30 / 47

赤と白か黒 10 ※

 朦朧とする視界の中で神楽常寺が顔を近付ける。雪村は抵抗することなく受け入れた。唇が軽く触れる。何度か離れては触れ、それから噛み付くように大きく開かれる。神楽常寺の舌が雪村の口腔に侵入し、絡み付く。目の前の神楽常寺が滲み、力を抜いて目を閉じると眦から熱が滴って耳に落ちていく。 「峡多郎」  思考を完全に奪い取られる直前で神楽常寺の唇が離れて、吐息混じりに名前を呼ばれた。 「野兎(のうと)、様…」  考えはなかった。自然とそう口が動く。それが唯一、何かを繋ぎ止めていられる(すべ)のように思えて。神楽常寺の目が見開かれ強く頭を抱き締められると再び唇を塞がれた。 「、は」  神楽常寺の手が雪村の胸部を撫でながら、口腔では歯列をなぞり舌の付け根から巻き込むように回される。溢れた2人分の唾液に唇の端が濡れ、冷たく光る。甘い毒が脳を溶かす。 「きょうた」  小さな身体が、大きく映った。小動物のような愛らしい顔が、わずかに精悍さを帯びた甘い顔へ変わっていく。頭がくらくらとして雪村は神楽常寺の頬へ手を伸ばしていた。ずくん、と胸が疼く。伸ばた腕を引っ込めて、神楽常寺を押し退ける。 「だめ、…っ、いや…」  残った理性と現実味が神楽常寺を拒否していた。  峡多、いい…?  抑えの利かなくなった顔をして、縋るように指が肌を辿る。首を横に振る選択肢を奪わせる。もともとその選択など用意していなかった。  未馬様、  劣情を映した白い顔。そうさせているのが自身なのかと思うと雪村は泣きたいほどに胸がいっぱいになる。 「きょうた、」  直接心臓を掴まれて揉まれているのかと錯覚した。鼓動が速くなる。頭も息も指先も熱い。 「野兎様ッ、野兎様…っ!」  間違えてはいけない。神楽常寺の手が下半身の前を摩り、もう片方の手が寝間着の上から胸の突起を弄っている。捏ねられながら、雪村の身体はびくん、と震えた。雪村の前を触る神楽常寺の手が寝間着の中へ侵入し、少しずつ硬度を持ち始めたそれを直に握る。 「あ…、ああ…」  熱い息が通り抜け、喉が灼けるようだった。無遠慮に茎を扱かれ、腰が浮く。蕩ける痺れが波紋を描くように広がりじっとしていられない。背筋が曲がったり伸びたりし、踵がシーツを蹴った。 「後ろ、挿れるから」  胸の突起を寝間着の上から軽く()みながら神楽常寺が反対の胸を撫で回していた手を後孔へと潜ませていく。 「は、ぅん、く」  何の準備も潤いもないそこへ神楽常寺の中指が押し込まれていく。 「痛、痛い…っ痛い…」  輪郭のはっきりしない世界に電撃が走る。首を反らせて大きく息を吐く。知らない感覚ではなかった。だが圧倒的に違った。痛みしかない。わずかに残っている現実味に繋ぎとめられる。 「野兎様っ、お許しくださっ!」  内部で曲げられた指が腸壁を押す。擽りながら、突き立てる。 「んあ、野兎様…」 「採寸を拒んだっつーことは、慣らしもなく突っ込まれる覚悟があるってことだ。分かってんのかよ?」 「はひ、っは、んあ…」  もう一本指が挿入される。身を捩って逃れようとするが茎を握っていた神楽常寺の手が容赦ない力で腰を掴む。二本の指が意固地なそこを割り開いていく。雪村の意思に関係なく神楽常寺の指に従ったり、背いたりしてそこは蠢いた。掻き回し、辿り、深く突く。ある一点を掠ると神楽常寺の指に情けなく頼ってしまう。知った感覚だ。けれど違う指使い。理性と感情と現実と夢想が一致しない。理解しようとすることを頭を締め付ける熱が許してはくれなかった。 「いやぁ、いや、神楽常寺様!