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赤と白か黒 8

 夢を見ていたのかもしれない。そう思うのが最適な方法なのかもしれない。夢の中と連動して身体が痛い。胸もどこか、痛覚とは言い切れない重苦しさを持っている気がする。自分も知らなかった事実を突き付けられた。思い出の中でも古い籠原の姿が脳裏にこびりついている。何も知らなかった。知りたいとも思わなかった。知る必要もなかったし、知る術ならあったけれど、知る知らないの概念すらなかった。何度目か分からない帰りたいという思いが、明確に強く表れる。滲みはじめた視界をどうにか滲むまでに収めて、与えられた仮の自室を出る。神楽常寺の自室に近いここから離れて、どこかへ。未馬とよく眺めていた薔薇園はどうだろう。今はどうなっているのかは分からないけれど。退室するなら今しかない。籠原か、もしくは神楽常寺が仮の自室へ様子を見に来る可能性が高い。捕まって面倒なことになる前にどこかへ行こうと身体を引き摺るように歩く。すれ違う早番の使用人たちが怪訝な視線を向けて雪村を見たが、誰も何か言ったりはしなかった。雪村もそれに気付くことも気になることもなかった。玄関の真上の階の大広間のベランダから伸びる階段で庭園に下りる。外は早朝の光りを浴び、静かだった。小鳥の囀りと、遠くで聞こえる車の音。  雪村が目指す薔薇園は、薔薇に囲まれた迷路だ。生垣で造られ、道の途中で時折オブジェが、中心部には休憩スペースがある。巨大な鳥籠のような鉄柵のクリスタルパレスというには大袈裟で小規模な、けれど雪村には未馬との思い出が詰まった場所。変わっている様子はない。まだここに居た頃の幻影が二つ、見えた気さえしてくる。入り組んだ生垣と生垣の間を縫うように進む。生垣から顔を出す真っ赤な薔薇が雪村を快く迎えるようだった。 ~♪暇人よ Never let you go 一緒に行こう 共に見た夢を 一人泣かないで このままで 所詮unfair そんなworld でも忘れないでこのword 価値のないGold 捧げよう心臓と 意味のゴールを~♪  柿沼の歌が聞こえる。迷路の先にいるらしい。声を頼りに気が急く。 「柿沼くん」  鳥籠を模した鉄柵の中で白い格好をして朝日を浴びる姿はどこか神々しく映る。 「おはようございます」 「おはざま~す」  軽い口調で柿沼は目尻の皺を刻む。テーブルに座って、イスに足を上げている。薔薇園なだけに、白い薔薇の化身とも似ている。 「顔がすっげ疲れてっスよ」 「…ちゃんと寝たはずなんだけどな」  書類の偽装が見抜かれて、無駄になってしまったことは言えなかった。ただリスクを背負わせてしまっただけとは。 「朝飯食いました?」 「ご飯、持ってきてもらうことが多いんだけど…ちょっと、何が入ってるか怖くて…なかなか食べられないんだ」  座っていたテーブルから下りて、足を乗せていたイスを白い手袋をした手が拭く。 「昨日買ったサンドウィッチ残ってんスけど、食べます(パクつきます)?」  柿沼の顔を見ると、安心した。無いと思っていた臓器が働きはじめた。 「いいの…?」 「食堂混みますしね。捨てるのもキッツいし、気持ちが」  ちょっとだけ待ってください、と言って柿沼は朝飯を取りに向かう。雪村はイスに座った。実家にいた頃にもよく聞いた小鳥の声。カラスの声。清々しい光が差し込む白を帯びた景色。  お前と暮らせたら、毎日こうして向き合って、飯食いてぇな。  この場所で未馬はそう言った。クッキーを割って、人懐こくなってしまった小鳥に与えながら。柿沼がこの場所にいるとは思わなかったが、柿沼もどこか懐かしい雰囲気と安堵感を持っている。 「待たせたっス。どーぞ」  柿沼に負けないくらい白い紙袋とトレーに乗ったコーヒーが2つ。 「ミルクと砂糖は入れます?」 「大丈夫。