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跡 濁されたまま 13

 牧島をぱったりと見なくなった。とうとう避けられるようにまでなったのか。そう思えたならそれでよかった。だが原田の脳裏に色濃く浮かぶ可能性は違った。牧島と仲の良かった友人らとも一緒にいないのだ。釘を刺したのが裏目に出たのかもしれない。双海と言う男が失敗したか、もしくは。名前を思い出したくもない男の仕業か。隣を歩く片寄(かたより)の話も入ってこない。大切にしたいと思った相手。ずっと一緒にいたいと思った相手。もっと自分を知ってほしいと思った、他の人よりも知りたいと。けれど今は牧島の姿を探してしまう。場合によっては命にさえ関わってくる。あの男が関わっている以上は。顔や雰囲気だけでなく頭の良さも似なかった。狡猾に物事を進めていく器用さも。だから言い包められて終わる。けれどあの男が何をしたのか、原田は息をゆっくりと吐きながら思い出す。家庭崩壊の原因。本人は否定するが弟を殺したのはあの男だという確信がある。証拠はないけれど。  初めて講義を、認められるような理由もなく放棄した。課題が終わらないから言えば片寄は納得した。行きたくはない双海邸へ向かう。 「ごめんください」  青い車は停まっていない。高級車は黒か白。そういうものだと思っていたけれど、あの趣味の悪い不思議な青の車もまた高級車だ。車種に疎い原田にもそれだけは分かった。あの男はいないのだろう。目の前に立つ者を威嚇するような門を潜り、仰々しい造りの庭には目もくれず玄関へ向かう。それっぽい雰囲気を醸し出しておきながら歴史も意味もない、中身のない外面だけの造り、ここに住む双海は知らないが、棲みついているらしいあの男には相応だ。幼い頃の記憶しかないが、それだけは今になって原田にはよく分かった。一流企業に就職が決まった、なんだという話は聞いていた。一緒に住んでいた頃よりもずっといい環境で過ごせていたのだろう。 「ごめんください」  もう一度声を掛けるが反応はない。玄関が僅かに開いている。不用心だ。その数センチメートルにも及ばない隙間を閉める。居ないのなら仕方がない。牧島と関わるなというようなことを言っておきながら、牧島の話をしに来たのでは元も子もない。大学生活で今まで一緒にいた同期が突然居なくなるなど珍しいことではないのだ。入学当初に知り合った同期もまたいつの間にか辞めていた。経済的事情だの、思っていた大学とは違っただの、新しい夢を見つけだの、理湯はそれぞれあるけれど。大学に戻ろうと踵を返したところで、門から人がやってくる。背が高いのは分かった。原田は身構える。車の音はしなかった。宅配業者か、それとも訪問販売員、宗教勧誘、放送局の集金、原田の経験したことがある訪問者が頭の中を飛び交う。見知った作業着は着ていない。宅配業者ではない。スーツだ。それならば訪問販売や宗教勧誘だ。近付くにつれ判明していく特徴に顔が強張る。ここにいて不思議なことではない。平日の昼少し前であることを除けば。 「久し振りだな」  似ていない。似ていても何の疑問も抱かれない顔。堀の深い目鼻立ちだ。通った鼻梁も切れ長の瞳も似なかった。それのおかげで今は他人で済む。 「初めまして」  原田自身驚くほど低い声が出た。 「初めまして、か。初めまして。どのようなご用件でしょうか」  目の前の男の細くもなく大きくもない、吊り上った目が細められる。丸い目の原田とはやはり似ていない。受け継ぐ遺伝はほぼ同じはずなのに。 「いいえ、別に」 「用件もなしにお越しになったんですか?怪しいですね?」  白々しい演技を続ける狷介な男に舌打ちしてしまう。 「上がってください。話は中でどうぞ」 「結構です。怪しい人間を中に入れるおつもりで?」 「私に用がないとすれば義兄(あに)にご用でしょう」  断れば試すような目つきで男が問うた。 「困りますね。義兄(あに)は既婚者なので昼間からこうして女性が家を出入りされますと」  そのルックスとその演技を活かして芸能界に入ったらどうだと思いながら、すぐに詐欺師の方がお似合いだと否定した。 「義兄(にい)さんに余計なこと喋っただろう?」  視界が陰る。太陽は雲に隠れてはいない。目の前の男の軽薄な笑みが消え、それから長身を折り、頭部を鷲掴みにされる。 「うろちょろするな」 「双海さんのこと」  名前を出すと頭部を掴んでいた手が顎へくる。再び笑みを浮かべているが、目は笑っていない。 「お前には関係ない、よな?」  腕を掴まれ、男は玄関を開いた。よく面倒を看てくれた昔の姿はない。いつから変わったのかは覚えていない。ただ決定的だったのは弟が死んでから。