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トライアンダーグラウンド

 背中の傷が強く痛んだのか、青年の目が覚める。屋主・久我がコーヒーとトーストを近くに置くと腹の音が小さく聞こえた。目の前に広がる白い海に横たわる様はヴィーナスの名画にも似ていた。だがあれは仰向けで、この青年は仰向けに出来ないためうつ伏せだ。久我はコーヒーをマドラーで掻き混ぜながら声を掛けた。 「大丈夫かぁい?」  ベッドが軋む。身体を起こそうとしたため久我は制する。青年の頬をシーツに当て焦げ茶にちかい自然な黒髪が艶やかに照る。 「誰…?」 「うん。誰かと問われると困るね~。そうだな、このホテルの王子様っていえばボクなんだけど…」  呼吸のたびに乱雑に包帯が巻かれた背が浮き沈みする。事情がありそうで医者には連れて行っていない。 「王子様…?」  時折青年は眉根を寄せた。 「君は?…まさかとは思うけど堅気じゃないとか?」  市販の軟膏を塗りたくりガーゼを当て、包帯を巻いておいたが包帯は緩み、弛んでいる。 「…普通の、大学生…だと思う」  青年は痛みに顔を痙攣(ひきつ)らせる。 「なぁんだ、ビックリしちゃったよ。保険証も持ってないし、なんかヤバそうだったからここに連れ込んじゃったけど病院連れて行っちゃうのもアリだったかな。でも保険証ないと金額ばかにならないし」 「…」  うつ伏せのままの青年の表情が曇った。シーツに少し皺が寄る。久我はその様子を見て片眉を上げた。 「詳しいことは聞かないよ。君の名前も聞かないことにする。詮索はしない」  久我が青年の横たわるベッドの奥の大窓を眺める。青年も首を回して同じ方向を見る。高層ビルが並び建っている。蟻のように小さい車。 「ここはホテルなのか…」 「そ、エンペラーホテル」  青年は痛みに呻きながら起き上がる。ベッドに腰掛けた。乱れた包帯がさらに弛み、翻る。華奢だと思っていたが引き締まった肩や腕の筋肉は健康的ではあるが赤い痕がいくつも走っている。蚯蚓腫(みみずば)れや痣がある。見ていられなくなり、久我はパーカーを肩から羽織らせた。 「…まずは、ありがとうと言うべきか…」 「まぁ、人間の世界は基本的に困った時はお互い様であるべきだからね。気にしなくていいよ。それより行くアテはあるのかい」  青年は俯いて、首を振る。 「なら暫くここにいたらいいよ。雨露(うろ)はしのげるし」 「しかし…」  外見は今風で軟派ささえ微かに感じるがどこか固い雰囲気がある青年だと久我は思った。 「あ~んな治安の悪い公園に深夜に寝転がってたの見つけた時から、ある程度の面倒は覚悟してたから」  久我は表情を緩める。青年は少し困った表情をしたが小さく頷く。青年を見つけたのは、今の天気からは想像もつかない昨夜の大雨の中。久我が休憩しに行く大きな公園の屋根もないベンチの元に倒れていた。久我は雨天に関わらず屋根のあるベンチで酒を飲むのが好きだったが昨夜はそういった経緯で酒は飲めなかった。 「…世話になる。…掃除でも料理でも洗濯でも、やらせていただこう」 「いいよぉ。まだ痛いでしょ、背中」  久我は散らかった物を器用に避けて冷蔵庫に向かう。部屋自体は広いがまるでアパート扱いしているため大型のキャリーバッグや大型バッグが乱雑に置かれているため場所を大幅に取っていた。備え付けのクロゼットは開けっ放しで扉にタオルが掛かっている。青年の目がそういった物を眺めているのも気にせず久我は冷蔵庫からスポーツ飲料を出す。ペットボトルを開け、ストローを挿す。 「寝汗ひどかったからね。脱水症状になる前に」  青年はちらりと久我を見上げて、おとなしくストローを口に運ぶ。それからトーストを差し出す。コーヒーを飲むかと訊ねると断られた。青年はトーストを齧った。腹が減っていたらしい。家出少年というには大人だが久我からすれば大学生はまだ子どもだ。とはいえ数歳ほどの差しかないだろう。 「とりあえず3000円渡しておくから。帰るアテがあるなら使うといいよ」  久我は紙幣を3枚置いておく。青年が唇を噛む。 