お許しくださ、」  雪村が(かぶり)を振って、目を見開く。挑発的に片眉を上げた神楽常寺は雪村の体内から指を抜き、腰も放す。ドラマでよくある、銃を持った警官に指示された時のような格好で両手を上げた。雪村は跳び上がるように起き上がって、覚束ない足取りで焦りながらベッドから下り、扉へと急いだ。足が縺れて上手く歩けていない。 「あ…ああっ…どうか、御慈悲をッ」  雪村は転んだ。毛足の長い絨毯が衝撃を吸収したらしく、痛みはなさそうに思えた。神楽常寺はゆっくりと歩み寄る。 「峡多郎」  転んだまま立ち上がらず神楽常寺に戦慄く雪村の頭部を掴む。動けない雪村に神楽常寺は圧し掛かった。 「がっかりだ、峡多郎」  腰を掻き抱いて膝を着かせる。下半身を覆う寝間着を力ずくで摺り下げて、尻臀(しりたぶ)を開く。引き締まって形のいい柔肌に神楽常寺の手が減り込んだ。露わになった薄い色の粘膜を舐め上げる。 「お許しください、お許しくださ、神楽常寺様…っ」  舌先が粘膜を押し開き、雪村の身体は寒気で震えた。 「お前の声聞くだけでイきそうだわ」 「っ神楽常寺様ぁ…!」  雪村の絶叫じみた懇願に、静かな神楽常寺の呟きは紛れた。 「ああああっ、ぅぐ…っく…あっ…」  身体が真っ二つになった。そう思った。そうとしか思えない衝撃が走った。右手と左手は繋がっているだろうか。雪村は床に指を立てることしか出来ない。ぐらりぐらりと何重にもなっている視界がさらに割れていく。 「いや、っあ…ああ…」  忘れ去られた前に神楽常寺の手が回る。先端を揉みしだかれ、頂きを指の腹で抉られる。根本から擦り上げられて、前と後ろの感覚の差に神楽常寺に支えられていなければ床へ崩れ落ちてしまいそうだった。 「やめ、やめ…、てッ、あ、」  未馬様、未馬様ッ  初めて未馬と繋がったのは14の頃。丁寧に丁寧に解され、ゆっくりと焦らされながら貫かれた。いつもなら未馬のものと雪村自身のものを、雪村が上に覆いかぶさり擦り合わせていた。だから未馬を抱くものだとばかり思っていた。けれど未馬が瞳を妖しく潤ませながら迫ってきたときに、不思議と抱かれる側だというのを理解した。  初めてだと、つらいか?  つらそうな顔をしているのは未馬の方だった。汗ばんだ未馬の輪郭を撫で、身体が慣れるのを待つ。決定的な快感はなかったが、腹の奥から胸の深くから言いようのない幸福感に満たされた。もう二度とこの男を放せないのではないかと思った。  気持ちぃ、気持ちいい、です、未馬様…ッ  肉体的な快感はなかった。割り開かれる痛みと内臓が圧迫される息苦しさは誤魔化しきれない。だがそれでも精神的な苦痛はなかった。未馬の存在を強く感じて、少しずつ中和されていく。  峡多…!お前はオレだけの… 「峡ちゃん?」  扉がうるさいほど叩かれ、許可もなく開いた。窺うように籠原が入ってくる。息を呑み、ベッドではなく床で神楽常寺に下半身を支配されている雪村を見下ろす。 「峡ちゃん…」 「んっ…あっ、」  神楽常寺の半分を受け入れ、雪村は焦点が合わず安定しない目が籠原の足元を見つめている。 「ぅ、ぐ動かな…いでくだ…っ」  雪村の願いは聞き入れられず、神楽常寺のもう半分が雪村の中に埋め込まれていく。全て入ったものだと思っていた。長い圧迫感がまだ続く。切れた感覚はなかった。痛みと息苦しさはある。それよりも、強い罪悪感に眩暈がした。 「ごめ…んな…さい、ごめんなさい…」    峡多。未馬が微笑む。私服を着ている雪村の腕には沢山の菓子折りや荷物、花束が掛けられている。  すぐ会えるから。静かに耳元で未馬は言った。誰にも聞こえないように。