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ままパパとドラ猫
父親になった。由直 はピアスを外した。これからは父親なのだ。黄味の強い茶髪が触れる耳。耳朶には小さな穴が残る。そのうち消えるだろう。
「はぁ?聞いてねぇよ!」
扉の奥で大声が聞こえる。由直は深呼吸した。
「言ってないもん」
妻の声。由直より16も上だ。妻の鏡台の前で髪を整える。大きな目と控えめな二重瞼。成人を迎えたあたりから甘い顔立ちは少しだが雄々しさを増した。
「おい!誰だよ人の母ちゃん取るやつ!」
狭いアパートを揺らす怒鳴り声は由直のよく知るものだった。高校時代から変わらない。
「人の母ちゃんって…そろそろマザコンからは卒業なさい」
「マザコンじゃねぇ!」
思春期はとうに越えた成人男性だとすぐに分かる野太い声。由直の血の繋がらない息子だ。由直は、へへへ、と弛んだ笑みを浮かべて戸を開ける。
「てっめぇ!」
「竜吾 !」
息子になる青年・竜吾 は由直の妻・梓の部屋から現れた由直に凄む。梓が竜吾を叱るが、それよりも竜吾は由直の姿を爪先から脳天まで無遠慮に見る。由直はにかっと笑う。気付いたか、と。だが。
「母ちゃん…こいつオレよりガキなんじゃ…おめぇ、いくつだよ…」
竜吾は驚愕で震えている。差していた指が小さく落ちていく。
「あんたと同い年よ。パパって呼ぶのよ」
「パ…パ…?パパだと?」
「梓、いいって。親父とか父さんとか好きに呼んだらいいし」
竜吾は口をぱくぱくと動かして由直を見つめている。
「梓ってなんだ!」
「いいじゃない。お父さんとお母さんが仲良くて、いいでしょ?」
梓が後ろから竜吾を抱き竦めると竜吾は少し落ち着いた。由直はう~ん、と髪を掻く。
「一緒に暮らすんだから、仲良くしなきゃ」
梓が竜吾と由直の手を取って、繋がせる。
「竜吾」
「気安く呼ぶな!チャラ男!」
梓が竜吾に拳骨を落とす。
「仲良くなさい?」
由直は竜吾を見つめていた。竜吾が視線に気付いて、キッと睨む。
同居寸前まで竜吾には話すなと由直は梓に頼んでいた。だが竜吾の驚きようは正解だったらしい。だが竜吾は由直を覚えていなかった。
新しいアパートは廊下にトイレと風呂、洗濯機があり、キッチンとリビングと3部屋ある。新しい住まいに慣れないのか竜吾はリビングで酒を飲んでいた。自室に籠るものだと思っていた由直はまだ家具も置かれていない空間に体育座りでいた。深夜だ。由直も新しい空間に慣れず目が覚めてしまった。何か飲もうと思っていたところで竜吾がいたため隣に座る。
「竜吾」
「呼ぶんじゃねぇ!」
「じゃ、じゃあ息子氏…息子くん…息子ちゃん…」
「あんだろ、六原とか」
「いや俺も六原だから…今」
「クソっ!」
「高校時代、霜村って覚えてねぇ?」
竜吾は即答で「知らねーよ」と返す。
「そっかぁ、残念だ」
酒を煽り、喉が鳴る。
「オレの高校時代なんてお前には関係ねぇだろ」
「…そうかぁ。そうだな」
竜吾の大きな身体は熱を発しているのか隣の由直もどこか暖かく感じた。
「俺も同じ高校だったんだけどなぁ」
「あ?じゃあなんだ?お前はもともとオレのこと知ってるってか」
「お、気が利いてんね。同じクラスだったことはないけどね」
「同クラのやつだって怪しいのに、別クラスなら知らねーな」
口は利くらしかった。缶がまた持ち上がる。無骨な手。日に焼けた肌。毛先の傷んだ茶金髪。形の良い額。通った鼻梁。ぽってりした唇。酔っているのか少し顔は赤らんでいる。逆に由直は酔うと真っ白になってしまう体質だった。