ありがとう」 「へへ、ブラックで飲むって顔してっスもんね」  柿沼の場合は顔で決まるのだろうか。柿沼は砂糖が入ったスティックを破ってコーヒーカップに落としていく。 「いただきます」  柿沼は食べないようだった。 「柿沼くんは…?」 「ぼくちんはいいや。朝は米派なんス。もうおにぎり食べたんスよ~」  朝が早いのかもしれない。今日も瞳は不思議な色をしていた。口にコーヒーカップを運ぶ際には、さらに不思議な色になる。彩りはないが、雪村は何よりも美しい色だと思った。 「美味しい」  世辞ではなかった。神楽常寺邸に来てから失せていた食欲が戻ってきた。そして静かな朝と小鳥の声、この薔薇園と柿沼の瞳。いい朝だと思った。よかったっス、と柿沼が一瞬目尻に皺を作って、二重瞼が一重瞼に被さる。 「ここで働くの、やっぱキツいっスから。色々納得できないこととかあると思うスけど」  コーヒーを啜りながら柿沼がそう言った。やっぱミルクも入れちゃう、と言ってミルクの入った容器を手に取っている。 「そういう時は、ここに来るといいスよ。ぼくちん、ずっとここにいるわけじゃないし、何か出来るワケじゃないっスけど」  7つ下と言っていた青年の目は雪村が思っていたよりも大人びている。 「なんてね」  ミルクをコーヒーに入れ終わりながらそう言って雪村を見上げ、照れたのかわずかに舌を見せる。 「ありがとう、柿沼くん…」  美味しいサンドウィッチが涙腺を刺激する。どこか高い店の物なのだろうか。包まれている。温かさに。昨日のことがまるで悪夢だったかのように。 「ぼくちんも入った時は色々な失敗とか嫌なこととかいっぱいあって」  起床後に滲んで、だが収めたものが視界に境界を作る。 「でも先輩にそう言われたっスよ。だからぼくちんも新人サンに言ったっス。どう?いい先輩(ぱいせん)になれた?」  すでに眼球を覆って、今にも零れそうな涙を見られたくなくて、雪村は顔を見せないよう頷く。韻を踏む陽気な声、決意を固めた芯のある声、諭す時の穏やかな声。柿沼と出会ってからの時間は短すぎるほどだが、様々な面を持っている。 「どうしても嫌になったら、ここで一緒に歌うスよ。現実はどうにもならないけど、でも気分はどうにかなるかも知れないスから」  眼球の裏は熱いくせ、頬は静かに冷たくなった。柿沼の不思議な瞳が雪村の顔を見たが、何も言わず何の反応も見せず、コーヒーを啜って柔らかく笑った。 「ど~こ行ってた?」  勤務時間になる前に仮の自室に戻ると神楽常寺が寛いでいた。クリーム色とホワイトを基調とした落ち着いた雰囲気の部屋だが、神楽常寺邸にあるというだけで落ち着きなどない。 「庭園の方へ、散歩に行っておりました」  何も違反はしていない。まだ勤務時間ではないのだから。神楽常寺の機嫌は別としても。 「ほぉん?」  首を倒して挑発的な笑みを浮かべているが目は少しも笑っていない。 「煌が朝飯待ってんだけど、峡多郎はもう朝飯食った?」 「はい。いただきました」  神楽常寺が寛いでいるソファの脇に掛けた制服へ手を伸ばす。神楽常寺は呆れたような声を漏らした。 「付き合ってやってくんね?」 「もうすぐ“仕事”の時間ですので」  制服を手に取ったはいいが、神楽常寺の視線が気になり着替えることに躊躇いが生まれ、寝ていた間に着ていた物を脱ぐに脱げないでいる。 「じゃあ煌の朝飯の相手して。それが今日の“ご奉仕(ほーし)”だ」 「…承知しました」  色々納得がいかないことがあると柿沼は言っていた。飄々としているけれど、柿沼も不当な扱いや理不尽で不条理な思いを繰り返してきたのだろうか。 「意外なこって。随分今日は聞き分けがいいな」  外で待ってるからとっとと着替えろな、逃げんなよ。鼻で嗤うようにそう言って神楽常寺は雪村の部屋から出て行った。妙な悪戯をしてくるのではないかと警戒したが、杞憂のようだ。雪村は急いで身支度をすると、部屋の前の窓から庭を見つめている神楽常寺とともに籠原が待つ部屋へと向かう。