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醜い熱帯魚
室町弥生の部屋に届けられたのは屈強な男だった。
年下攻/色白筋肉受
***
扉が乱暴に開かれ、室町 弥生 は驚いて肩が跳ねた。確かな質量を感じる鈍い音にゆっくり振り返る。見知らぬ男が自室に寝転がっていた。傍に立つスーツの男へ視線を移す。
「弥生さん、室町さんからここに運ぶようにと」
室町は、ああ、と返事をした。静かに扉が閉められ、スーツの男は出ていった。床に投げ出されたまま残された男が、口を覆うガムテープの下で小さく呻き、身体を曲げる。後ろ手にきつく縛られ、足も纏められていた。両側頭部を短く刈り上げ、残された髪は後頭部へ撫で付けた体格の良い大きな男だ。
室町は暇潰しにやっていたナンバープレースの載った雑誌を机に放って男に近付いた。清涼感のあるスパイシーながら甘さを残す香りがふわりと鼻に届く。室町は漠然と、凍らせたメロンをイメージした。大男を見下ろし、それから拘束された縄を見る。男の指より太い縄だ。自室を見回す。雑誌を放った机の脇に置いてある缶のペン立てに挿さったハサミが目に入り、手に取ってから、また男のもとに寄る。だが紙を切るような華奢なハサミでは太い縄を断つことが出来ず、ハサミを開いて縄を挟んだ時に思ったことの通りとなった。男は切れ長い瞳で室町を睨んだまま時折苦しそうに唸る。ハサミで縄を解くことをやめ、父親・室町 寛永 から贈られたナイフの存在を思い出し、使わずしまっていた抽斗 から箱を出す。透明なプラスチックの奥で黒い箱に収まった白刃。指紋ひとつついていなかったが躊躇いなく柄を掴み縄を切る。手首をシャツの袖の上から強く結ぶ縄は外れたが、スラックスの上から足に巻き付く縄を切るのは少しの不安が残った。男の髭が薄っすらと残る皮膚を引っ掻きながらガムテープを剥がす。男はげほっと咳をして口から丸めた布を吐く。無言のまま男は室町を見上げた。訊くことも話すこともなく室町は黙っていた。飽きたように男は足の縄に手を伸ばし解こうとしている。
この男に任せた店を破綻させたか潰したか、それとも何か警察が絡むような不祥事を起こしたか、詳細は聞き逃していたがとにかく寛永の怒りに触れたらしかった。昨晩に、プレゼントやるよ、と言われたきりで、上機嫌な酔っ払いの戯言だと思っていた。昔飼ってた犬に似てると思った。寛永にも懐いた白熊のような大型犬だった。ここに運び込まれたということは、この男がそのプレゼントで犬代わりにしろということなのだろうか。
犬は人間より早く死ぬからもう飼わない!
犬というより白熊という認識の強かった親友が死んだ時に嘆いた言葉が蘇る。
「名前は」
部屋の隅の住民のいない水槽の装置が低く響き、秒針が1周するたび、かたりと短針が音を立てる。室町の声が溶け広がって染みていく。男は足の縄から顔を上げたが室町を見ることはなかった。答えないならそれでも構わないと室町はまた机に戻って、ナンバープレースと向かい合う。縦横3マスで1枠が縦横に3つあり、既に割り振られた数字をヒントに縦マス横マスに1から9の数字が縦横共有するマス以外は重複しないよう当て嵌めていく数字パズルだ。1枠に区切られた中でも1から9が揃うようになっている。好きではないが暇だった。
「ガキ」
あれでもないこれでもないと消去法で当て嵌めていく数字に斜線を入れていると背後から自身のものではない声が聞こえた。室町は今年で21歳だ。「ガキ」に部類されるのか。多少の疑念を抱きながら振り返る。
「お前は」
「弥生。3月生まれじゃないけどな。あんたは」
男は口角を吊り上げる。
「お前の犬だ、好きに呼べ」
笑みは消え、部屋の隅で音を立てる水槽を遠く見つめていた。水が色の付いた光に照らされ、酸素を送られ続けるだけの水槽。一瞬その巨躯に見合わない不安が厳つい顔に滲む。
