2 / 3
第2話
橙色に染まる地平線を眺めながら、来るとき歩いた砂浜をまた歩く。今度は逆の方角へ。帰ろうとした場所がまだ思い出せない。日差しで脳味噌を傷めてしまったか。波で濡れたところに足を着くと、足首を漣が冷やしていく。砂を均し、水が小さくせめぎ合う音を聞きながら。潮風が吹いて髪を揺らした。誰かが、松嶋と同じように打ち寄せる波の際に立っている。この人が白鳥の甥なのか。線の細い体格は全く白鳥を思わせなかった。眼鏡の縁がオレンジに照っている。紺色になりかけた空に呑まれながらオレンジが細い銀の中で光っている。鋭い横顔。色素の薄い髪と白い半袖シャツが橙に染まる。松嶋を認める。コマ送りのように見えた。わずかに胸がトクンと鳴った。
「君は」
切れ長の瞳と幅の薄い二重瞼は涼しそうだが、似合わない驚きを見せた。薄い唇が小さく開く。松嶋はこの少年とも青年ともいえない人物にまるで覚えがなかった。
「白鳥のおじさんの甥っていう人?」
初対面だというのに不躾だったかも知れない。目の前の美しい男は顔を顰めた。そんな表情もまた風鈴の音のような澄んだものを感じさせた。
「久々に会ったのに、随分な挨拶だね。松嶋あずま」
「え…、オレのこと知ってるの?」
美男子は嫌味ったらしく口角を吊り上げた。得意げだった。それが少し馬鹿にされているような気がして松嶋は睨みつけてしまう。
「知ってるも何も…。いや、よろしく。ボクは本堂 陽久 。ハルって呼んだら」
「ハル?」
松嶋が問うと、本堂は涼やかな顔にあどけなさを浮かべた。言われてみればどこかで見たような気もしたが、やはり気のせいだというほうが強かった。
「あずま」
親しげに呼ばれて松嶋は、こいつちょっと苦手だな、と思った。
「ハルはここで何してんの」
「妹を待ってる」
本堂は松嶋からまた地平線へ目を戻す。妹は何をしているのだろう。松嶋はふぅんと軽く返事をして、同じように地平線を眺める。記憶の中で小さな女の子が両手で松嶋の腕を引いた。
「あずまは何しに来たんだ」
問われて、微かな痛みが頭を走る。何しに来たんだっけ。海は答えなかった。雲が形を変えていくだけだった。
「夏休みだし、まぁ、たまには地元に帰るのもいいかなって」
並べた返答に最後の蜩の鳴き声が小さく消えた。本堂は冷たく横目を寄越しただけで、何も言わない。
「小学校、行ってみないか」
「小学校?」
この島に小学校は1つしかない。全学年10人もいない。本堂は松嶋の1つ上にも見え同い年にも見えた。本堂は苦々しげに松嶋を見る。早くしろと急かされている気分になる。空は暗くなってきていた。
「妹は?」
訊ねれば本堂は黙っていた。記憶の中で、小さな女の子が腕を引く光景がまた繰り返された。
「ボクに妹なんていなかった」
「は?」
しれっと本堂はそう言って松嶋の脇を通る。本堂から透明感と爽快感を帯びた制汗剤のほのかに甘い香りがした。潮風の揺らいだシャツの下にまだ日に焼けていない白い肌が見え、不覚にもどきりとした。すれ違い様に手首を掴まれてまた
「え、妹は」
本堂は松嶋を無視して引き摺って行く。小さな公園の横の坂を上がる。暗くなっていく。蒸し暑さが少しずつ和らいでいく。
「ハル、」
「この道、覚えてるか」
松嶋は、辺りを飛び回るシオカラトンボから目を離す。本堂は少し変な奴なのだと思った。もしくは人違いをしている。この坂のことは覚えているが、本堂とは会ったばかりだ。
「ハル?」
「いや…」
暗い中で一瞬だけ焦った顔を見せる。本堂は不思議くんなんだな。松嶋は仕方なく笑って引っ張っていく速度に合わせながら歩いた。
「ここの畑、ほら、菊池おばちゃんの」
本堂は坂を上がって集落が見え始めた頃の脇にある畑を指差した。本堂はまるで記憶を共有するように話すが松嶋はやはり分からなかった。トマトやナスが成っている。スイカも見えた。インディゴに変わった中で点々と集落が光っている。ふわりと胸が温かくなる。
「ごめん、分かんない」
本堂は俯いてしまったが、すぐに顔を上げた。妹は本当にいいのか。
「こっちだ」