神楽常寺を待たせる日が来るなど、以前ここで働いていた時は考えもしなかった。言語道断だ。  籠原は神楽常寺が来ると背筋を伸ばした。眠そうに瞬きをして猫背へと戻る。だが雪村の姿を見た途端に寝惚け眼がいつものガラス玉へと戻った。神楽常寺が複雑そうに雪村を横目で見る。 「私はすでに済ませておりますので」  何か言いかけた籠原よりも先にそう断って、神楽常寺の座った席の脇に控える。  籠原の勤務時間は通常より遅い。神楽常寺邸の中が回る時間帯でも寝間着のままだ。  朝食が運び込まれてくる。まるで高級レストランだ。高級レストランよりも高級で、給仕は神経を磨り減らすのだろう。ありがちなメニューだが、おそらく素材は一級品。雪村が一生働いても1回食べられるか否かというような。気のせいなのかもしれない。ただの目玉焼きの艶や色味が見慣れたものと違うのは。 「何か話せよ」 慣れた手付きでフォークとナイフを使い、分厚いベーコンを捌きながら神楽常寺は雪村に話題を丸投げる。 「何か…」  籠原は箸を使っていた。フォークとナイフは真っ白い皿の山の脇に慎ましくまとまって朝日に光っていた。 「ここに来る前は何してたんですか」  籠原が訊ねた。薄いブルーの寝間着姿に、左耳に挿さった暗赤色のインカムのような、アンテナのような機器が異様だった。寝間着に合わないのだ。装着したまま就寝しているのだろうか。 「峡多郎」  籠原は器用に厚いベーコンを箸で切り分け口に運ぶ。神楽常寺はバターロールだったが籠原は米だった。 「まだ辞めてはいませんが、知り合いのバーで働いていました」 「まぁ辞めたも同然ではあるが」  訂正したつもりが神楽常寺に釘を刺される。籠原が気不味そうにきょろきょろと視線を彷徨わせはじめ、口がぱくぱくと動く。咀嚼とは違う、籠原の癖なのだと嫌でも雪村は気付いてしまった。 「ね、あの、お、れこれからもっと早く起きるから、峡ちゃんと朝ごはん食べたい、です」  食器のぶつかる音がする。籠原のまだどこか覚めきっていないガラス玉がさらに光を帯びる。 「いいな、3人で朝飯」  壁際に一列に並ぶ給仕部と、給仕部長の咳払い。強いられている。同調圧力のようだ。使用人たちの絆ハラスメント。だが相手が神楽常寺なら仕方がない。ただの上司や偉い人ではないのだから。雪村の返事ひとつで様々なものが覆るらしかった。まだ籠原がきょろきょろと落ち着きを失う。雪村が思っていたよりも、周りが見えているらしい。 「峡ちゃんは和食の方が好き?」 「はい」 「ならこれから和食にするか」  窮屈だ、と思った。朝はあの薔薇園で、未馬の発案で造られたあの空間で過ごしたいと思った。コーヒーを啜りながら日光を浴びる柿沼の姿もそこに在りながら。あれは今朝だけの宝石箱だったのかも知れない。  食器の音と、大窓から差し込む日差しに意識が遠くなる。帰りたい、それ以外に何も浮かばなくなってしまう。だがそこに行けなくなったわけではない。柿沼に話すネガティブが増えていくだけ。自分を押し殺さずに済む場所が出来た、それだけでもいいのかもしれない。ここで友人とも呼べる相手ができた。それだけが救いだ。  1日中ずっと一緒にいるつもりだろうか。お手洗いと称して抜け出したはいいが、ただ帰りたいという思いだけに支配される。姉はどうなったのか。姉の腹の子は。家は。職場は。洗面所で水を顔にかける。ここは現実だ。鏡に映る顔面は白く、隈が濃い。気を抜けば溜息が漏れそうだ。神楽常寺家合意で辞めたはずだ。今になって何故。疑問は尽きない。 「峡ちゃん?お腹壊した?大丈夫?」  鏡に入り込んだ籠原の姿。壁に縋りつくような、壁から窺うような格好で遠慮がちにやってくる。 「…お手洗いくらい自由にさせてください…」  平静を装う余裕が消えた。顎を伝って落ちる水滴が排水口へ流れていく。 