「困るな」
それだけ言って室町はまた机に戻ろうとする。名乗らないとなれば便宜的に呼び名を考えねばならない。すぐにこれという案は思い浮かばなかった。雰囲気のよく似た過去の思い出の名を付ける気にはならない。どのくらい共に居るのか分からなかった。だが寿命分共にいるのなら塾考する必要がある。女性の名のようで、さらには誕生月とも違う弥生という名を室町は気に入らずにいた。名を決めることに少々過敏になる。エゴイスティックで説明的な由来にするよりはポピュラーなものがいいのかも知れない。名だけで独自性だの個性だのは馬鹿げている。室町はナンバープレースが掲載された雑誌を捲る。テレビでよく目にするようになったファッションモデルと、傍らに映るミニチュアダックスフントとパピヨンの2頭。彼女の飼い犬なのだと名前と犬種が書かれている。
「2文字と3文字どっちがいい」
「貝塚だ。貝塚、大和 。日本生まれじゃねぇけどな」
答えは意外にもすぐに返ってきた。唸るような低い声が室町を真似た。。
「よかった。ココかマロンにするところだった」
貝塚と名乗った男の顔が奇妙なものを見るように歪んだ。
「大和」
室町の方を見るどころか顔を逸らす。年下の男に下の名で呼ばれたのが気に入らなかったのか。返事もしない。室町も特に気にしなかった。訊きたいこと知りたいことは沢山あるが今すぐにというわけでもない。話は終わったと室町はまた机に向かう。ファッションモデルからナンバープレースのページに戻してまた数字を並べてあれでもないこれでもないと選択肢を消していく。貝塚は物音ひとつ立てずじっとしていた。横から1列が揃った時にまだ足の縄を解いていないことを思い出す。ナイフを持って貝塚の元に寄る。座り込んだまま室町に目付きの悪い眼差しを向けた。片膝を押さえて縄に刃を当て削るように切っていく。貝塚の呼吸の音がする。水槽の循環装置の騒音と時計の音。腕の縄を切った時より固く、面倒になり当てた刃の横に手を添え、縄を固定する。ぶつりと大きな振動。縄が切れたと喜び、同時に指に走る痛み。人差し指の脇に小さな赤い亀裂。気付いた直後にその腕を引かれた。大きく硬い掌が室町の手首を容易に掴んでいる。あまり血色が良いとはいえない唇に指が挟まれ、生温い舌に柔らかく包まれる。室町は、え、と声を漏らした。気に入らないと言いたげな顔をして手を放し、室町を見てから、足を動かす。膝が震えてぎこちなく伸ばされる。痺れているらしかった。貝塚が目の前にいることも忘れ舐められて光る傷口を眺める。血がまだ少量湧き出ている。
「…条件反射だ」
顔を上げると、健康的に鍛え上げられた筋肉質な体格には不釣合いな白い肌がほんのり赤く染まっている。貝塚と指の傷を交互に見る。
「絆創膏は」
「ある。どこか怪我したのか」
沈黙に耐えられなくなったのか貝塚が口を開く。室町は抽斗 から救急箱を出して、絆創膏の入った箱を貝塚に差し出す。縄で縛られた皺が残るシャツの下から伸びる逞しい腕。
「指、出せ」
意味が分からず利き手を出せば、そっちじゃねぇと言われ、切傷が痛痒い指を出す。絆創膏の包み紙を雑に剥ぎ、節くれてはいるが骨太な指が丁寧に室町の肌に触れた。深めに切り揃えられた爪が粗暴な印象の強い外見に似合わなかった。
「すまない」
「犬に礼なんて言うんじゃねぇ」
そうか、と返して、昔よく似た愛犬にそうしたように頭を撫でた。整髪料で固めてあるが思っていたよりも毛自体は柔らかかった。
