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リップレ 没
――きらりんってキス上手いらしいよ。
櫻岬 紅 は通称べいべと呼ばれて親しまれている。ゲームに負けた罰ゲームが、教室の隅で陰気な雰囲気の人物に愛の告白をするというありがちで陰湿なものだから辟易した。話したこともなければ何か恨みがあるわけでもない。罰ゲームの存在、否、内容を前もって知っていたならば乗らなかっただろう。そういいながら、勝ちを確信していたのかも知れない。ツーショットまで撮ってこいと冷やかされた有様である。出来るだけ2人きりになれるように取り計らったつもりが、呼び出した場所の直前ですれ違ったのだ。
「きらりんってキス上手いらしいよ。させてもらったら?」
振り返ったときに見えたのは爽やかな笑みとさらさらの髪だった。背が高い。顔立ちを吟味する前に見えなくなった。心地良く入った声からして想像されるのはなかなかに男前な容姿だった。しかし何より驚いたのは、これから"きらりん"基 吉良川 ちひろ に会いに行くことを知っていたことだ。驚きの反動は苛立ちに変わる。「させてもらったら」の一言が突然薄汚いものに感じられ、内心で悪態を吐いた。呼び出した部屋のドアを開ける。空き教室の席に吉良川は座っている。細いフレームの眼鏡がまず目に入る。綺麗に梳かした黒髪を後ろに撫で上げて晒された形の良い額は知的な印象を与えた。クリーム色のカーテンが日差しで光り、華奢な影絵を作っている。彼は線が細く見えた。櫻岬の入室とともに、吉良川は目を丸くした。女に書かせた丸い文字にピンクの便箋、赤いハート型の留めシールは櫻岬から見ても送り主は女性を思わせた。そしてそれをロッカーに貼ったのだ。通った者ならば目にしただろう。
「あ~、えっとさ、きらりんって、お前?」
いつも1人、友達のいる様子はなく、神経質げに眉を寄せ、生真面目な身形の相手にこの態度は馴れ馴れしかったかも知れない。確認せずとも彼が吉良川であることを櫻岬は知っている。案の定、吉良川は険悪な表情を浮かべた。
「あ、オレ、櫻岬紅。みんなから、べいべって呼ばれてんだけど……」
「知らない」
ぴしゃりと跳ね除けられ、櫻岬は言葉が続かなかった。見た目も悪くなく、始終緩んだ顔をして、とりあえずあらゆることに同調してきた櫻岬は人からそう無下にされたことがない。
「でもここにいるってことは手紙、読んでくれたんだよな」
すると吉良川の顔は真っ赤に染まった。
「なんとなく想像ついてると思うんだけどさ、その……つまり、ずっと好きでした。オレと付き合ってください」
言うだけのことは言ったのである。あとは野となれ山となれ。罰ゲームは果たした。無理だ、最低だ、断ると返ってきて、この話は終わる。多少の気拙さ、後味の悪さはあれども関わらない人物なのだから今後のキャンパス生活に支障はない。
「……断る」
予想どおりの返答に安堵した。緊張していた櫻岬の表情に緩んだ笑みが戻る。相手は鼻を鳴らした。彼もこの告白がどういう経緯のものか理解したらしい。
「最低だな」
「ゴメンな。罰ゲームでさ。それに付き合わせちって。なんか期待させてたら、ホントゴメン」
櫻岬は染めたばかりの傷んだ髪を掻いた。
「用が済んだならさっさと消えろ」
なんだコイツ、と櫻岬は吐き出してかけて呑み込んだ。怒られても文句は言えない立場として、この場に臨んだのだ。
「二度とそのツラを見せるな」
だが黙っていることで調子に乗っているのか悪辣な言葉が積まれていく。櫻岬は努めて笑顔を繕った。あたかも女子が送ったような文を誰も彼もが目にするロッカーに貼り、ここに呼び出した挙句罰ゲームだと暴露してしまった。それも色恋に免疫の無さそうな生真面目な男子学生相手に。反撃する立場にない。しかし黙っても居られなかった。
「でもきらりん、キス上手いらしいじゃん?」
まったく信憑性のない情報だ。あの天啓のような一言は何だったのだろう。
