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竜の花婿
今週は中村樹にとって最悪の一週間だった。
半同棲中の恋人が三股していた上に金目のものを持って出て行ってしまった。会社が倒産した。親にゲイだとバレた。
一週間でこんなに最悪な事が続くなんて……そんな人生最悪の週末、樹はあるギャラリーに来ていた。平日の営業時間終了間際だからか、ギャラリーには樹一人だった。
『柏木了一の世界』
柏木了一は官能的で独特の世界観を描き、コアなファンが多い。樹の一番好きな画家だ。
樹は学生の頃は絵を仕事にしたかったが、美大に一浪して才能の無さに諦めた。
今でも柏木の画集は大切に持っている。
ギャラリーの奥に展示してある一枚の絵を、樹はずっと見続けていた。
赤いドラゴンが美しい青年に覆い被さっている『竜の花婿』だ。この絵は柏木了一の遺作で、樹がゲイだと自覚するきっかけになった絵でもある。
竜に組み伏せられて苦悩と憂いに満ちた表情の青年は肉感的でエロティックだ。
樹は巨大な竜に支配される事を妄想して何度も自慰をした。
まるで生きているような赤い竜は血を混ぜた絵具で描かれていると噂された問題作だった。
事実かは分からないが、そう思わせるような迫力と生々しさがあった。それに俯いた青年の横顔が微妙に変化するとも言われていた。どちらにしろ樹にとっては特別な絵だった。
絵を描く人間になりたかった。自分を受け入れてくれる恋人に愛されたかった。
……どちらも叶わなかった
『竜の花婿』を見ていると、悩み苦しみながらも夢を見ていた若い頃を思い出す。
三十になった樹は仕事も恋人も失ったのだ。嫌な事すべてを忘れたくて、ずっと絵を見つめ続けた。この竜は夢と欲望の象徴だった。
───そんなに好きなの?
どこからか声が聞こえてきた。
「……好きだよ」
ぽつりと答えると、ぐにゃりと視界が歪んだ。突然、落下するような感覚に陥り、浮遊感に思わず目を閉じた。
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