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赤と白か黒 2

「誰が拷問部屋入れろなんて言ったよ?言ってねぇよな?言ってねぇだろ?まじふざけんな?」  陽気な声が耳の奥で聞こえた。冷たい手が頬に触れる。目が開いた。 「峡ちゃん?」  知らない声に愛称を呼ばれて雪村は跳ねるように身体を起こす。響くような頭痛に顔を顰めた。 「どなた…?ですか…?」  額を押さえながら視界に入ってきた強面な男に問う。目を見開いて、少し傷付いた表情をした。 「次はマジねぇかんね?」  陽気な声に強面のな男から意識を奪われる。小柄な青年が雪村を抱え上げていたと思われる巨漢の股間を足で踏むように撫でいている。 「んで、そっちは起きたわけ?」  嫌味ったらしい喋り方と陽気な声の小柄な青年・神楽常寺(かぐらじょうじ)野兎(のうと)が雪村の方へ顔を向けた。 「懐かしいね」  肩を竦めて神楽常寺は笑う。ばきばきと軋む身体を無理矢理動かして、ベッドの上で土下座する。ふわりふわりと視界が揺れた。薬品や薄荷の匂いが鼻をつく。雪村はシーツに額を埋めて神楽常寺の反応を待つ。 「のんさん」  雪村を愛称で呼んだ見知らぬ男が神楽常寺に縋るような声を上げる。この呼び方を許される人間はごく僅かだ。相当の寵愛を受けている。 「(きら)」  神楽常寺が甘ったるい声で紡いだ名に反射的に顔を上げてしまう。“煌”という名の者に心当たりはある。どこだ、と探してしまうが雪村の思う煌の姿はどこにもない。 「峡ちゃん?」  ベッドの脇に、ベッドの上で膝を着く雪村へ人懐こい笑みを浮かべた端整ながらも厳つい顔立ちの男。赤のリボンタイと白いシャツ、黒のスーツを身に着けた男。雪村の記憶の中の泣き虫で頼りない少年とは似ても似つかない。 「う、そ。煌?」  名の通りの眩い笑みへと変わって、嬉しそうに何度も頷く。籠原煌、この男の名だ。 「のんさん、お願いします」  ベッドの下の毛足の長い絨毯の上で籠原は神楽常寺へ向き直ると、膝を着いて額をその絨毯の上へ深々と減り込ませていく。 「困ったな~。世界一安い土下座みたいだからやめてって」  巨漢の股間を足で撫で繰り回しながらにやにやしている神楽常寺の目が少しも笑っていない。 「本当はさ、重罪なわけよ、分かってる?こっちはテンサゲ」 「重々、承知しております」 「君だけじゃないよ?一緒にいた女も。でも庇うでしょ、君」  口調は砕けているが、やはり目は笑ってはいない。 「姉でございます。もうすぐ臨月で…」  神楽常寺には関係のないことだ。だから何だ、と言われればそれまでのこと。相手が障害者でも怪我人でも病人でも、妊婦でも老人でも子どもでも関係がない。轢き殺すときにそういったものは関係ない。神楽常寺家には関係のないこと。 「姉ぴっぴなんていたの」  神楽常寺の目が笑ったことに雪村は気付かなかった。 「知らなかったな、ぱぱぴっぴしかいないと思ってた。だからどうする気なのかな、って思ってたけど」  過去の繋がりを匂わす神楽常寺に雪村は頷くこともせず、シーツに額を埋め続ける。肩と肘が悲鳴を上げている。車と衝突し、その後拷問に耐え、まだ腑かに耐え続けられている自身に素直に感心した。 「オレもね、いたよ。…姉ぴっぴ」  女人禁制のこの閉鎖社会で?疑問が浮かぶと同時にすぐに打ち砕かれる。 「どっか行っちゃったけど。君みたいに」  神楽常寺の口角が上がる。雪村は目を瞑った。末弟・野兎の元へ移籍するなら辞めるという言葉を待っているかのように次男である主は目を輝かせ、雪村を簡単に解雇した。そのことをこの末弟は知っているのだっろうか。 「あの時手に入らなかったものがさ、またオレの前に現れた。このチャンスをさ、逃せるかって話よね」  手を付けたシーツへ爪を立てる。 「今日から君はオレの物。いいね?」 「…ッ」  シーツに埋めた顔を上げさせられ、目の前に神楽常寺の顔が迫る。顎を掴まれ、親指で唇をなぞられる。冷えた目で見下ろされ、神楽常寺から視線を逸らす。直視してはいけない。