密かな計画。2人で暮らす、そう決めた。  未馬様。見つめ合うだけで身体の芯が熱くなる。  煌もあいつも見送れないってさ。昨日の夜からずっと泣いていたのは知っている。疑似的な家族だった。だがこうして捨てることが出来てしまう程度の。  じゃあ、また。未馬の軽いキス。唇が溶けると思った。もっとほしい。これが最後ではないけれど、暫くは離ればなれなど。    「キス…してくだ…さ…」  浅い息をして、溢れる涙が止まらず顔を濡らす。霞んで幾重にもなっている視界が洗われたような気がしたが滲むだけだった。頭の内側から叩かれているような痛みがある。 「のんさん、なんで…」  咎める籠原に呼ばれ、神楽常寺は驚いた顔をした。居たのか、とばかりに大きく目を開き、雪村を一瞥する。峡多郎を押さえてくれ、と籠原の顰められた表情を気にすることもなく指示を出す。 「キ、スしてくださ…」  雪村の上体を起こし、雪村を挟んで神楽常寺と向かい合うような形で籠原は戸惑いながら指示に従った。神楽常寺が背を丸めて雪村の唇を塞ぐ。 「ん、っぐ、」  繋がりが深まり、肌蹴た雪村の腹が蠢いた。神楽常寺が雪村の萎えている茎を上下に擦る。 「きょうた」 「だめ、いや……、あ」  強い耳鳴りの中で誰かがずっと雪村を呼ぶ。離れていった温もりに背後から包まれている。 「きょうたっ」  求めていた声と体温がすぐ傍にある。切なく呼ばれ、力強く抱き締められ、受け止めたいと思った。 「ん、あっ…んあ、」  甘い声を漏らしはじめた雪村に、泣きそうになって目元を歪める籠原が咽ぶような息を吐く。耳を塞ぎたい現状に、けれど雪村の両腕を押さえているため叶わない状況に籠原は項垂れていた。 「っあ…!ああ、」  神楽常寺が動く。雪村の内部に浅く突き入れた。広い部屋の一部で3人の男が密集している。その滑稽さを誰も笑うものなどいない。 「んあっ、いい、だめぇ…ッ」  雪村が身体を震わせて藻掻く。押さえる籠原の力がさらに強まり、神楽常寺は雪村の腰を掴んで自身を打ち付けた。内壁全てが性感帯のようだった。どこを突かれても、離さないとそこが神楽常寺を追いかけ、絡み付く。 「そこ、いやっ、あんッ」  首を伸ばして、後ろへ倒れるように籠原の胸へ体重を掛ける。籠原は唇を噛んで雪村の肩に額を乗せるかのように項垂れたままだった。 「いいか?」 「あっ、あ…」  知っている感覚が沸き起こる。痛みが全て痺れへ変わり、苦しさが甘さへ変わっていく。脳味噌が溶ける。身体が溶ける。腰が砕けて、神楽常寺へ吸収される。けれどもう雪村の目は神楽常寺を映していられなかった。耳鳴りの奥、歪んだ視界、強く抱き締められた胸。現実に置いておけない相手に犯されている。 「だめ、イく…っああ、あああ…ッあっ」    バカじゃないんスか!?病人に何してんの?  柿沼が怒鳴っている。こういう風に怒るのか、と思った。けれど誰に。聴覚の次に開いた視覚の中で柿沼が額に触れた。包帯や布が巻かれた掌でも冷たさだけは伝わった。 「風邪薬飲むスよ。起き上がれるスか」  一瞬だけ、ばつの悪そうな籠原の顔が見えた。 「柿沼くん…っ」  柿沼の布団の上で寝ていたはずだ。その前に柿沼とうどんやそばの話をした。食事を取りに行った柿沼の背を見て、おそらく嫌な夢を見た。 「うどん、ごめんなさい…」 「ははっ、気にしてんスか。キョータロさんが心配することじゃないスよ。胃が荒れるかも知れないスけど、とりあえず薬飲んで」  背に腕を回され支えられる。身体が汗で蒸している。頭の内側から叩かれているような痛みと揺れる視界。口元に近付けられる薬包紙。