「霜村由直っていえばそこそこ有名だと思ってたけど思い上がりか。若気の至りだな」
「ん…待てよ?シモムラヨシナオ…?シモムラヨシナオ待てよ、聞いたことあるな」
「え、ホントかぁ?」
10年20年も前の話ではない。だが卒業した高校の記憶は簡単に消え飛んでしまう。
「シモムラヨシナオ…体育祭のみっちゃんと…文化祭の浅山さんと成美と…」
「そうそう、俺にコクった子」
「思い出した!あのクソ野郎!オレのユカちゃんに…!」
張本人を隣に竜吾は記憶の中の霜村由直へ怒りを露わにする。
「へ…」
由直は間の抜けた声を上げる。竜吾は呻いた。
「修学旅行で!コクったろ!ユカちゃん!くっそぉ!」
張本人が隣にいることに気付いたのか怒りの眼差しが由直に向いた。
「あ?何、好きだったの、ユカチャンのこと」
「だっておっぱい大きくて可愛いだろうが…B組でユカちゃん好きじゃねえヤツいなかったしよ…」
由直にとっては数多い恋に先走った女たちだったが当時のクラスのマドンナだったらしい。
「ど、どうだった…ユカちゃん…」
「は?」
「おっぱい大きかったろ?」
「知るかよ。おっぱいなら同クラの竜吾のほうが見てんじゃないの」
竜吾は大袈裟に、はぁ?と言った。由直も要領が得ない。胸なら竜吾でも見ただろう。同じクラスならその機会は多いはずだ。まるで由直は"ユカちゃん"の裸を知っているかのような。
「付き合ってたんじゃねえのかよ!」
「えーっと?誰と誰が付き合ってたって?」
「ブンミャク読めよ、お前とユカちゃんに決まってんだろ!」
文脈を読んだだけでは由直の中で竜吾のの言葉の意味が分からない。由直は話を思い返す。何か大きな前提ですれ違っているらしい。
「付き合ってねぇケド?」
「パチこくなよ。ユカちゃんお前と付き合ってるって…」
「身に覚えがないなぁ」
由直は自身の歴史を振り返る。ユカという子とは付き合った覚えがない。修学旅行の特別感に浮かされ告白してくる女子は複数名いたが全て断った。
「はぁ?」
「いや、付き合ってねえ」
「女と遊び過ぎて忘れてんじゃねーか?母ちゃん傷付けたらマジで許さねーからな!」
「おいおい。俺は梓以外なら中学時代の初カノが最後」
竜吾はぶるぶる震える。缶が潰れた。中身はほとんどないらしく、高い音がした。由直は何か拙 いことをしたかと己の言葉を振り返った。
「梓って呼ぶな!」
「はぁ?じゃあハニーでいいか?ママン?」
「っぐぬぬぬ…っ」
竜吾はシンクに空き缶を放り投げる。
「竜吾……おやすみな。腹出して寝んなよ」
「うっせぇ!父親ヅラすんな!」
「うるさいよ!」
自室に戻るらしい竜吾が声を荒げると梓の怒鳴り声がした。竜吾が背筋を伸ばして扉をゆっくり閉めた。1人残された由直は竜吾の自室を見つめていた。
『跳んでみろって。金持ちのガキは金持ちのガキらしくビンボー人に金払って』
帰りの遅い弟は塾に行っていなかった。
『うわぁん、うわぁ…』
『泣くなよ、男だろ』
泣きじゃくる弟を背に隠し、由直は弟に絡む高校生の前に立ちはだかる。
『兄ちゃん、兄ちゃん…』
『ほらほら、弟の前でボッコボコにされたいのかよぉ、お兄ちゃん?』
体格が違いすぎる。由直はただ震える膝を抑えることしか出来ない。
『ガキにタカるなんてかっこ悪りぃ大人だな!』
由直の運命の出会いだった。
竜吾と妻の弁当を作り終え、テレビを暫く観ながら朝飯をリビングのテーブルに運ぶ。由直は妻と息子を起こしに行った。朝が弱いのは親子で似ている。
「おはよう、パパ」
梓は幾分か寝起きはよい。竜吾はなかなか起きてこない。梓がふふ、と笑って由直も笑う。