「ご、ごめっ…なさ…、心配だったんです…」  捕食者のような顔をして、その実、被捕食者の面構えしかしない。幼少期から神楽常寺邸内でなければ問題になっているような経験を積み重ねてきた大きな、強そうな身体。しれでいにこの男はおそらく疑問のひとつも浮かべないのだろう。浮かぶことも許されていない。浮かべられないのかもしれない。 「すぐに戻りますから」  言いたいことをおそらく遠慮している。その雰囲気を嫌でも記憶から手繰り寄せてしまった。 「逃げませんよ。その点はご安心ください」 「峡ちゃん、おれ、」  ガラス玉は右往左往。  行きたくないよ、峡ちゃん。雪村が受け持った教育指導の時間が終わると籠原が泣きついてきたことがあった。お尻を触られるだ、中に何か入れられるだ、まさぐられる脱がされるだのと喚いていたが、座薬やその類だと思っていた。深く考えなかった。考えたところで何も出来ない。知りたくない、聞きたくない、考えたくない。思考にセーブがかかっていた。 「峡ちゃん、おれは」  ぽたり、ぽたり。頬を伝い顎を伝い、洗面台に落ちる水道水を鏡越しに見つめた。 「わがまま、言わないようにしまう、から…」  行きたくない、行きたくないと泣いてしがみつく籠原を当時の籠原の所属する部署長に引き渡した。今目の前に、その頃の面影を残さない男がまだ自身に縋りついて立っている。 「別に、言ったらいいのでは。聞けるかは分かりませんが」  籠原は割り切らないが、あの頃とは違うのだ。 「おれは、また峡ちゃんのこと、呼べるだけで嬉しい、ですから」  脚にしがみついて泣きじゃくって嫌がる籠原はもういない。それと同じようにあの頃の雪村がいないことを籠原は理解しようとはしないらしい。嫌だ行きたくないもうわがまま言わないから、と言っていた籠原が目の前に。雪村は籠原を見ていることが出来なかった。もともとわがままらしいわがままも記憶の中ではそれくらいしか聞いたことがなかった。わがままですらなかったのだと気付くのが今になってなどと。 「籠原先輩」 「峡ちゃ…」 「戻ります」  肩を震わせて項垂れる籠原の脇を通る。 「峡ちゃん、言わせてください」  籠原に背を向けたまま立ち止まる。年上とはいえ、後輩の態度としてどうなのかとは思いながらも。 「はい?」  神楽常寺に飼われている身だ。それを理解しているはず。特に籠原の立場なら。返す言葉は決まっている。 「どうぞ?」 「感謝して、るんです。でも同時に迷うんです。おれは、嬉しいけど、峡ちゃんは帰りたいんですもん、ね」  籠原を残して神楽常寺の私室へと戻る。ノート型PCと向かい合っていた小動物のような愛らしさを秘めた悪魔の顔が上がる。籠原の姿がないことに呆れた表情を浮かべて頭を掻く。 「煌は?」 「お手洗いかと」 「…お前を追っていったんだよ。遅ぇから。クソか」  神楽常寺はノート型PCを閉じ、溜息を吐く。 「それは―」 「クソならクソでいいわけ。お好きにどうぞって話。でもクソじゃなかったらなワケ、問題ゎ」  雪村の言葉を遮って神楽常寺は逃走を危惧していたというようなことを言う。 「あいつも思い悩んでんだよ。どれだけお前のこと大好(だぁいす)きなんだろな」  立ち上がって雪村の元へ寄り、腰を抱く。小さな手が細く固い雪村の腰に絡まって、ちょっと来いよ、と歩かされた。神楽常寺の私室を出て、広い廊下へ。絵本の世界にしかないようなファンタジックでメルヘンな邸内。まるで神楽常寺などという支配者は存在していないと錯覚させる、埋め立て地にある夢のようなテーマパークを思わせる。 「どこへ…?」  臀部へ下りていく小さな掌。顔も正体も知っている相手ですら嫌気がする。姉が電車で触られた話をしていたのを雪村は思い出す。ただ偶然触れてしまっただけなのでは、と思ったいた。実際姉がそうされるまでにもそういった話は聞いたことがあったけれど、派手な格好でもしていたのではないかと思っていた。