谷折りにされ中心で粉末が輝いている。 「未馬様…」  密着した柿沼との身体。懐かしい香りは時を経ても消えてはいない。これが夢でもよいと雪村はさらに柿沼へ身を預ける。呟いた名は柿沼にしか聞こえないだろう。 「早く治すことっスよ」  肩を強く抱かれる。雨が降りはじめたのかと思った。一粒だけ。だがここは室内だ。 「解雇だ、柿沼」  神楽常寺が腕を組み、冷たく柿沼を見下ろしている。反応は雪村の方が早かった。 「お前はうちに要らない。峡多郎が命令を破ったのはお前の影響だな?秩序を乱すやつはうちに必要ない」  雪村は真上にある柿沼の顔を見た。柿沼は目尻に皺を寄せ、何事も聞いていなかったと言わんばかりに微笑みを返す。 「承知しました。キョータロさん、温かい物食べさせてもらうスよ。喉が痛かったらアイス食べるといいっス」  髪を撫でられる。穏やかな感触。柿沼とはもう会えなくなるのだろうか。 「荷物が纏まり次第出て行きます。キョータロさんのコト、頼みます」  大きく息を吐いて柿沼は雪村から離れていく。 「行かないで、ください」 「峡ちゃん」  柿沼が離れた途端に籠原が間髪入れずに雪村を包み込む。 「柿沼くん…!柿沼くっ…」 「神楽常寺様、お世話になりました」  雪村の声を無視し、柿沼は神楽常寺に頭を下げる。 「柿沼く…」 「峡ちゃん」  柿沼を追おうとする雪村を籠原が制止する。ぐらりぐらりと頭の中が揺れる。 「柿沼くん!柿沼く…、柿…」    廊下の窓から目を逸らしても見えてしまう庭園。芝が少しずつ伸びていく。いずれここに何かがあった跡は消える。鳥籠を模したオブジェも横倒しにされていたがいつの間にか撤去されていた。神楽常寺の部屋へ積み上げられた洗いたてのタオルを運んでいる途中だったことを思い出し雪村は止めてしまっていた足を動かす。 「ご苦労」   神楽常寺は雪村の顔を見ることもなくそう言った。脇に控えている籠原が申し訳なさそうに頭を下げる。何か言われることもなく退室を赦される。 一週間の療養で身体は楽になった。全てが夢だったと片付けるには足りない姿。確認するのが怖かった。お互い会わないだけ、忙しいから会えないだけ。まだ残っている、信じきれない期待。短い付き合いだったが不思議と気の許せる相手だった。今は何をしているのだろう。新しい職は見つかっただろうか。以前パーティーを台無しにした青年は、辞職した者は刺青を入れられると言っていたが、解雇でもそうなるのだろうか。  次にやることは大浴場の掃除だ。神楽常寺からまた性的な業務を下されるのではないかと思っていた。そろそろ飽きが来たのかもしれない。 「気になるなら行ってこいよ」  殺風景になった庭園をぼんやりと見つめる籠原に神楽常寺が顔を上げる。雑誌に載せるコラムの原稿の修正をしていたところだった。そわそわと籠原は視線を彷徨わせる。神楽常寺は一文に赤い線を引いている。 「いつも一人にしてくださいって言われてしまうので…」  端整ながらも(いか)つい顔が柔らかく崩れた。暗赤色のメタリックのヘッドギアが反射する。神楽常寺はペンを置いた。 「それを守ってるのか。かわいいな」  籠原は原稿を見下ろして、神楽常寺に話し掛けていいものかとまた落ち着きなく項を掻いたり、制服を気にしだしている。 「あ、の、あの、のんさん」 「なぁに」 「峡ちゃんのこと、あの、何ていうか…怒らないでください…」   神楽常寺は首を傾げた。話が読めない。促さなければ補足するつもりもないようだ。籠原なりの決心だったようで拳を強く握って唇を噛んでいる。 「…別に怒ってねぇ…けど?」 