2日3日経っても、貝塚は落ち着かない様子で殺風景な室町の自室の床に座っていた。勧めてもソファには座らなかった。椅子にも。やはり犬の身代わりとして贈られたのだと室町は思った。愛犬としてでもなく、人としてでもなく、対等ではない関係なのだと強く感じさせる。時折スーツの男が貝塚を見に来たが、室町は適当な対応をして追い返す。首輪や鎖の提案をされたが断ってしまった。貝塚に逃げる様子はない。その度に貝塚は、いいのか、と確認する。あんたは犬でも人間だろ。貝塚は黙ってそれきりになる。ソファとテーブルとその下の毛足の長いラグ。窓とは対面の部屋の隅に置かれたベッドは日当たりが悪い。壁に向かうように置かれた机と椅子は小学生の頃から与えられた物だ。そしてテレビとクロゼット。他にあるのは水以外何も入っていない水槽だけだ。アクアリウムですらなかった。貝塚はよくその水槽を眺めていた。
「俺はあんたを犬とは思ってないんだけどな」
室町を一瞥しただけでまた水槽へと意識は戻る。出来るだけ人語も使わないつもりなのだろうか。床に座り込んで水槽を見上げる姿を眺める。室町は暇だった。毎日が。外には出ず、父親の職を継ごうともせず関わる気も無く自室に籠もる。母親の名義で大学に通えてはいるがいつどこから父親の素性が知られ、辞めさせられるかも分からない。
「そういう趣味があるならとやかく言わないが」
貝塚は反応しなかった。ただ紫を帯びた光を浴び、酸素が送られる水を見つめている。
「趣味なわけねぇだろ」
1日目の食事もまた、犬が使う皿に盛られて持って来られた。室町の表情が強張ったが、貝塚は平然としていた。きちんと人間が食べるよう調理された物を頼み直してその日は済んだ。昨日は2人分の出前を頼んだため事無きを得た。これからは出前か自炊になるだろう。
「お前の親父に迷惑かけた。ただそれだけだ」
雑誌のクロスワードを解いていた手を止める。見開きのページが大きく軋んで、また部屋に静寂が戻る。それほどまでのことをしたのか。罪悪感で矜持を平然と捨て、犬として扱われることを良しと出来るのか。室町の答えは否だった。だが上の命令は絶対で、遂げられなければ心身共に痛みを伴う。それが室町や貝塚を取り巻く掟だ。その環境に耐えられず、まだ選択の余地があった室町は父親・寛永の仕事には関わらなかった。
「犬なら遊べ」
手を出せば貝塚は立ち上がる。室町の前で腰を下ろし、ぶっきらぼうに差し出した手へ頬を擦り寄せる。伏せられた目。短いが濃い睫毛。彫りの深い目鼻立ち。生まれは日本ではないと名乗るついでに言っていた。髭の感触がわずかに残る輪郭を掌で辿る。犬ではない。儚い美しさはない。だが猛々しい美しさに引き寄せられ、顔を近付ける。室町の桜色の唇が血色の悪い薄い口唇に重なる直前で貝塚が身を引いた。何も触れはしなかった口元を拭う。
「犬とそういうこと、しねぇだろ」
「そうだな。エキノコックスが感染 る」
室町は貝塚を見下ろした。耳まで赤く染まっている。仕事柄慣れているものかと思っていた。寛永がまだ30代の男に任せるような店だ。対象客は分からないがおそらくは身体や"色"を使う。経営者にせよ間近で起こっている営みだ。
「でもあんたは犬じゃない」
貝塚の額に形の良い唇を当てる。貝塚が、ひ、と息を止めた。
「ガキ」
室町は笑みを浮かべた。自身で犬と嘲るくせ、中身は全く服従してない。その気位に妙な興奮を覚える。油断している貝塚の頭を抱き込んで、唇を舐めてからまた目元や頬、口角に押し当てる。貝塚が首を振って払う。
「お前…」
「犬なら黙っていてくれ」
貝塚は唇を噛んで俯いた。室町は貝塚のシャツのボタンを外し、耳朶や首筋、喉仏に唇を落としていく。襟元を大きく開き鎖骨に歯を立てると貝塚は室町から離れようとする。強く噛んだつもりはない。
「やめ…っ」
「痛かったか」
「くすぐってぇんだよ」
浅く息を吐く姿に、胸が躍った。まだ触れていたい。筋肉ののった胸板を押す。掌に収まる胸。心臓を掴まれているようで、反面ふわりと浮いているようで指が貝塚の胸の形に沿っていく。
「お、い…」
取り憑かれたように貝塚の胸部を揉む。胸の突起が掌の窪みに当たった。開かれたシャツから覗く、割れた腹筋が引き攣る。その下で慎ましやかに動くスラックス。カエルやバッタを見つけた好奇心旺盛な子供よろしく両手でゆっくり蠢くスラックスを覆う。