珍しいことじゃないからとそれなりの回数があったことも示唆して、だが笑い話にすり替えたくなったらしい姉は途中から不安そうだった。  連れてこられたのは神楽常寺邸の外、東にある、別館の最上階の果て。途中でまさかな、とは思ったが神楽常寺未馬の屋敷で、さらにその私室。雪村の眉間に皺が寄る。神楽常寺がドアノブに手を掛けた。 「神楽常寺様」  神楽常寺の手の甲に掌を重ねる。 「峡多郎」  不意に腕を引かれ、扉に背中を打ちつけられる。視界がぐらりと傾いた。膝が折れ、神楽常寺が雪村の唇に飛び込んだ。雪村を扉に押し付け、縫い止めるように。 「ん、ふっ」  神楽常寺の薄い唇が雪村の唇を食み、味わったあと舌が挿し込まれる。 「ふ、ぁ」  掻き回される。神楽常寺の味は甘い。脳を溶かす。ドアノブに手を伸ばす雪村の手を神楽常寺が取り、掌を合せて指を絡められる。 「…ッ」 「は、」    峡多。 未馬が呼ぶ。未馬が名前を呼ぶだけで、胸が弾む。  野兎から預かったガキ、正式にうちに来ることになったんだけど。  未馬に連れられた小さな子ども。目の前で屈む雪村を怖がって未馬の背中へ隠れてしまう。子ども好きで世話好きの未馬がおそらくこの役を自ら引き受けたのだろう。執事がおろおろとしていた。  煌の世話も大変だろうけど、こいつの面倒も看てくれねぇかな。  幼女にも思える少年を抱き上げ、未馬が微笑む。子どもは、みゅーまさま好き、と未馬の頬にキスした。子ども嫌いで無口で無愛想な龍虎(ろうこ)とは似ていない。  お任せください。  未馬が子どもを下ろして、雪村の手を取る。この男が好きだと思った。この邸内で父と同じく、自分も死ぬのだろうな、と雪村は信じて疑わなかった。  オレとお前で立派に育てよう。イイ子にするんだぞ?美得(びゅえる)。  雪村の手を放した未馬の手を子どもはすぐさま握り直し放そうとしない。  野兎(のうと)、あいつ年下ダメみたいなんだわ。  接し方が分からないみたいでよ、と子どもに握られたままの手を大きく振る。未馬は屈託なく笑う。何故この男は神楽常寺なのだろう。本当に神楽常寺なのか。口にすればおそらく未馬はおどけて答えるだろう。だが周りが許さない。そのような質問は。  夫婦みたいだな…照れんなよ峡多。  何も返せず、想像してみて恥ずかしくなり俯くと、未馬が肩に腕を置き、頬を指で(つつ)いた。   「っぁ」  唇の端が冷たい。神楽常寺と繋がった銀糸が解け、唇から落ち顎を濡らす。 「兄ぴっぴとは多分、オレよりお前の方が長くいた」  扉に密着した背中が滑り、神楽常寺支えられる。雪村の唇が神楽常寺に濡らされ光ると、神楽常寺は目を眇めてそれを見つめた。床にゆっくりと下ろされ、雪村は小柄な身体を見上げる。 「まぁ、そんなことはどうでもよくて。もう兄ぴっぴはいないし、お前の飼い主じゃない」  呼吸を整えながら神楽常寺の話を黙って聞いていた。 「お前がオレの元に来ないっていうから煌が1人でうちに来た」  口元を拭って神楽常寺と未馬の私室の扉の間に立つ。まるで門番だ。 「それで、私にどうしろとおっしゃるのですか」 「未馬は死んだ。今オレがお前の(あるじ)で、煌はオレの大切な犬だ。それをいじめるならいくらお前が可愛い花でも許せねぇワケ」  聞きたくなかった。露骨に顔を顰めて雪村は神楽常寺から目を逸らす。 「分かったならお前からキスしろ。分からないなら足舐めろ」  柿沼の声が耳を通さず聞こえる。納得出来ないことしかない。ここで働くのはキツいと柿沼は言った。その通りだと思った。折らなければならないものが多い。膝を着く。神楽常寺の足首に触れて、革靴を脱がせる。 「それがお前の答えかよ」  怒っている様子はない。ただ呆れた様子で雪村の手を足で払い、立ち去っていく。  

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