「で、も、でも、峡ちゃんのこと、お呼びにならないので…」  口ごもって大きな瞳が忙しない。人見知りの激しい大きな子どもだ。パーティーに連れて行った時も緊張のあまりちぐはぐなことを答えていた。 「ああ、そのことか」 「仕方ないんです、…峡ちゃんがああなるのは…」  太陽も負ける籠原の笑顔は曇ったまま。暫くは戻らないだろう。 「昔、お、れの他に教育係請け負ってる子がいて…」   その人物に雰囲気が似ているのだという。その頃のことに触れていいのかとわずかに籠原は躊躇っているようだった。 「覚えてる」  随分と昔の話を掘り起こしてくるものだと神楽常寺は思った。籠原はどの程度覚えているのだろう。まだ兄の未馬が家督を継ぐのだと信じて疑わなかった時期。 「…ッ」  顔をくしゃっと歪ませ始める籠原を見て神楽常寺は小さく溜息を吐く。 「煌、あまりあの時のことは…」  思い出すな。籠原の情緒不安定な時期でもあった。そして神楽常寺もまた環境の急な変化に心身共に不安定な時期だった。 「…はい」  ヘッドギアが日光を反射させ、網膜を刺す。 「あの子も兄ぴっぴも死んだろ」  言い聞かせてみて、そうして神楽常寺は俯いた。籠原を手に入れた矢先。目の前で2人は焼かれて死んでいった。 「…はい」  こくりと小さく籠原が頷くとヘッドギアが微かに軋んだ。口元をもごもご動かして忙しない様子だ。ペンを置いて籠原を手招きする。籠原は眉を下げて神楽常寺の前に跪く。それから倒れ込むように神楽常寺の膝に頭を寄せた。 「のんさん…」  片手で原稿に目を通し、ペンを置いた手で籠原の髪を撫でる。刈り上げた側頭部が伸びかけている。セットしていない時は隠れてしまうその部分が短毛種の猫を思わせた。 「煌はいい子」  柔らかく掻くように頭を掌に這わせ、神楽常寺はそう何度か繰り返す。 「煌はいい子…」  籠原も目を閉じて復唱する。ヘッドギアが神楽常寺の脚を圧迫する。 「峡多郎も分かってくれるだろうよ」  瞼の裏に焼き付いたままの燃え盛った神楽常寺邸。未馬の部屋。ほぼ自室ともいえた。思い出の詰まった場所。新しい主の元で主を失って、けれどそれよりももっと大事な人と離れてしまった。 「峡ちゃん…」  神楽常寺に喰われて喘ぐ雪村の姿を思い出して、胸が痛くなった。ヘッドギアの挿さった左耳の奥からびりびりと電流が走る。眼球を固定され、思考が停止する。両耳が音を遮断し、神楽常寺の膝に涙が滴った。 「煌、余計なこと考えんな」 「…はい」  神楽常寺が背を丸めて籠原の額に唇を落とす。  夢ではなかったのだと気付いたのは大浴場のタイルを磨いているときだった。腕に残る痣。強く浮かぶ4本の指がまだ雪村の両腕を強く掴んでいる。夢だったはずだ。だから未馬に抱かれていた。痛む腰は熱のせいだったはずだ。後ろの異物感もおそらくは座薬の類だと。言い聞かせてみる。だが少しずつ脳が要らない証拠を寄せ集めてしまう。神楽常寺の縋るような顔、迫った声、熱っぽい指。籠原の非難めいた目、固い胸、力強い腕。現実かも知れないと思いはじめれば、一気に生々しさが増す。 大浴場の清掃班は雑談に花を咲かせていた。時折雪村も話を振られる。いつ頃から働きはじめたのか、ここに来る前は何をしていたのか。何を目的にここに来たのか。全て愛想笑いを浮かべ適当に受け流して雪村はひとり、他の者たちから離れて作業を続けた。気さくで明るい者が多かった。 「峡ちゃん!」  大浴場に籠原の声が響く。周りの者たちがざわめいた。タイルを磨く手に集中する。毎日手の込んだ清掃のためか目に付く汚れはほぼない。