「ぁあっ…」
貝塚が口を押さえる。布が押し上がり、掌に触れた。切ない声が耳の中で繰り返される。泣きそうに眉根に皺を刻む貝塚に身体がカッと熱くなる。見てはいけないものを見てしまった気がして手を引っ込めた。
「すまない」
「…」
貝塚が目を逸らし衣服を直す姿を横目で見て、また室内は静寂に呑まれる。
「お前はゲイなのか」
「違うと思う。多分」
「多分?」
「女でも男でも、好きになったことないから」
それきり返事はなかった。ソファとテーブルに挟まれたラグの上でどこか一点を見つめぼうっとしている。室町は一度暑くなった身体を冷やすため窓を開ける。ベランダに足を出し、レースカーテンがそよいだ。そわそわしている貝塚に自室のトイレを勧めれば従った。曇った空を眺めながら、得体の知れない衝動に混乱した身体を冷ます。すでに十分だった。貝塚を待っているのも、何をしているのか分かってしまっているため気恥ずかしくなり、部屋には戻れないでいた。斑模様の空を眺め、水の流れる音に我に帰る。貝塚を見られなかった。
「風邪ひくぜ」
「そうだな」
窓を閉める。貝塚は水槽の前に座っていた。この部屋に他に面白いものはない。とはいえ酸素循環装置が付いた水だけの水槽も然程面白いと室町は思わなかった。
「悪かった」
思い当たる節のない謝罪。肩を落とす貝塚。暗くなった部屋で、水槽を照らす淡い紫を帯びた光。何のことなのか分からなかった。貝塚が謝ることは何ひとつない。
「オレは犬だ。お前を拒否するべきじゃなかった」
「…たとえあんたが犬でも、犬にも拒否権はあるはずだ」
ソファに座って貝塚の背を見る。項垂れ、肩を落とす姿は大型犬に似ている。
「愛玩動物だと思うんじゃねぇよ。奴隷だ、オレは」
「ペットは飼ったことあるけど奴隷は飼ったことがないからな。そう言われても扱い方に困る」
思っていたより気落ちしているらしい。開かれたままのクロスワードを続けるか否か迷っていた。
「謝るなら俺のほうだから」
呟いてクロスワードを続ける。貝塚が振り返ったことにも気付かなかった。テーブルが翳る。圧倒的な力に身体が揺れた。片手に握ったペンがテーブルを転がり、書きかけた字が形を成さず紙面に残る。毛足の長いラグに倒されるが後頭部を厚い掌に支えられている。起き上がろうとする前に唇に押し当てられる薄く柔らかな微熱。数秒強く触れると離れていく。脳が溶けていくようだった。貝塚の胸元を掴んで上体を起こす。貝塚はばつが悪そうに室町の反応を窺う。乱雑にその顔を掴んで顔を向かい合わせる。髭が僅かに伸びた顎を楽しんで、薄い唇を指で辿る。親指の腹で小さく下唇を開かせる。仕事柄保湿していたらしい粘膜は荒れはじめていた。戸惑いを浮かべた貝塚の下唇を柔らかく食む。赤く色付き、室町の唾液で白く光る。
「…ッ」
「買い物行くか。服とか揃えないとな」
手の甲で拭われる。短く息を吐いて室町は立ち上がり出掛ける支度をする。貝塚は動く気配がない。
「首輪も付けねぇで逃げられるかも、とか思わねぇのか」
「半分逃げてほしいとは思ってる。人生狂わされるやつ、多いから」
貝塚に手を差し伸べるが、貝塚は自力で立ち上がる。部屋の鍵を掛け、リビングに向かう。寛永はほぼ帰っていないため実質一人暮らしも同然だった。広いリビングと使われた形跡のないカウンターキッチン。下町に似合わない高層マンションだった。土間から低い上がり框(かまち)で靴を履いていると、貝塚はまるで見送るかのように立ち尽くす。
「行かないのか」
「お前と並んで歩くわけに行かねぇだろうが」
腕を取る。貝塚はその立場ゆえに振り払えない。構わず室町は腕を引く。折れたのは貝塚だった。腕からシャツを掴んで廊下を歩き、長いエレベーターに乗る。降りた頃に貝塚を放していた。