「……は?」
馴れ馴れしく呼んだことも気にせず、"きらりん"は顔を顰めた。相手を不快にさせたなら勝ちなのである。すでに一度、先手を以って不快にしていたことなど気付かずに。今度こそは故意的に不愉快にさせて溜飲を下げなければ、櫻岬のような凡俗は満足しない。
「ははっ!試しにしてみようよ、キス」
もちろん冗談だ。誰が好き好んで陰気な堅物眼鏡と接吻をしたがるのだろう。
「上手いんでしょ?そう聞いたんだけど」
「誰から」
「知らない。さっきすれ違った人。お堅そうなカオして、やることやってんじゃん。女の子に相手されないから?だから男同士でチュッチュしてんの?」
語調はあくまでも穏やかに、悪意を押し殺し、表情も柔らかな笑みは忘れない。
「……別に、違う」
「いいじゃん、楽しそうじゃん」
「うん。楽しいよ?だからしてあげなよ、きらりん」
第三者の声が割り込んだ。吉良川のほうは櫻岬ほど驚いた様子がないものの、2人の視線は一斉に同じところに集まる。その者は、ここに来る前に妙なことを吹き込んだ本人だ。さらさらの髪に爽やかな笑みを湛えている。清らかな美青年で健やかな色の白さは大福アイスのようだ。
「誰?」
「きらりんの友達です。ね、きらりん」
「……違う」
「違うってさ」
突如現れた第三者は吉良川の反応に髪同様色素の薄い大きな目を丸くした。
「あれ。なんでそういうコト言うのかな」
彼は吉良川の傍に寄って、構図は2対1となる。櫻岬は2人のどちらを見ていいのか分からずきょろきよろした。
「友達では、ないだろう……友達では…………」
「キスはするじゃん。でも恋人じゃないよね?じゃあ友達じゃないの?」
「友達は、キス……しないだろう」
櫻岬の前で交わされる会話は疑問符ばかりだ。友達だの恋人だのキスだのと決まった単語が往復する。
「友達じゃねぇのかよ」
「ボクは友達だと思ったんだケド、きらりんは違うって」
「友達なら、キスはしない……」
ひとつ分かったことがある。吉良川は謎の第三者に近付かれた時から頻りに口元を隠そうとして、またこ謎の第三者はやたらと吉良川に対して物理的な距離が近い。隙あらば何か頭突きや悪戯でもしかねない近さなのだ。
「付き合ってんの?」
そういう距離感なのである。異性間でしか成立しない目交いは、男同士で行えば威嚇になりかねない。
「でもきらりん、好きな子いるよネ」
マイペースな乱入者に吉良川も櫻岬も呑まれていく。
「なんで、それ……っ」
押され気味の吉良川の口元を覆った手に、とうとう乱入者は唇を当てた。
「見てれば分かるよ。誰かまでは分からないから安心して?」
すでに2人だけの世界が構築されていた。常に話題の中心、話の起こり、グループの核にいた櫻岬には慣れない排除である。
「あ、ごめんごめん、仲間はずれにしちゃって」
「別に仲間じゃないデスケド」
吉良川を独り占めしていたマイペース男が櫻岬を向いて手招きする。
「君も微妙な関係になろ?フられたんだろ?」
「フられたっていうか……」
罰ゲームなのだ。しかし何か、この男には罰ゲームで無関係な人に告白をせねばならなかったということを言えなかった。矜持と外聞が邪魔をする。
「結構カッコいいのに、きらりん、フっちゃったんだ」
「性格が悪過ぎる。最低のクズだ」
「何かされたの?」
吉良川は黙って俯いた。まるで保護者面の背の高い色白の男子学生はにこりと微笑む。
「きらりんってキス上手いんだよ。させてもらったら」
「おい」
「ヤだよ。なんでこんなやつとキスしなきゃなんないんだよ」
「でもさっきしたそうだったじゃん。忘れちゃったなら録音あるケド、聞く?」
朗らかな顔をしてまったくこの場に関係ないはずの男は恐ろしいことをさらりと言った。
「一旦録音止めなきゃなんないからこっちもヤなんだけど」
「録ってたのかよ」
「だってお前等、きらりんで遊ぼうとしたでしょ。サイッテーだからこっちも遊んでやろうと思って」