「ケータイも持ってない、財布も持ってない…じゃ不便でしょ」  久我は財布を雑にハンガーに掛けてあるジャケットにしまった。青年は小さく、すまない、と言った。 「ボクは仕事があるから。17時(ごじ)頃帰るけど、もし出て行くなら鍵、掛けなくていいよ」  久我は適当に着替えて出て行った。 「お…、おかえり、なさいませ」  油の切れたブリキのように固く上体を下げ、腕を前にした青年に久我は面食らう。まるで執事のような体勢だったが、顔が痛みに歪む。 「た、ただいま」  返事は"ただいま"で合っているのか分からなかった。慣れない。ジャケットを脱がせようとして肩を上げるがまた眉間に皺が寄る。まるで新婚のようではあるが相手は怪我人だ。 「寝ていていいって。ご飯買ってくるから」  青年の肩を柔らかく抱いてベッドへ促す。 「すまない」 「いいから。薬局も寄るから遅くなる」  青年の少し赤みのある顔を一瞥する。まだ咳の様子はないが熱は少しあるようだ。今朝はまだ血色が良くなかった。明日には寝込むかも知れない。いつもならばホテルのデリバリーだったが暫くはそうもいかないかも知れない。何か栄養のある物を食べさせなくてはならないだろう。エンペラーホテルの近くの薬局で風邪薬と滋養強壮剤、歯ブラシなどを買ってスーパーで適当な惣菜や食材を買う。帰宅を待つ者がいて、その者のために買い物をする。妙な感覚だった。部屋の扉を開ける。電気が点いている。ベッドに上体を預け、俯せで眠る姿。背中に広範囲の傷があるため姿勢が限られてしまう。緩んだ包帯が外れてテープを付けたまま垂れている。晒された素肌に走る傷。久我は軽いタオルを広げて肩に掛ける。ベッドの上には雑に干しておいたタオルやシャツやパーカー、カーゴパンツが丁寧に畳まれている。久我は窓際に置かれた 半分に減ったスポーツ飲料を取ってシンクに捨てる。新しいスポーツ飲料を冷蔵庫にしまい、惣菜もしまう。寝息を立てる姿は昨夜とは違う。昨夜は死んでいるようで、不気味だった。身体を拭いて傷に塗った柔らかい軟膏の匂いがとても不愉快なものに思えた。冷蔵庫が開きっぱなしのアラームを鳴らし、慌てて冷蔵庫を閉じ、米を研いで炊飯器のスイッチを入れる。 「少年くん」  青年の寝顔に吸い寄せられる。白い肌。自然な黒髪。伏せられた長い睫毛。きらりと光り、米研ぎで冷たくなった指を睫毛に寄せた。濡れている。安らかに眠っているが、やはり何かあるようだ。軟膏の匂いがする。  ごほっ、っかは、ごふ、  青年の身体が小さく跳ねた。喉に引っ掛かるような咳。昨夜は熱いタオルで拭いただけのため今日こそは風呂に入れたかったがこの調子では無理かも知れない。どうするかな、と久我は部屋を見渡していると、青年はもぞもぞと動き出す。 「…、すまない、寝ていた」 「風呂入る?温くしておくから」  雨に打たれ、屋外で寝転び、傷にはあまり触れないよう処置したためあまり清潔な状態ではない。青年は頷いた。  あまり意味のない包帯を外し、体液と軟膏で汚れたガーゼを捨てる。露わになった傷口に久我は顔を顰めてしまう。鏡越しにそれが分かったのか青年は小さく謝った。赤く盛り上がり荒れた皮膚。ひどい部分はまるで深く血が滲む。大きな蚯蚓腫(みみずば)れが縦横無尽に肌に這う。腰にまで届いていた。何も訊かない、詮索しないと言ってしまっていたため、これがどのように出来た傷なのかも訊かなかった。 「背中だけ流すよ。あまり傷口が綺麗な状態じゃないんだ」  湯を沸かしながら水で薄めた微温湯(ぬるまゆ)をゆっくり背にかける。青年は歯を食いしばって痛みに耐える。軟膏を柔らかいタオルを濡らして優しく拭き取っていく。前面を洗う青年の手が止まる。 「ッ…」 「沁みる?」 「…、大丈夫だ…」  青年は話すのも長い息を吐く。軟膏が落ちると、バスタブに青年を入れ、頭を突き出させ、髪を洗う。背を丸めると傷が痛むようだった。シャワーの音に混じる、嗚咽。聞き間違いだと思った。そして聞き間違いにした。乱暴だったのかも知れない。矜持を傷付けたのかも知れない。久我は気付かないふりをした。洗剤の落ちきった濡れた髪にタオルを当て、久我は浴室を後にする。