*
室町はベッドで寝転ぶ。湯上がりの貝塚は相変わらず水槽を眺めていた。貝塚が来てからの夜はすぐに眠くなり先に寝てしまい、起きれば変わらない貝塚が部屋の隅に佇んでいた。
「大和、ソファ使ってくれ」
買ってきたゆとりのある衣類に身を包む貝塚は白熊に似ていた。返事の代わりに一瞥してまた水槽を眺める。拒否しているらしい。重くなってきた瞼に抗う。
「寝床くらいは必要だろう。明日は大学あるから…大和は…外でも行ってきたら」
眠気に目を開けられなくなり、貝塚の細かい仕草も分からない。犬といえばよく甘え、小さく鳴いて遊びを乞うものだと思っていた。だから貝塚は室町にとって犬ではない。意識が一瞬飛んだ。一瞬だったのか、数分だったのかも分からない。タオルケットを腹に掛けられる。父親か、その部下か、それとも。タオルケットを握って寝返りをうつ。電気が消され、真っ暗になった部屋は水槽の光だけになる。貝塚は穏やかに寝息を立てる室町を見つめ、枕元に置かれた目覚まし時計を確認してから水槽の前に座り込む。日本の実家で飼っていたネオンテトラやエンゼルフィッシュを思い出す。数日前まで勤めていた店の中にも極彩色の光に照らされる水槽があった。一番早くに店に行き、まず水槽の中を確認した。浮いたり水流に遊ばれる死骸を取り除いては店の裏に埋めた。その隣にいた、10は下の男。そばかすが印象的なパーマのかかった黒髪が愛らしい小型犬のような男。目を閉じる。乾いた眼球が沁みていく。背格好が室町に似ていた。喧しさはまるで似ていない。部屋の隅の壁に背を預け、目を閉じる。
目覚まし時計のけたたましい音に目が開き、消そうとすることだけは意識をきちんと取り戻す前から働いていた。夢の中の街と現実が混在する。大きな白い犬と夢の中の曖昧な街を歩いた。部屋の中を見渡すが懐かしい思い出の化身はいない。夢の中で夢だと気付いて、だが落胆は覚めた後にやってきた。溜息を吐くと自室の扉が開いた。目が合うと逸らされる。大きな白い犬は夢だったが、夢ではなかった。
「大和、ちゃんと寝られた?」
「…ああ。朝飯食うか」
躊躇いがちに貝塚は問う。鼻が空腹を誘う良い匂いを拾った。
「あるのか。支度したらすぐに行く」
身支度をしてからリビングに行く。洗面所に向かう途中で見えたテーブルの上の皿に急に泣きたくなった。着替えてリビングに入ると貝塚は室町の自室に入って行こうとしたため、呼び止める。
「大和」
「食い終わったら、皿は置いておけ」
自室の扉が閉まる。真っ白い皿にレタス。綺麗に焼かれた玉子焼きには控えめにケチャップがかけられている。そして2つに切られた分厚いトースト。喫茶店に出るようなクオリティ。貝塚は料理が上手かった。テレビでニュースを観ながら朝食を済ませると貝塚のいる自室へ戻る。
「朝飯ありがとうな。美味しかった」
壁に凭れて貝塚は手負いの獣のようだった。
「鍵、渡しておく。出掛けるなら頼むな。ポスト入れておいてくれたらいいから…それと少ないけど電車賃とか昼飯代」
テーブルの上に5000円札と鍵を置く。貝塚はただ人相の悪い目を室町に向けるだけだった。冷房を入れて、行ってくると告げても貝塚は何も言わなかった。もしかしたらもう会わないかも知れないのに。
「大和」
そう思うとまだ何か言い足らない気がした。貝塚の前に屈むと項垂れた顔を上げる。
「元気で」
髪を撫で、額にキスする。人間ならば犬より多くは長生きだ。だが人間だからひとつの場所に留めておくことは出来ない。夢の中の白い犬と重なって、胸が苦しくなった。
「ガキ」
背を向けたところで貝塚が口を開く。
「気を付けて行けよ」
室町は笑った。物足りないのか十分なのかも分からなかった。
【未完】
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