吉良川を腕に収め、櫻岬に背を向ける。その様は敵から大切なものを守ろうとしているかのようだった。加害者意識を煽られる。
「別にそこまでしなくていい。放せ。アンタも、二度と俺の前に出てくるな。それでお終いだ。とっとと失せろ」
それから吉良川はもう櫻岬のほうを見ようとはしなかった。反して色白長身の謎の第三者は櫻岬を挑戦的なほど無邪気な顔をして見ていた。ゲームに負け罰ゲームによって好きでもない相手に手を込んだことをしただけではなく返り討ちに遭う。あんまりだ。櫻岬は激しい鬱憤を抱え、尻尾を巻いて逃げようとした。
「待ちなよ。それじゃ、ボクがはったりかましたみたいじゃん。ホントにきらりんの唇は角度も湿り気も弾力も一級だから、試してみてよ。っていうか証明して。気持ちいいから」
楚々とした美青年の目は熱を帯びていた。頭のおかしなタイプなのかも知れない。今まで初対面の相手に飲みの席でもなくキスを強く勧められたことはない。仲間内の残酷な冷やかしでもなく、多少キャンパスや大講義室で視界に入れたかどうかという程度の面識で名も知らないのだ。
「きらりん、できるよね?」
彼はすでに吉良川を背後から締め上げていた。背が高いだけ手も大きく、吉良川の細い頤を固定するばかりか余った指で冷淡な印象を与える薄い唇を弾いている。
「ほら、キスして。絶対気持ちいいから。保証する。命賭ける」
「頭おかしいんじゃないの、お宅」
ハーネスの如く胸元を押さえていた腕がキスに邪魔な眼鏡を取り払っていく。レンズを隔てなくなると薄い二重瞼とその下の切れの長い涼しげな目が微かに拡大された。すとんと通った鼻梁とシャープな鼻先など、鋭利な美しさをしている。気付いてはいけないものを見つけてしまった心地がした。
「命賭けるって言われてキス気持ち良くなかったらどうすんの?」
「死ぬしかないよね、命賭けたんだから」
「それ、オレ犯罪になるんじゃない?賭博罪だか自殺教唆か分かんないけど」
吉良川は抵抗を示さない。レンズを失い視界が利かないのか目を細めている。
「ほら、キスして。口唇ヘルペスないからうつらないよ」
「きらりんが可哀想だろ」
「きらりんで遊んでたクセによく言うよ」
「なんでオレとそんなにキスさせたいんだ」
乱入するどころか吉良川を押し除け、完全にこの場の主導権を握った長身は、その口元に意味深長な笑みを浮かべた。目は爛々と照っている。櫻岬は変質者を知らないが、形容するならば、変質者の眼光だろう。いやらしく粘こい。
「ボクのきらりんの唇が、君みたいなチャラチャラしたふざけた野郎に蹂躙されたら興奮するから」
視力矯正器具を失い何度も目を細めている吉良川の唇と唇の狭間に長い指が入っていく。
「ふざけんな」
指先が潤いを連れ、吉良川の唇をなぞる。
「早くキスして。それで録音消してあげる。罰ゲーム告白なんていじめはなかった。ガチ告白のガチ失恋ってことにしてもいいケド。こんなの君等のお仲間じゃフツーでも、ネットに上げたら正義マンたちが黙ってないよ。君ってSNSとか本名も顔写真も晒してそうだし、特定なんか秒でされちゃうだろうな。それはそれで面白そう。君に恨みも何もなくて、ただ同じ高校だった中学だったってだけで情報晒しちゃう人なんて沢山いるんだから」
「いやいや、オレそんな重罪犯してないでしょ」
「どうかな。まずはバズ狙いで試しにいっとく?」
頭のおかしい相手の自信満々な姿に櫻岬は尻込みした。脅迫されていることは分かったが、それは脅迫として中身を伴うのかが櫻岬には断じかねている。
「面倒臭ぇな!チュウすりゃいんだろ」
「や、め……ッ」
勢いに任せて吉良川の唇を奪った。半分、そこにあった指に当たってしまう。大した感触はない。キスにそこまでこだわるほどの純情はなく、これという感慨も特になかった。
【没】
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