籠原さんだ、煌さんだ、と小さく聞こえ、意外な人気を垣間見る。 「峡ちゃん」  磨いていたタイルが陰る。長い脚が折り曲げられ、膝に長い腕が巻かれる様をゆっくり顔を上げながら眺めた。捲られた裾から伸びる細い足首には薄れた痣や傷が浮かんでいる。 「少しお話をさせてください…のんさんに許可はもらっていますので…」  不安で大きく揺れ光るガラス玉。雪村の返答をじっと待っている。雪村から話すことはない。わずかにでも話すことのあった者は目の前でお払い箱になった。神楽常寺邸にはもういない。 「峡ちゃん?」 「…分かりました。少々お待ちください」  断って神楽常寺に難癖をつけられるのは御免だと雪村は渋々立ち上がる。清掃班の監督に一言残して、貸し出されていた防水エプロンと防水スリッパを外す。  籠原がフォークを置く。雪村は黙って紅茶を一口飲んだ。女性たちの話し声ばかりが聞こえる。控えめなBGMはあまりよく聞き取れない。店内アナウンスが流れて新しいスイーツが入ったことを報せた。話がある、というから出てみれば籠原は間を持たせるかのようにサイドメニューを立て続けに頼んでは、たいらげていく。オムライスやサンドウィッチ、エッグベネディクトなどばかりがテーブルに並べられ、ここでのメインとなるスイーツにはあまり関心が無いようだった。カップルであれば男性はいたが、男2人という組み合わせは籠原と雪村だけだ。  雪村の方から話を促す気は起きなかった。窓際の席で籠原の顔に日光が濃い影を落とす。この男と来るはずではなかった。目の前でドリアが食べ終えられるのを興味もなく見ていた。話があると誘い出したのは籠原だが、一向に話を始める気配がない。それどころか籠原は雪村の目を見ようとはしない。何故誘ったのだろう。この場所が気に入らなかったのかもしれない。  スイーツバイキング。目の前で解雇された友人が誘ったところ。未馬と初めて入った店。甘い物が特別好きというわけではない。ただ雰囲気が気に入った。 「峡ちゃん」  皿の端によけたミニトマトを食べてからやっと籠原は雪村を見た。 「はい」  温くなった紅茶。味はあまりしない。気の抜けた声は空返事のようだった。空いた食器を重ねて窓の外を見つめる横顔に外の商店街を歩く人々の陰が重なる。 「何か飲みますか」  空になった紅茶のカップを見て籠原はメニュー表を開く。本題に入るのかと思ったが違うらしい。 「いいえ、結構です」  断れば籠原はメニュー表を閉じる。姿勢を正して真っ直ぐ雪村に向き合った。 「未馬様の夢を見るんです」  何かしていないと気が済まないのか紙ナプキンで口元を拭きながら話をはじめる。 「…そう、ですか」  その名を出していいものなのか。時代はすでに神楽常寺野兎だ。籠原は人生の全てを神楽常寺邸内で過ごしているから、世間を知らないのだ。 「峡ちゃんを返せって、怒ってて…」  それが籠原のしたかった話なのだとしたら、夢に意味などない。あるとするのなら籠原の中の問題で、雪村には関係がない。そうは思ったが黙って聞いていた。 「峡ちゃんが戻ってきてくれて、すごく嬉しかったんですけど、で、も、」  それは何度も何度も聞いている。疑ってなどいない。だからこそ雪村には重かった。 「この前の…このままのんさんのところにいるのは、よくないのかもって、思って…」  何かが震えるような微かな音がした。びりびり、と静電気で知る音。籠原が短く呻いて左耳の機器の上から頭を押さえ、大きく顔を歪めた。様子が変だ。 「峡ちゃん、お、れは…」  小さかった静電気程度の音が断続的に聞こえ、大きさを増す。 