青年が出てくるまでPCと睨めっこしていた。マウスがカチカチと鳴り響く。 「風呂…ありがとう」  青年は久我から借りた部屋着の下だけを履いて出てきた。 「じゃあ薬塗るね」  作業を中断して久我は手を洗った。久我に背を向ける青年はくしゃみをした。タオルで背を伝う水滴を拭い、市販の軟膏を塗り広げる。傷に触れると青年は痛みに喘ぐ。新しいガーゼを当て包帯を巻く。全く上手くいかないがテープで留めた。 「ありがとう」  こほこほと咳をしはじめた青年。久我は救急箱から体温計を差し出す。青年は黙って体温計を腋に挟む。 「今ご飯作るからさ」  鍋に煮直すだけのポトフを開けた。調理器具を使うのはいつぶりだろうか。長らく荷物置き場と化していた。キッチン付きホテルはエンペラーホテルに必要ないという言い争いを耳にしたのは随分と昔のことだ。コンソメの香りが部屋に広がる。ピピッと音がして体温を訊けば38℃だという。明日は仕事は休みだろうか。 「 何から何まで、本当に…」 「いいっていいって。病人はおとなしくしていなさいな」  炊飯器が米を炊けたことを伝える。冷蔵庫の中のとんかつを皿に移して電子レンジに入れた。カットキャベツを均等に2枚の皿に乗せ、ミニトマトを添える。簡単だが慣れない作業だ。青年はタオルに(くる)まっている。寒いのかも知れない。  青年は食後薬を飲んで歯を磨かせるとすぐに寝てしまった。久我は食器を洗いながら、何をしているんだろうとこれが現実なのか疑った。いつもより早めに照明を落とし、PCをいじってから風呂に入り、荷物置き場になっているソファのクッションを青年が横になるベッドに投げてそこで寝た。  肩が圧迫され目が覚める。短いがよく眠れた気がした。久我はタッパーに詰め込んだ米を、懸賞で当たったきり放置していた土鍋を簡単に洗って、水を入れてから放り入れ加熱する。あくびをしながら昨晩久我がベッドに投げたソファのクッションを抱く青年が眠っている。土鍋の蓋をして、青年の元へ向かい額に手を当てる。汗ばんでいる。風邪ではなく傷が原因なら病院に連れて行ったほうがいいのかも知れない。頬や首に触れると青年の双眸が開いた。目を大きく見開いて、何か失態を犯したかのような顔をした。 「…っ、す、すまない、今起きる…っ」  起き上がろうとした青年の肩をベッドに押し付ける。 「大丈夫だって。今お粥作ってるから」  青年の頬は熱い。前髪を乱して手の甲を額に当てる。 「…、」  久我は救急箱から熱冷ましジェルシートを出して青年の額に貼り付ける。 「すま…ない、」 「はいはい」  土鍋の蓋が久我を呼ぶ。軽くぺちぺちと青年の額をジェルシート越しに叩いて土鍋に向かう。茶碗に少量盛ってスプーンを差す。薄塩味の梅干しを入れて青年の元へ持っていく。 「少年、お粥だよ。梅干しは嫌いかなぁ?でも食べてね」  青年は怠そうに身体を起こす。クッションを抱き締めて、熱に浮かされているのか茶碗を見つめる。 「仕方ないなぁ」  スプーンで梅干しを切って粥とともに冷ましてから口に運ぶ。青年は無防備に口を開けた。よく噛まず飲み込む様を見て粥にして正解だったと思いながら梅干しと粥をスプーンに乗せ、冷ましては青年の口に運んでいく。自分はこのように世話好きだっただろうか。2杯目を訊けば首を振られ、食器を片付けてから白湯と風邪薬を青年の前に置く。 「…、記憶がない」 「結構熱が高いからね」  青年が首を振る。酔っちゃうよ、とやめさせる。 「…記憶が、ない」 「はいはい。寝ましょうね~。それとも、アイス食べる?」  青年は要らない、と小さく呟いた。 「本当だ…自分が何者なのかも、おれは…」  久我が青年を寝かせようとするが、青年は抵抗して喚く。 「ちょ、っと…!」  青年は久我を捕らえ背中からベッドに倒れ込むと痛みに悶える。 「あ~もぉしっかりしてよ」  青年は横を向いて痛みに耐える。久我はベッドに打ちつけた鼻を摩る。寝ぐずを宥めるには図体が大きい。熱い息が掛かる。 「寂しいの?」  からかい半分に訊ねれば予想外に素直に青年は小さく頷いた。頷きではないのかも知れないと疑った。