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第3話
小学校が見えてくる。胸の中が重くなる。鈴虫の歓迎を受けながら雑草まみれの小道を通る。くたびれた向日葵が並ぶ畑は、都会の夕暮れに似ていた。その奥の雑木林に喰われるのを待っているかのようだった。昼に来ればよかったと思った。
「今年はホタルが綺麗だったんだ」
時期を外してしまったらしい。蛍が見える詳しい時期を松嶋は覚えていなかった。初夏か真夏か晩夏。その程度の認識だった。この道は覚えている。蛍が飛ぶ姿が美しかった。命を削って光っているのだと知ったのは随分と前にアニメ映画を観てからだ。歩みを止めたのかと思うほど、ゆっくりになった本堂を追い越して、小石を蹴る。
「じゃあ今度はもっと早い時期に来る」
「都会の花火のほうが綺麗だろうが」
これも聞き覚えがある。蛍を褒めるとそう言った。手持ち花火にはしゃぐとそう言った。都会への羨望を隠さなかった。医者になりたがっていたような気がした。散りばめられたピースが少しずつ嵌まっていってしまう。乾いて固い土の上の小石を蹴りながら少し離れて歩いた。サッカーが好きだった。それを日陰で眺めながら絵日記や宿題を片付ける細長く白い身体。小石が叢の中のドブの落ちて小さく音を立てる。暗い中でも小さな黄色の花―カタバミが点々と見えた。この地の夜は明るい。ネオンや蛍光灯の明るさとは違う。包むような、寝かしつけるような。
「サッカー選手にはなれたのか」
本堂を振り返る。馬鹿にした様子も冗談を言っている様子でもなかった。それがなんだか胸をまたちくりちくりと刺した。自分が今何なのか分からなかった。それでもはっきり分かったのは、サッカー選手ではないということだった。
「ハルは、医者にはなれたのか」
本堂は黙った。チリリ…と鈴虫が鳴く。怒らせてしまっただろうか。触れてはいけない傷だったか。数秒が数分に思えた。聞こえたのは笑い声。
「なれなかった」
「…オレも」
松嶋に追いつき、本堂は肩を叩いた。特にこれという理由はないまま胸がいっぱいになって、暗い中に隠れてぼろりと涙がひとつ落ちた。
「まぁ、生きてれば色々巡り合うさ。ひとつを目指す必要もない」
島には医者がいない。大病をすると苦労した。派遣される医者も辺鄙な離島では大変だ。だから医者になりたいと。大好きな人たちを救いたい時に救えないのは悔しいだろと。
「ハル…」
「おい、上見ろ」
本堂に言われ夜空を仰ぐ。節くれだった指が大きく三角形を描く。これも見覚えがある。夏の大三角形だと騒ぐのだ。晴れた夏の日ではそう珍しくない。すぐに見つかる。そうしてこう言うのだ。
「都会に行ったら見られないだろ」
「星空があったことだって忘れちゃうさ。楽しいところなんだから」
本堂は楽しそうだった。
「そういうのなんていうんだ?神?マジ神っていうのか、そっちでは」
「古いってそれ」
「マジ神な夏、じゃないの」
「いや、今なら激エモな夏だな。最近女子たち騒いでるもん」
なんだそれ!と本堂は涼しげな顔を歪ませ笑う。笑うと少し不細工になるのが好きだった。肩や背を叩き合って笑い合う。回線は悪い。テレビ全ては見られない。人気番組は週遅れ。カフェもバーもなくビュッフェもない。流行の服屋もない。だが楽しかった。2人で十分楽しかった。近所の悪ガキを含めればもっと楽しかった。それでも都会はいいものだ。
小道を抜け、小学校の正門の前で足を止める。正門は壊れていた。暗く浮かぶ校舎も、窓枠は全て外れている。息を忘れた。頭が痛くなる。心臓が胸を突き破りそうだった。はっはっ、と犬のように呼吸する。コタロウ。柴犬だ。メスだけどコタロウ。ヘチマの蔓が巻くフェンスの奥から鼻を突き出す。視界が揺らぐ。頭を抱える。口からせり上がるのは胃液とも内臓とも分からない。
「あずま?」
崩れかけた正門の奥へ進んでしまう。小学校の敷地を囲うフェンスをたどる。崩れた校舎の壁。薄らと見える散乱した内部。手が震えた。何かが襲ってくる。頭の中で。立っていられなくなった。コタロウの家は、横転して汚泥を被っている。パズルのピースがまた嵌まっていく。しかし全体像が掴めない。膝を着いてしまう。
「あずま」
本堂の手が肩を押さえる。
「ハル…」
「もう、帰ろうか」
本堂の優しい声。それが嫌だった。だがこの声に昔から逆らえなかった。帰る場所なんてない。それが言えなかった。本堂の顔を見た瞬間、夜空が破裂した。赤く光って、沈んでいく。
「あずま、ありがとう」
花火が上がる。この島では打ち上げ花火はほとんど見ない。市販のものしか見たことがない。その市販の打ち上げ花火だって、ここでは売っているかどうか。間を置かず、また夜空が破裂する。小学校の裏山からだろうか。
「それと――」
少数集落しかない離島には似合わない騒音の合間を縫い、はっきりと聞こえた。背後、頭上の破裂も閃光も何も気にせず、星空がぼけていくことに構いもせず本堂はそう言った。花火が本堂を照らすが逆光してその人影しか見えない。誰を見ているのか。何を考えているのかも分からない。あの得意げな笑みを浮かべている?