「未馬様に、」  状況が飲み込めず雪村は籠原を見ているだけしかできなかった。電流の音と頭を押さえ痛がるくせ、左耳の機器を外そうとはしない。 氷が溶けた水を籠原に差し出す。 「未馬様はお隠れになりました。夢は夢です」  「お隠れに…?」 「亡くなりました」  神楽常寺邸の者どころか、世間の知っていることだ。籠原は頭に手を当てたまま姿勢を正す。電流の音はしなくなっていた。隣の席の若い女性たちが心配そうな表情で雪村と籠原のテーブルを見ていた。 「鼻血、出てます」  紙ナプキンを取ろうとする籠原よりも先に支給品のハンカチを差し出す。紙ナプキンでは固いだろう。雪村がそうするとは思わなかったらしく、大きな目を見開くだけで、受け取ろうとしない。 「支給品ですので」  支給品にするにはあまりにも質がよい、真っ白いハンカチ。家紋とは違う神楽常寺野兎を表すロゴが金の刺繍で入っている。籠原が手を伸ばす。骨ばった指が震えながら掴んだ。触れ合ってしまった手はお互いに冷たかった。真っ白い生地に籠原の血が染みていく様をぼうっと見つめていると、すみません、と籠原が小さく謝って静かに震えている業務用の携帯電話を制服のポケットから引っ張り出す。片手で鼻を押さえながら通話に出る。どこか身体が悪いのなら神楽常寺がケアをするだろう。籠原は神楽常寺の一番のお気に入りだ。本人にその気さえあるのなら神楽常寺を利用しこの国を牛耳ることだって出来るだろう。  大丈夫です、もう少しだけ…、すみません、同じ単語を繰り返す籠原を横目に雪村は席を立つ。男子トイレは入口からして女子トイレよりも小規模だった。薄いブルーのタイルの空間へ足を踏み入れ、洗面台の前に立つ。未馬は死んだ。自身の口から言ったことだ。  未馬の指が雪村の胸の中心を上りながらなぞっていく。濡れた軌跡が雪村の胸元を光らせた。鎖骨をなぞり、喉仏をなぞり、顎をなぞり、下唇で止まる。  未馬は薄暗い場所をよく好んだ。この日も照明はなく、月の柔らかい光に包まれていた。珍しく感情の制御が利かない未馬が飾られていた薔薇の浮かぶ水槽を倒し、破壊した。強化ガラスではない見た目の美しさにこだわった一級品のガラス細工が簡単に割れていく。繊細な破片が、片付けようとする雪村の指を復讐のように刺した。人差し指の腹に小さな薔薇が浮かぶ。屈んだままじっと指を見つめる雪村の前に未馬が屈み、雪村の肌蹴たシャツの合間に手を伸ばす。黙って、神妙な面持ちで。  唇まで辿り着いた指がゆっくりと雪村の頬へ掌を這わせていく。瞬間、未馬が噛み付く勢いで唇を塞いだ。抱き寄せられ、未馬は薄いガラスの散らばる床へ膝を着く。思考は段々と掠め取られ、身体は熱かった。胸元、首元に薔薇の痕を残され、解放される。  雪村の部署の上司が雪村に気安く触れる様を見ているのが我慢ならなかったと伝えられ、再び唇を奪われ、その夜はずっと2人そうしていた。  あの部屋はもう、きっと黒く焼け焦げているのだろう。  籠原の話は終わっただろうか。手を洗い、テーブルへ戻りながらバイキング形式のテーブルからチョコレートケーキを2人分持って行った。 「ごめんなさい、峡ちゃん」 「いいえ」  籠原の前にチョコレートケーキを置くと目を丸くされる。ガラス玉がきらりと大きく光った。泣きそうに一度だけ大きく眉間を寄せ、我慢できたのか唇を噛んで表情を戻す。 「スイーツバイキングなのに甘い物、食べていませんでしたね」  パーティーで食べた甘みの少ないチョコレートケーキとは正反対の、甘いだけのケーキ。籠原は沈んだ表情を一瞬見せたが、フォークを手に取り、雪村を見て大きく笑った。

ともだちにシェアしよう!