擽ったい。ベッドに腕をついて腰掛けると青年は久我の腕に額を擦り寄せる。ジェルシートの生温かい感触がする。 「冷たい」 「少年が熱いの!」  青年は重そうに瞬きをして、それから目を伏せたままになった。寝息が聞こえる。背を丸めようとするたびに眉が引き攣る寝顔を眺める。時折こほこほと咳をして、久我の腕に額を強く強く押し付けた。これでは動けない。この様子では仕事に行けないだろうことは昨日から思っていたことだがこの室内どころかベッドから動けなくなると思わなかった。  青年が痛みに呻きながら寝返りを打つ。窓から入る強い日差しが青年の寝顔を照らし、久我は普段は閉めないカーテンを引いた。暗くなった部屋。解放されたためソファに移る。青年の寝息が眠気を誘う。けほけほと咳の音がした。病院に連れて行くことになるかも知れない。それはその時考えようとソファに横になる。  もう少し寝かせて、と身体に触れてくるものを跳ね除ける。 【加筆予定】  青年は消えていった。手捏ねハンバーグとレタスとタマゴのサラダ、枝豆の混ざったごはんがラップを掛けられテーブルに置いてある。それからわずかな小銭。『ありがとうございました』と綺麗な字で書いてある。  青年を寝かせていた窓際のベッドを見つめる。久我は人との関わり合いを億劫に思っていたが、自身の意外に世話焼きな部分に妙なむず痒さを覚えた。青年が作っと思しき料理はどれも美味しかった。家庭的な部分はあの短い関わりの中では見出せなかったが、形や焼き加減から作り慣れているようだった。惣菜とは違う、久々の手作りの味が嬉しい半分、数日前と同じ生活に慣れないでいた。  詮索はしないと格好をつけたはいいが、青年の人為的につけられたと思われる背中の打ち傷が気に掛かる。家庭内暴力か性癖か。個人的なことであるならやはり余計なことは訊くべきでない。後悔はないのだ。久我はぼうっと、窓の外を見つめる。ベッドメイキングに来ないように伝えてあるはずが綺麗に張られたシーツが何故だか微かな息苦しさを感じさせた。今日は公園で深酒する気は起きなかった。また明日から何もない日が始まる。口の中でサラダに添えられたミニトマトが弾けた。  雨を打つ屋根の音。庭園に呑まれたガゼボというには質素で薄汚れ、お洒落さに欠けた四阿(あずまや)で久我は酔いに身を任せて瞼を閉じる。わずかなコントラストで見慣れた公園が浮かび上がり、その奥には人々の営みの明かりがぼやけて見える。安酒が思考を奪い、雨のカーテンに包まれた、天蓋ベッドのようだった。これが日常で、今日は大雨。何日ぶりだろう。恵の雨でも当たれば寒く、電車は混み合い、川は濁り勢いを増す。経年変化で黒ずんだ柔らかい木材に頭を預け、瞼を閉じても訪れない眠気。全てが億劫で、呼吸と瞬きすらもどこか面倒になる。だが意識ははっきりしているつもりで朦朧とし、朦朧としているつもりで眠気は訪れない。ただ現実ではないのだと分かっていながら現実を窓から覗いているような浮遊感がある。それは眠気に似ていた。化学薬品に頼りきった安酒によくある酩酊感だ。四肢も首も思考も怠惰になり、眼球さえも動かすのは面倒だったが、誰かいる。四阿(あずまや)の中に。遠くの無彩色のコントラストより強い無彩色。傘を差している。だが久我はそれが眠りの前の脳の悪戯だと信じて疑わなかった。不審者で、危険人物だと判断し、行動することを拒んだ。実際その人の形をした濃い陰は突っ立っているだけで何もしない。久我は目を閉じた。どうせ起きるのは深夜か早朝で、ホテルに戻るだけの身だ。  痛い、嫌だ。叫ぶ声が耳の奥でして、久我は呻いた。身体が熱い。暑さに寝返りをうって、息苦しさに魘される。助けて、やめて。暑い。息が出来ない。喉がひりつく。痛いよ、怖い。瞼が開く。 「ッ…」  青白さを帯びた公園。酸素を求める。急激に熱が引いていく。汗が冷え、今度は寒くなり、大柄な身を縮こませた。あの青年に出会うべきではなかったし、あの青年を拾うべきではなかった。 【2018年4月 放置】

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