オレを見て、と囁かれ、目を合わせれば、反論は許さないとばかりに口元が吊り上がった。外界との接触がほぼ遮断される。姉とはもう会えない。雪村は呆然と神楽常寺を見つめてしまう。 「のんさん」  籠原が僅かに眉根に皺を寄せ、神楽常寺を呼べば神楽常寺は柔らかい顔つきへと戻る。籠原の髪を優しい手つきで撫で、「彼を頼むよ」と頬にキスして退室していく。 「そういう、ことみたいです」  残された籠原は目元を微かに染めて雪村に向き直る。この男が雪村の中の“籠原煌”なら、今21歳のはずだが、外見はそれ相応、もしくはそれより少し上くらいには見えるが、醸す雰囲気は幼い。観察するような雪村に照れたのか頬を掻いている。 「色々大変だと思うんすけど、お、れはまた、峡ちゃんに会えて、嬉し、いです」  人の不幸を喜びやがって、と内心毒づき、雪村は黙る。12年前にイメージした籠原煌とは違う青年の姿には何の懐かしさも覚えなかった。6年間面倒を看たけれど、何ひとつとして。 「俺は君の知ってる峡ちゃんじゃ、もうないよ」  外の世界に触れてきたから。雪村は突き放すように言った。籠原の笑みが凍りつき、みるみる悲痛な面持ちへと変わる。 「でも峡ちゃんは…峡ちゃんし…、おれの知ってる峡ちゃん…」  記憶の中のままの、体格差が明確だった当時はこの籠原が可愛くて仕方なかった。だが今は長身で筋肉質で雄々しさ溢れる、笑顔が少し可愛いくらいの男だ。 「お、れ頑張ったんだよ。峡ちゃんの教えの通り、やれたよ。峡ちゃんが、励ましてくれたからここま――」 「やめてくれ」  顔に纏わりつく羽虫を追い払うように手を振って、籠原の言葉を遮る。ここに居着くことになっても、毒されたくはない。 「峡ちゃん」 「仕事はいつから。制服は。俺の業務は」  ここでは“奉仕”といわなければならなかった。だが敢えてそれに倣わない。 「う~ん、今すぐにでもって言いたいところだけど、その身体じゃムリっしょ」  神楽常寺がふたたび股間を踏みつけていた巨漢を侍らせて戻ってくる。巨漢の腕に乗せた袋に入った制服を雪村のいるベッドの上へ投げる。 「制服はそれね。それから君はオレの側近で…」  投げられた制服は側近の中でも高い位置を示している。籠原と同等の。内容はおそらく違うけれど。 「ここでは“ごほーし”って呼ぶシステム変わってないからシクヨロ~」  君、帰っていいよ。神楽常寺が巨漢を下がらせて雪村の元へ寄ってくる。雪村が再び頭を下げようとするのを制し、ベッドに座った。 「いつからがいいかな。楽しみだな。いつからがいい?」  雪村の頬を遠慮の欠片もなく触る。拒否権はない。 「100年後でお願い致します」  真顔で雪村は小さく呟く。神楽常寺が歪んだ喜びを露わにする。 「そういうトコロがさ、ずっと欲しかったんだよね。君は逃げちゃったけど」  はらはらしながら籠原が2人のやりとりを見ている。 「引き留めて、くださらなかったので…」 「兄ぴっぴのこと?イヤだったんでしょ、君がオレの元に渡るのが」  3つ下の末弟よりも同い年の次男の方が居心地が良かった。ワガママで自分本位でお子様な末弟とは合わない。理由は単純明快。 「オレはずっと君が良かった」 「なら探してくだされば…」 「探したよ。でも見つからなかった。それに辞めた人間おおっぴらに探させるのってアレだけど、そんなこともお構いなしに探したのに君は見つからなかった…」  誰も神楽常寺を非難し、嘲笑する者などいないのだ。何を気にしているのかと雪村は神楽常寺から顔を逸らす。 「ご主人様から目を逸らさない」  籠原にかつて教えてことを神楽常寺の口から指導される。頭を掴まれ、捻るように向き直された。それでも雪村は目を合さなかった。 「もうここのルール忘れちゃった?って言ってもオレも知らないから、じゃあ煌、指導と再教育頼むわ」 「え」  籠原の驚いた返事に神楽常寺も驚いたらしい。是非の返答は速やかに、そう教えたのは雪村だった。 「お、れが、教育係でございますか?」 「煌なら大丈夫だよ。よろしく、出来るよね?」  