気を取り直したらしく再び松嶋の手を引く。鈴虫の声がひとつ聞こえた。もうすぐ大合唱が始まる。それを背に野球にかじりつくのがこの季節の楽しみだった。
「ハル」
「なんだ」
「ハルは帰らなくていいのかよ」
本堂は足を止めた。だから松嶋も足を止めた。また、記憶の中に、小さな女の子が見えた。
「松嶋はどこに帰る?」
不思議な問いだけを残し、本堂は松嶋を離して1人歩きはじめる。どこに帰るのか。松嶋は分からなかった。ガードレールに沿って歩く。そのガードレースの奥に見える集落のどこかに帰る場所があるはずだった。ぽつぽつと思い出が浮かびそうで、どれも途中で消え失せる。青暗い視界で離れていく白い背中を追うしかなかった。ここに住んでいたはずが、自宅がどこか、どの辺にあったのか分からない。どこもそうであったように思うし、どこもそうでないような気がした。
「待って」
「あずま」
細い背中が振り返って松嶋を待つ。優しく呼ばれて顔を上げた。黒いランドセル。横に挿したリコーダー。手に抱えた朝顔の鉢。きりきりと頭が痛む。“頭の良い彼”は身軽だった。だから何歩も先を行く。汗がまだ昼の熱が籠ったアスファルに滴る。冷たい手が差し伸べられて、何も考えず白いその掌に焼けた手を重ねる。
「お前は変わらないな」
本堂に預けた手が震えた。明確な感情は伴わないくせ胸が苦しくなって涙が浮かんだ。暗くてよかった。泣き虫だな。本堂は何も言ってない。だが響いた。少し高い声。
「ハルは変なやつだな」
汗を拭うフリをしてそう言ってやれば本堂は得意げに笑った。その口角の上がり方を知っている。小学校に向けて歩き続ける。途中で通った畑に老婆がいた。本堂が手を振って、その老婆も2人に小さく手を振った。菊池ばあちゃんだよ!。本堂は陰険な雰囲気を捨て、明るい声で松嶋の腕を取り、手を振り返させた。菊池ばあちゃん。聞き覚えは確かにある。菊池姓は珍しくない。自分が忘れてしまったことが何だか寂しかった。忘れられてしまった側ではないというのに。
「菊池ばあちゃん家の夏野菜カレー、美味いんだよな」
菊池ばあちゃん家の夏野菜カレーをおそらく知っていると思った。だが味も見た目も思い出せなかった。焦げた金色の鍋は覚えている。蝿取りテープが下がった天井も覚えている。少し低い大きなテーブル。広いその部屋には仏壇があった。そこまでだった。
「ハルはオレのこと知ってるの」
「知ってるよ。泣き虫なやつだった」
「でもオレはハルのこと、何も知らないし…覚えてないみたいだ」
気分が重くなった。昼間の海辺のような爛々とした気持ちが嘘のようだった。屈み込んでしまう。小学校まではもう少しなのに。
「知らなくていいよ。忘れていい」
本堂も膝を曲げ、松島の顔を覗き込んだ。得意げな笑みはなかった。代わりにひどく優しい顔をしていた。膝に小さな痛みが走った。だが膝には何の傷もない。帽子を被った“あいつ”が膝にハンカチを当てる。だが本堂はただ松嶋を見ているだけだった。
「立てるなら行こう。歩けないなら背負ってやるけど」
本堂は松嶋より背が低いように思えた。何より細い。その事実が違和感だった。“彼”をいつも見上げていた。視界に入る太陽が眩しかったから。
「何言ってんだよ」
本堂を小突く。鼻で笑われた。
「思い出せるなら、思い出したい。ごめんな、忘れてて」
「よせよ」
ペチっと軽く頬を叩かれる。この後の展開を知っている。「蚊」と一言だけ言う。“彼”は弱音や愚痴を許さなかった。
「O型は刺されやすいからな」
例の一言を聞かされる前に知っていた通りの返し。本堂は一瞬、得意げな笑みを消したがまた満足そうに頷いた。
「ハル」
「気を付けろよ」
「分かってるよ」
分かっている。この後続くのは「ニホンノウエンは怖いんだ」だ。小難しいことをよく知っている奴だった。
「ならよろしい。お前はそそっかしいから。こっちの身にもなれって」
本堂はそう言って松嶋の手首を叩いた。
「これはマジの蚊」
「蚊に刺されないやつはいいよな」
「体温低いから、ボク」
そう言って笑った。また少し、胸がちくりと虫に刺される。
ともだちにシェアしよう!