ばかりが浮かぶ。双海がこれからも会いたいというのなら日野と関わることもあるだろう。双海とはここで終わる関係なら日野と関わることはもうないだろう。もしかしたら街中で会うかもしれない。けれど会わないかもしれない。牧島が日野のことも双海のことも忘れているかもしれないし、忘れていないかもしれない。もしくは、日野と双海が牧島を覚えていないこともまたあるかもしれない。日野との関係など、双海に依存しているようなものなのだ。 「今日はありがとう。メールアドレスと電話番号、教えくれるかい」 「ケータイ、持ってたんすか」  双海は笑う。はっきりとは肯定しなかった。双海は荷物の中から今はもう珍しい二つ折りの携帯電話を牧島に渡す。双海の年代からはそう珍しくもないのだろう。むしろタッチ式の端末の方についてゆけないのかもしれない。牧島は双海の携帯電話に自分の連絡先を追加していく。牧島の中学時代はまだこの携帯電話が主流だったものだ。 「あの・・・漣くんには・・・」 「近付かなければいいんすよね。分かったす、ちょっと納得いかないすけど」 「ごめんね」  不明瞭な説明だけで、はいそうですかという訳にはいかなかったけれど、日野との関係など、双海との関係を切ってしまえば同時に切れるような儚いものでしかない。牧島自身、日野に対して美青年で同性として憧憬を抱けるが、車役くらいの認識しかないのだ。 「いや、いいんす。夜なら大体空いてると思うす。会うなら土日か・・・月曜か水曜以外の午後で」  電話番号とメールアドレスを打ち込み終わると双海に携帯電話を返す。テーブルに開かれたままのスナック菓子の袋を畳み、グラスのミルクティーを飲み干す。「片付けは僕がやる」という双海の声に笑って答えるが、そのまま手を止めず、双海の座っていた椅子も片付ける。 「あまり身体冷やさない方がいいと思うすよ」  去り際に、双海の特殊な自慰行為を思い出して、遠回しに牧島は言った。要らないお節介だろう。今度会うときはああいう真似はやめてくれ、の意図を双海は汲み取れるだろうか。遠回しすぎたかもしれない。はっきりと言うだけの度胸が、やはり牧島にはなかった。

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