容赦のない力で掴まれたままの腕を引かれ、玄関に入れられる。 「こんな形で残念だ」  乱暴に靴を脱いでいる間も男は原田の腕を離さない。原田が靴を脱ぐ間も急かすように引いたまま。冷たい印象を受ける顔に深い皺を寄せ足音を立てながら2階へと上がる。 「ちょっと、何」  2階は1階と雰囲気が違う。洋風のよくある家の内装。焦げ茶色のドアを開いて、その部屋へ連れ込まれる。男が後ろ手に施錠した。 「いつからそんなドブネズミみたいな女になった?」  嘲笑するような言葉とは裏腹に落胆したような男の様子に原田は意図が分からず言葉を呑む。弟が死んだ風呂場に立っていた時と、同じカオだ。 「残念だ。本当に残念だ」  ぼそぼそと男は独り(ごち)る。 「漣・・・さ・・・」 「もうお兄ちゃんとは呼ばないのか。でもそれでいい。俺もお前ももう他人だ」  日野は原田の肩を掴む。突然拳が顔を襲った。口の端に当たり、粘膜が歯にぶつかって切れた。不意打ちの暴力に生理的な涙が溢れる。 「義兄(にい)さんにゲロったのはこれでチャラ」  双海が話したのだろうか。けれど日野がどういう人間かを知っている原田には双海を責めることは出来なかった。 「俺はずっと弟が欲しかった。妹じゃなく」  だがその弟を死に追いやったのはこの男だ。本人は否定するけれど、原田はそうだと信じて疑っていない。だが何故それを今言うのか。原田は殴られた口元を押さえながら日野を睨んだ。 「緒深、でも俺は感謝しているんだ。俺の下がお前でよかったと。俺はお前を娘みたいに可愛がった」  歳の離れた妹。妹と弟の間も離れているから、長男と末弟の歳の差はもっと離れていた。原田は唇の端を指でなぞって傷を探しながら日野の戯言に付き合うことにした。 「って言っても、緒深は覚えてないか」 「可愛がった?本当にそう思ってるの?」  右側の下唇の端の少し下に指が触れると痒みを帯びた鋭い痛みが走る。ここに傷があるようだ。 「生命の神秘ってのはすごい」  話の流れが妙な方向へ行きそうで原田は顔を顰める。 「これでも葛藤した。緒深は俺の娘みたいなものだからな」  甥と映る写真を見せられたことがある。絶縁しているものだと思っていたから、この男と再び関わることはないと思っていた。すでに他人となった息子の写真を見る父親の後ろ姿をよく覚えている。その甥が亡くなったと知ったのはいつだったか。原田も意識する前から耳に届いていた。 「甥が死んでさ」  日野が冷たい笑みを浮かべる。よくあるホラー映画の、化物のような黒く長い髪の、白い衣装の女がするような薄暗い笑み。 「カワイソウなんだよ。身代わりだか知らないけど、鳥なんて買ってきた時は正気を疑った」  だって死んだ息子の名前を付けるんだ。日野は続けた。 「俺はさ、考えたんだよ。どうすればいいかを。でも迷いもした」  原田の肩を日野が掴む。嫌な熱を持ったその手を振り払った。 「迷いもして、でも決めた。緒深が悪い。まさか自ら飛び込むなんてな」  日野が触れた肩を原田は埃を落とすように払う。人に触れられると魚は火傷する、と小学生の頃に聞いたことがあったが、原田はそれを思い出し、そして実感した。 「あのガキとお前が結ばれて、それからどれくらい待つかも分からないけど」  あのガキ、が誰を示すのか。原田の中には牧島しかいない。 「ちょっと、何言ってるか分かってるの」 「大変なことだ。問題がないわけではないよな。息子を産め。いや・・・娘でも・・・いや・・・」  原田に向けたものなのか、独り言なのかも分からない。男は一方的に話を進めていく。 「姉貴と俺は血が繋がらないが、緒深と義兄(にい)さんでなら俺の血が混じるな?」  男が言いたいことの核心へ近付いていく。原田の腕に鳥肌が立っていく。 「でも娘生まれて、産めるまで待つには義兄(にい)さんには酷か」  男の言いたいことを理解すればするほどに反吐が出そうな内容に原田は寒気がする身体を抱く。 「もし緒深と義兄(にい)さんがそうなるなら、義兄(にい)さんは義弟(おとうと)になるな?」  要約するとそういうことだ。顔面を殴られたような気分をもう一度味わう。 「ふざけないで。さっき貴方と私は他人だって自分で言ったじゃない。言ったでしょ、私も貴方も初対面の赤の他人」  日野はさらに笑みを深めた。 「分かった。いいよ、そういうことで。大事なのは関係と上っ面じゃない。遺伝子と血だ。時間と手間がかかるけど、仕方がない。義兄(にい)さんのためだ」  原田の肩にまた日野の手が乗る。力強く。振り払えないほど力強く。 【未完】

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