雪村の頬を逃さないとばかりに触れている手とは逆の手で籠原の髪を愛しそうに撫でれば、籠原は照れて目を瞬かせている。 「ご指導、ご鞭撻のほど、よろしくお願い致します、籠原先輩」  決まりきった文句に当て嵌め、昔の後輩へ頭を下げる。籠原が泣きそうな顔になるのを見て、どうしても昔から感情を殺せない素直さに苛立ちを通りこして羨望さえ抱いた。 「む、ムリです、のんさ…」 「煌。イけないね?お前に“無理”を教えた者がいたの?誰かな、お前の教育係は…。いっぱいお仕置きしなきゃだね?」  籠原が首を振るのを他人事のように雪村は見つめた。与えられたことを拒否すること、是非の「非」は殆ど使うことを許されていないこと、だが効率や要領の都合、物理的不可能の場合に於いてのみ許されていたこと、それらを教えたのも雪村だ。 「承知、しました…」  複雑そうに頷く籠原の厳ついながらも大きな目が潤んでいる。 「いい子だ」  愛玩動物という風体ではない籠原を愛玩動物のような外見の神楽常寺が愛しそうに目を細めながら撫でている。 「明後日から頼むわ。それまで休んでて」 「はい」  んじゃオレ仕事あるから、と神楽常寺は部屋から出て行った。 「きょ、峡ちゃん」  消えていく背を見つめ続ける雪村を籠原が覗き込む。 「はい、籠原先輩」 「その呼び方…嫌です」 「申し訳ございません」  今朝の予定では、元・後輩が先輩になるなど考えもせず、意識の中に籠原煌の存在すらなかった。そのまま塗り潰されていくだけの思い出だったはずだ。雪村にとっては大したことではないけれど。すでに知らない男となっている籠原煌のことなど。 「敬語も嫌です」 「申し訳ございません。善処致します」  理不尽なことを言われても、形式的に謝ること。先輩は表面上でも敬うこと。籠原に教えたことだ。それがここで暮らす最善の方法。最善の思考停止。 「峡ちゃん」  自分はそんな風に教えたか。それともシステムが変わったのか。甘ったれた籠原に雪村は口にはしなかったが、落胆を覚える。だが怯えた目は記憶の中の面影そのまま。 「なんで、前みたいに、接してくれない、んですか…」 「籠原先輩、何をおっしゃっているんですか?」 「ごめ、んなさい、お、れ…」  ぽろぽろと飴玉のような涙を零しはじめて、雪村は顔を背けた。どれだけ厳しく理不尽な指導をしても涙を見せなかった。見てはいない、見なかったことにしたい。主の寵愛を受けて牙が抜けたのだろうか。神楽常寺家を離れて12年は雪村にとっては短かったが籠原にとってはそうではなかったのか。6歳差の時間的感覚は同じではないのだろう。 「ずっと待ってたんです、ずっと待ってた。峡ちゃんのこと、ずっと。いつか戻ってきてくれるって思ってました」 「…」  戻ってきたわけではない。連行されてきた。だがそう言えなかった。姉の存在を知られている以上、下手に動けば人質にされる。やりかねない。神楽常寺はそういう家だ。長男も次男もそういう人物だった。  湿布と包帯が巻かれた雪村の手を握って籠原は頬に寄せた。 「神楽常寺様に触れる手で…」  神楽常寺に(かこ)けて雪村は手を引っ込める。籠原はおそらく最も位が高いところにいる。何人もが一攫千金を狙ってここに入り、辞めていく。元・後輩は成功した。それを成功と果たして本当に言えるのかは、雪村には断言出来なかったが。 「峡ちゃん、おれ」 「籠原先輩」  黙れよ、と言わんばかりに牽制する。 「諦めないです。峡ちゃんと前みたいに戻れること…」 「無理です。分かってください。当時は仕事でしたから。そして今貴方は先輩です」  頭を振って雪村の言葉を拒絶する籠原を見ていられなかった。神楽常寺家を去る時、籠原は10歳だった。ずっと泣いて、最後まで追いかけてきた。 「1人にしていただけませんか」  沈んだカオで籠原は頷いた。 「19時頃に夕飯持ってきます。その前にお腹空いたら呼んでください」  籠原が部屋を出て行く。目元を拭って扉が閉まる。

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