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第1話
ぶおおん、という小舟の音がした。金属が水を掻き分ける音。カモメの音。見慣れていた木々が海水の上に浮かんでいる。大きなブロッコリーの影が鮮明になっていく。
松嶋あずまは記憶の中と大した変わりのない小さな港で降りた。中学生まで住んでいた島だ。船頭に軽い挨拶をした。小さい頃に世話になった船頭だ。褐色に焼けた肌と刻まれた皺の数々。松嶋の小さい頃から、おじいさんだった。醤油と海苔で炒られ、小麦に包まれた落花生のつまみによく似ている。松嶋は、味ピーと呼んでいた。
「夏の終わりまでだったか?」
嗄れた低い声は怒っているようだったがその顔は分かりづらいが緩んでいる。
「そう!おっちゃん、さんきゅ!」
船頭のおっちゃん・加藤は汗で額や頬がきらきら光っていた。
松嶋はごく普通のサイズのリュックに余裕で入るくらいの荷物を背負って小学生になった気分で砂浜を歩く。寄せては帰る波と鼓動と同じリズムで掻き立つ音。脱いだ靴を片手に、足首を波が通る。昔はたくさん子どもがいた。今松嶋が住んでいるところと比べれば圧倒的に少ないが、それでも海辺で遊ぶ子どもの姿が脳裏に焼き付いている。緑と青と、少しの白。自然溢れる視界は排気ガスとミラー加工ガラスのジャングルの中にいた松嶋の乾きを静かに潤す。
小さな村だ。人口200人、いただろうか。ラジオ体操以外ではほぼ使われていた覚えのない、公園というには小さすぎる公園。それでも小学生の頃は広く思えたし、小学生はこの小さな土地におさまったものだ。誰もいない公園の水道で足の砂を落とす。裸足でアスファルトの上を歩けばおそらく火傷するだろう。濡れたままの足を靴に突っ込む。多少の気持ち悪さを松嶋は感じた。日差しは強い。すぐに乾くだろう。この公園から少し離れたところに平屋があることを松嶋は覚えていた。小さい頃遊んだ覚えがある。今はどうなっているのだろう。松嶋は駆け出した。あそこは自然に囲まれた高台にある。海がよく見えるのだ。縁側で線香花火をしたこともあれば、星を見たこともある。松嶋は思い出を頼りに整備されていない道を行く。コンクリートを敷かれてはいるが、土にまみれ、草は伸び放題で、だがやはりコンクリートで進む道は示されている。
「ボウズ!」
簡素過ぎる平屋で、端から端まで縁側がある。玄関がほぼ機能せず縁側から出入りしている。松嶋は声がして立ち止まる。聞き覚えのある声。だが名前がすぐに出てこなかった。この土地から離れたのは身体だけではなかったということか。
「久々だな」
傷んで茶けた髪が照り、同じく日に焼けた浅黒い肌、白い歯が健康的な筋肉質の男。30代後半くらいだろうか。松嶋は男を見つめたまま記憶の抽斗 をあれこれ開けるがどれも違う。
「誰…だっけ!覚えてるけど、名前思い出せなくて…」
「冷てぇなあ。都会に行って、変わっちまったか、ボウズ。白鳥 桜多 。2度目はないぞ?」
そうだった。松嶋は突然、記憶に押し込んだ抽斗(ひきだし)の在り処を思い出す。この男は、白鳥桜多。中学時代、何度か抱いたことがある。ぐりぐりと大きく厚い掌で潮風に晒された松嶋の黒髪を撫でる。懐かしい。
「桜多おじさん」
「風呂入ろうぜ」
手拭いを首に掛け、有無を言わせず白鳥は松嶋を引っ張り平屋に上げる。見た目に合わない繊細な仕事をしている、と聞いたことがあるだけで詳しいことは知らない。陶芸家だった、何かの職人。松嶋の中でほぼ同じ作りだった。何かを作る人という認識しかない。
「え、」
「夏なんて何回風呂入ったっていいだろ」
狭い風呂場だ。中学時代とはもう背丈が違う。だが変わらない白鳥はやはり大きい。
「カタツムリは…」
「身の丈に合わない家を持って押し潰された話か」
身体を弄 り合った仲、でなくてもこの男は躊躇いなく脱いだだろう。職人といっても芸術方面の職人だったと記憶しているが、この筋肉がつくのだろうか。背中の隆々とした筋肉が汗で光っている。
「要約しすぎ」
「それで、それがなんだ?」
「家の大きさで住む人の体型は決まるものだと思ってた…」
「風呂場が小せぇってか」
白鳥の家は松嶋にとっては海の家という感覚だ。本格的な住居にしては簡素だった。白鳥は松嶋を先に洗って湯船に入れさせる。
「ってゆーかその絵本知ってたんだ」
「甥によく読んでたんだよ」
白鳥は少しばつが悪そうだったがそう言った。ハリのある皮膚が湯を弾く。
「じゃあ桜多 おじさん、“おじ”さんなんだ」
「そーだよ。お前と同じくらいの小憎らしいガキ」
白鳥はタイルに手をつく。尻たぶを自身で揉んで、松嶋を振り向いた。初めてはもらってやる、初めてはあげる。そういう約束だっただろと白鳥は笑う。
「少しは成長したんだろ」
「…緩んでない?」
「確かめてみろって」
外でミンミンゼミが鳴いている。夏だった。脳が茹るほどの暑い夏だ。初めて会った時もそうだった。両脚の間の奥に物騒な物を入れ、肌色の多い雑誌片手に股間をいじっていた。おそらく第一発見者の松嶋を白鳥は誘い込んで、まだ成長途中の身体に触れ、男の生理を教えた。随分と懐かしい思い出。
「いいや、やめとく」
「お、どうした?」
おじさんだと思っていたずっと年上の男は相変わらず。同じだけ年数を重ねたはずだというのに、白鳥は「おじさん」の感覚から「お兄さん」の感覚に近くなっている。
「甥と同じくらいのガキとヤっちゃうの、まずいでしょ」
白鳥は気にしていないようだった。だが松嶋は波を揺らして立ち上がる。
「へへ、ガキが。甥が夕方に帰ってくるから、会ってやれよ。きっと驚くぜ」
白鳥は出て行ったしまった松嶋の背を見送って、狭い湯舟に入った。オレ、おじさんの甥知らねぇもん。肌についた水滴を払い、服を着る。帰ろうとして、どこに帰ろうとしていたのか忘れてしまった。夕方になるまで、何も言わない白鳥の家にいた。昼にそうめん、メロン味のかき氷を食べさせてもらった。幾度か風鈴が鳴って、蝉の声が鎮まっていく。
「暇だろ、砂浜行ってみ」
白鳥は縁側でぼーっと水平線と空を眺望している松嶋に声を掛ける、仕事の邪魔なのかと様子をみたが、白鳥は横になって腹を掻いているだけだった。特にやることもないため、松嶋は砂浜へと行く気になった。
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