「竜吾…起きろー。朝だぞ朝」
自室をノックするが返事がない。目覚まし時計が鳴り響き、近所迷惑だ。
「竜吾!」
「っせぇな…」
扉を開くと鍵は掛かっておらず、ベッドに座って頭を掻く。梓と2人で選んだ竜吾の寝間着。淡いファンシーなブルーの羊のような寝間着。帽子もセットだ。
「遅刻するって」
「…」
何か考え込んでいるらしかった。物思いに耽る時間はない。だが由直は何も言わずに竜吾の大きな身体を眺めていた。
「竜吾!素直になりなさい!これが今のあんたの家族なんだから!」
梓はすでに由直の用意した朝飯を食べていた。出てこない竜吾を叱りつけると、竜吾はあぁ~と項垂れた。
「朝飯用意したからちゃんと食えよ」
由直はそう言ってリビングに戻る。梓は美味しそうにご飯を食べていた。由直は梓と竜吾が仕事に行ってからの出勤だ。由直は近所の観光地化している古風な商店街にある小さなクリニックに勤めている。
「お母さんもうそろそろ着替えて行くから竜吾!パパの言うことちゃんと聞くのよ!」
リビングで梓が言った。面白くなさそうに竜吾が由直を睨む。
「だ、そうだからほら」
「馴れ馴れしいんだよお前…」
「そりゃな、俺パパだし」
沈んだ後頭部が浮き上がり、竜吾は由直を睨んでいる。つい軽口を叩いてしまい、由直は肩を竦める。
「竜吾!早く行きなさい!遅刻したら承知しないんだから!労働を甘くみんじゃないよ!」
梓の部屋は竜吾の部屋の隣だ。自室で着替えているらしいが由直との声も聞こえているらしかった。竜吾は分かったよ、と不貞腐れたままリビングに来る。食卓に並べられた朝飯に竜吾は目を見開いた。
「ほかほかの白米に出汁香るふわふわ出汁巻き玉子と、出汁とった煮干しを無駄無く浮かべたワカメの味噌汁。甘みのあるたくあんを添えてみたよ、と」
由直は竜吾の側(そば)に座り説明する。竜吾は額を押さえていた。
「お前が作ったの?」
「たくあん以外は。厳密に言えば白米は炊飯器。やっぱ鍋で炊くより断然いいな」
由直はにこっと笑って急須から茶を注ぐ。竜吾は箸を掴んで、蚊の鳴くような声でいただきます、というと味噌汁に手を伸ばした。
「ウマイ…」
「そりゃよかった」
由直は当然だといった風だった。竜吾は黙々と朝飯を食べる。テレビを観ているふりをしながら盗み見る。竜吾は梓の面影を強く残し、美味しそうに咀嚼していて由直は胸の辺りがほのかに温かくなる。高校時代もたくさんのパンを腕に抱えていた。大食漢なのだろうと当時から思っていた。竜吾は工業科で由直は普通科だった。校舎は違ったけれど触れ合うカリキュラムもあったし、購買や学生食堂や下駄箱は一緒だった。由直は工業科と普通科を結ぶ渡り廊下の真下に屯 っていたので由直の姿は幾度か見た。
「ごちそうさま」
大量に作ったつもりだったが完食されていた。米粒ひとつ残さない。残したものを由直は朝食にしようとしていたがその必要はなかったらしい。
「じゃあお母さん、行ってくるね!」
「おー」
「行ってらっしゃい。気を付けてネ」
由直は弁当を持って梓とともに玄関に向かう。竜吾は茶碗や皿をまとめてシンクに持っていった。
「お前は?」
「竜吾が出たら朝飯食ってすぐ仕事~」
竜吾はムスッとして出勤の支度を始める。由直はばたばたと騒がしい物音を背に食器洗いを始める。
「弁当忘れんなよ。多分足りないから」
「…さんきゅ」
作ってよかったな、と由直は思いながら竜吾が出て行く音を聞く。
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