「ハル…」
本堂はそれきりだった。返事しろよ。言葉に出来なかった。花火がいくつも打ち上がって松嶋の声は掻き消える。網膜を焼く光が頭に吸収されていく。
白鳥おじさんは、腹痛を訴えて数日後亡くなったではないか。
菊池おばちゃんは、癌で亡くなった。仏壇の前に座ったはずだ。
船頭の加藤も、脳梗塞で亡くなった。継いだ息子の船に乗ったことだってある。
――ハルの妹…
妹を待ってる。妹なんていなかった。遠い初夏。海で消えた小さな姿。海に行くの!そう言って本堂を困らせて、次は松嶋の腕を引いた。最期に聞いた言葉だった。何故忘れていた。
「はる、ひ」
戻ってきた小さな身体を見ていられなかったから、ただ赤いスカートの裾と裸足だけしか覚えていない。蜩のうるさい墓場で泣き崩れた自分を、帰ろうと普段のように馬鹿にするでもなく肩を支えた手。誰が一番泣きたかったのか察することも出来なかった。
伸ばした手が払われる。
「もう暫く帰って来るな」
顔が見えない。打ち上がっては消える花火を見に、ごった返す駅構内を潜り抜け、人混みの電車に乗って行ったではないか。こんなにうるさいものだったか。こんなに恐ろしいものだったか。こんなに孤独なものだったか。
「はる…」
「お前はもうここの人間じゃないだろうが」
冷たい声。怒っている。何故。忘れてしまっていたから?本堂のことも。白鳥おじさんのことも、菊池おばちゃんのことも、先代船頭のことも、妹のことも、この離島のことも。
「なんでそんなこと言うんだよ」
本堂の手は松嶋が伸ばした手を避け、胸を押す。同じ地面を踏んでいたはずだった。
「忘れろ。もう二度と帰って来るな」
視界がぐらりと大きく揺れる。額に微かな柔らかいものが当たって、幼い頃の恋心が一瞬にして蘇った。色白で茶髪の少しキツめな顔立ちの子。かわいいなと思った。口を開くと嫌味ばかりで、勉強も運動も難なくこなす。都会を恨めしがり、星座やこの離島の自然が好きな少し変なやつ。こつこつ持ち帰るから長期休日も身軽だった。算数が得意で割り算をよく教えてもらった。夏休みの宿題が終わらないと泣き付いて、温くなった麦茶を脇に夜になるまで一緒に過ごした。誰よりも嫌味ったらしくて、誰よりも優しいやつ。ペン胼胝で歪んだ中指。サッカーボールに当たって少し歪んだ銀縁眼鏡。夢を追って中学から都会だと話して、頑張れよと言った泣きそうな顔。味ピーに連れられて一緒に見に行った本島。叔父のこと嫌いだったくせに1人黙って泣いてた葬式の終わり。妹のこと守れなくてごめん。菊池おばちゃんの夏野菜カレーやっぱすっげぇ美味かったわ。もう時期も覚えていない。何故忘れていた。何故忘れた。
「あずま」
小さく聞こえた。ハル。ハル。陽久。
ひかり。
断続的に聞こえる高い音。機械が発している。クリーム色の天井。身体は動かなかった。眼球だけが動く。視界を閉ざすカーテン。ゆっくり瞬く。目元がぱりぱりとした。滲んでまた濡れる。動くのは腕だけだった。それでも重い。手首についた妙な痣。強く入った3本の対に1本。手の跡だ。怖いな、とは思わなかった。深く息を吸う。何も思い出せない。
受動的に視界に入った家族の顔はぼやけていたがそのうち澄んでくる。だというのに見知った顔が今度はぼろぼろと松嶋をぼかしている。
身体が痛む。花火大会から帰ってくる途中に、飲酒したドライバーの運転する車が突っ込んだらしかった。運転手は即死。直前に別れた友人らは軽傷。明るいくせ黒い満面の空を眺めて、三角形をただ動く目で描いたのは覚えている。まだ破裂する空の隅で、どれがデネブでどれがアルタイルで、どれがベガだったか、口酸っぱく教わったのによく覚えていなかった。
手首の痣を見る。ひどく優しい夢を見ていた気がする。だが思い出せなかった。
――年前に水害で壊滅的な被害を受けた島がある。
そう遠くない。テレビの前で歯痒い思いをした。知った名前とか同い年の名が白抜きのテロップで表示されていた。見慣れた地が消えていく。心霊スポットにされてしまった。見知った地が恨みの巣窟にされてしまった。昔馴染みだった人たちが怨みの塊にされてしまった。憧れと夢を抱いて去った地が消えていく。忘れていた。連絡も。昔の夢も。
ラジオ体操が終わって、蝉がとにかくうるさく鳴く。風鈴が宥めるように何回か鳴って、郵便局のおじさんが地面に水を撒く。暑さで痩せた野良猫が民家の軒先で、ぐでんと溶けてる。華やかな場所はない。派手に遊ぶ店もない。小銭をもらってアイスを食べる。違う味を分け合う。同年代の友人は少なかった。夜は鈴虫の合唱の傍で、宿題の戦時中の話をじじばばから聞く。震えていく声がなんだかかわいそうだった。花火ではしゃぐちびっこを叱る母の声。父と野球を見ながら騒ぎあって、溢れんばかりの湯舟に入って背を洗い合ってまたアイス。意地悪ないとこの怖い話で眠れなくなって、トイレの度に起こしていた。そこまでは思い出している。そこまで思い出して鼻に届いた制汗剤の匂いにじわりと瞼の裏が沁みた。
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