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赤と白か黒 1 ※

潔く離れたつもりだった。すぐに忘れることだと。気に留めるほどのことでもないのだと思っていた。  山奥に聳え立つ巨城で雪村峡多郎の父親は死んだ。国の伝統的な雰囲気とは正反対な、大きな大きな城。白い壁、金の装飾、薄いブルーの屋根は空の色と混じっている。閉鎖的な社会を狂気で包み、そこで成功した者は国を操れる、らしい。雪村の父も、あそこにいた。そこにいたけれど、ある日突然気付くのだ、その社会の異様さに。 「峡ちゃん」  下腹部の膨らんだ姉の荷物を持ち、車道側を歩いていると、姉に呼ばれた。姉の視線の先を見ると、作り物のように鮮やかな色で傷一つなく咲いている花が所狭しと花壇に植えられていた。気落ちしやすい姉の気落ちしやすいこの時期に度々こうして外に連れ出す。姉の腹に宿った子の父親の代わりに。駅前のデパートの前の横断歩道で信号を待つ。青になった、と歩き出した姉の肩を咄嗟に掴む。 「姉さん、」  この街には支配者がいる。嫌でも視界に入る巨城の主。神楽常寺家の末弟。長男・次男ではなく継承権が最も遠い三男が当主を務めている。だが誰も訝ることはない。訝ってはいけない。ここに住むのなら。 「大丈夫だね、行こう」  神楽常寺家で父親が死んだ。すでに神楽常寺家で執事の見習いとして働いていた雪村は神楽常寺の次男の側近へと昇格した。突然の大抜擢だった。誰もが羨む出世街道。雪村が7歳の時。20年前を思い出し、雪村は神楽常寺の城を視界から外す。  横断歩道を渡る姉の足元を転ばないよう見つめながら、ゆっくり渡っていく。曲がってきたわけでもない車が止まることなく姉の方へやってきた。止まる気配はない。神楽常寺優先車道、というのがある。救急車でも優先しなければならない車道で、信号というものが実質機能しなくなる。真っ白く長い車体は止まらない。姉が轢かれてしまう、と思うよりも先に姉と車の間に割り込んだ。その数秒後にブレーキ音がした。神楽常寺絡みの交通事故は珍しくないどころか日常茶飯事ではあるが、被害者にならない以上はお構いなしだ。ブレーキは止まりきれず、雪村の身体はボンネットへ乗り上げる。雪村の手足がフロントガラスへ投げ出される。意識はある。頭の回転も冴えているつもりだった。だからこそすぐに身重の姉の元へ寄り添い、口元をわなわなと震わせ、今にも悲鳴を上げそうな姉の口を押える。神楽常寺家の非難と受け取られては生きていけない。 「交通妨害罪じゃない?これ」  停車させ、白い車体から降りてくる小柄な青年と陽気な声。そのまま通り過ぎればいいものを、車体を汚したとでも言われるのだろうか。にやにやと笑いながら近寄ってくる青年から姉を背に隠し、雪村は一歩前に出た。周りの通行人たちは立ち止まり、固唾を飲み、脂汗を浮かべているのが見ずとも分かった。  神楽常寺家の者を前に面と向かって顔を見てはいけない。それが許されるのは神楽常寺家で働く者のみで、その資格は雪村にはもうなかった。俯きながらアスファルトの上を目が泳ぐ。 「表、上げてよ」  小柄な青年が雪村を指で差す。雪村が顔を上げた途端に、小柄な青年は目を瞠る。 「嘘でしょ」 「すみませんでした」  雪村はアスファルトに膝を着く。12年で十分、顔は変わった。だがこの小柄な青年はきょとんとしている。支配者のカオが崩れた。 「ここにいたんだ」  小柄な青年をさらに小柄に見せる両脇に控えた背丈も恰幅もある厳つい護衛が雪村の両腕を掴んだ。 「峡ちゃん!」  姉の叫び声が聞こえる。全て夢だったら、雪村は離れていく姉を見つめた。 「…ッがふ」  車に撥ねられた後の容赦のない暴力に雪村は血の混じった唾を吐き出した。上半身裸の巨漢たちに身体を押さえ付けられ、自白剤のようなものを飲まされると、鞭を打たれ、殴られ、蹴られる。耳鳴りがしている。雪村は黙っていた。舌を噛み切らないようにとタオルを食まされているが、漏れる悲鳴は響きやすい室内の雑音で掻き消える。四つん這いのような姿勢で下半身を高く上げる姿勢に沸き上がっていた羞恥もすでにどうでもよくなってきていた。ただひたすらに身体が熱い。車に強く打った肘や膝の広がっていくような痛みもあまり強くなく、ただ疼き響いているといった感覚に変わっている。耳鳴りが強くなり、周りの下卑た声も聞こえづらくなってきている。 下半身は怠くなり、ベルトで固定されていた腕が震えた。石畳でできた床と石のタイルように思える壁は湿気がこもりやすいのか、蒸し暑さに雪村は汗が止まらない。ふと入ってきた涼しい風に、この部屋の扉が開いたのだと理解し、だがもう1人、人口が増えただけだった。膝が震えて、高く上げていた下半身が下がっていく。また鞭がとんでくるのかと思ったが、腕を拘束していたベルトが突如外され、ぽたぽたと乗せられていた台の上に汗が落ちていく。腕は震えたまま。雪村を囲って鞭を振っていた巨漢たちが肩に触れる。身体が震えた。台から身体が浮かび、抱き上げられている。触れられている肉厚な手からまた熱が広がっていき、雪村は断続的にびくり、びくりと身体が震えた。    はっきりしない意識の中で、心地良い冷えた空気と目が覚めそうなほど鮮やかな真っ赤な絨毯と、網膜を貫くような金に輝く玉座、そしてそこに居る人影を確認したところで、またびくり、と身体が震えた。下半身の怠さが消えてはまた怠さを帯びていく。湿った感触が不愉快で巨漢に抱え上げられたままの姿勢で身を捩る。  生贄を捧げるように玉座に向かう短い階段の上に下ろされ、靄がかかった視界の中で人影が雪村に被さった。 「酷い…」  暑さに汗が止まらない。目元に布を掛けられ、視界が遮断された。 「…ッふ、」  下半身が軽くなる。ベルトが外されたのだと感覚で分かった。穿いていたスラックスが寛げられる。 「あ、ッ」  直接触れられたらしい。それだけで腰がふわりと浮いて、また下半身が軽くなる。甘い痺れが伴って、怠さが消えていく。 「ッんあ」  冷たい手の筒の中で擦られ、ふたたび熱が上り詰める。 「ああ、ああッ…!」  大きく身体を震わせて、今日何度目かも分からない絶頂を迎えながら意識を手放した。

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