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香寺章斗と船橋紘希の一喜一憂 前編

 まだまだ夏の暑さが残る中始まった二学期のある日、明らかに香寺章斗(こうでらあきと)の機嫌は良かった。  ニコニコと笑顔は絶えず、なんだかキラキラとしたオーラを撒き散らしていた。彼を何とも思っていない人間ですらそう感じるくらいで、彼を愛しく思っている船橋紘希(ふなばしひろき)からすれば、まるで花が咲き乱れているような錯覚を受ける程であった。 「香寺さん、何かいいことあったんだ?」  紘希と章斗は中庭のベンチに横並びに座って、ともに昼食を取るのが習慣だ。最初こそ迷惑だと思っていた紘希のクラスメイトのバックアップのおかげで、紘希たちがいる中庭にホモカップル見たさの野次馬が来ることもなく、比較的穏やかな時間を過ごせている。  そのいつもの昼休み、紘希は章斗から受け取った弁当箱を開くとストレートに問いかけた。 「えっ?なんで解るの?」  本気で驚いた様子で目を丸くする章斗が可笑しくて、紘希は苦笑した。 「だって、そんなにニコニコしてたら…それに、これ…」  言いながら、紘希は広げたばかりの弁当箱を指差す。いつも章斗が作ってきてくれる弁当。今日はそこには赤飯が詰め込まれていた。 「あ、船橋、赤飯嫌い?」 「んにゃ、好きだけど。なにかおめでたいことあったから作ったの?」 「そう!」  章斗は大きく頷くと、更にパッと顔を華やがせた。 「あのさ、あのさ、ナオに彼女ができたんだ!」  とびきりの笑顔で告げられた言葉に、紘希は言葉に詰まった。感情も、混乱して一瞬無になった。 「同じクラスの女の子なんだって。前から友達だったらしいけど、昨日から付き合うことになったって言って…」  心から嬉しそうに、きゃっきゃと話す章斗は可愛い。しかし、紘希の心中は複雑だ。  また弟の話だ。正直、聞きたくはない。章斗をここまで喜ばせているのが自分でなく、弟の尚斗(なおと)だと思うとかなり悔しい。  ――だが、内容は確かにめでたいものだ。紘希にとっても。  尚斗に恋人ができれば、少しは章斗も弟離れするかもしれない。そして尚斗も、兄離れするかもしれない。弟の用事を理由にデートを断られることは減るはずだ。絶対、いや、多分、少しは…。 「それは、おめでとうございます」  紘希はなんとか笑顔を取り繕うと、祝辞を述べた。  紘希に素直に祝われたことが嬉しかったのか、章斗はぴたりと紘希に肩をくっつけてきた。そして紘希を見上げ、ふにゃっとはにかむように頬を緩めた。その顔をみると、自然、紘希の頬も緩んだ。きゅんと胸が疼く。 「良かったですね」  今度のその言葉は、心の底から言えた。  そしてその後、物事は紘希にとっていい方に傾いた。  弟を理由にデートを断られることは本当にまったくなくなったし、なにより章斗の門限が延びたのだ。 「香寺さん、そろそろ時間じゃない?」  紘希の部屋のベッドでいちゃこらした後に訊ねれば、章斗は首を振った。 「ナオ、部活の後にデートしてくるからいっつも遅いんだ。だから、まだいい。あ、帰った方がいいなら帰るけど」 「まさか。泊まっていってもいいのに」  紘希が言えば、章斗はにっこり笑って紘希の上に乗っかってきた。 「じゃあ、もう一回しよう?したい、ダメ?」  ストレートな誘いに、願ってもない、と紘希は章斗に口づけた。  紘希は幸せだった。このまま章斗が弟離れしてくれればありがたい。  紘希は弟と名も知らぬ彼女の幸せを心から願った。いっそ結婚してしまえ。いや、中学生で結婚は無理か。いやいやでも、弟カップルが末長く誰も割り込めないくらいラブラブでありますように。  その日、明らかに章斗の機嫌は悪かった。いや、機嫌が悪いというより、かなり落ち込んでいた。アーモンド形の瞳には、うるうるとうっすら涙の膜が張っている。  共に登校するために学校の最寄駅で章斗を待っていた紘希は、その姿を見るなり嫌な予感に落ち込んだ。これは、きっとあれだ。弟絡みだ、と。 「船橋、おはよう」  章斗は笑いながらそう言ってきたが、その声は少し枯れているし、まったく覇気がない。泣き虫な章斗のことだ。きっと泣き通してこうなったに違いない。 「おはようございます……香寺さん、どうしたんスか。何かやなことあった?」  心のどこかで聞きたくないとは思いつつも、紘希は訊ねた。その途端、章斗の目に涙が盛り上がった。きゅっと唇が噛みしめられ、どうやら泣くのをなんとか堪えているようだ。 「な、ナオが…」  ああ、やっぱり。心中で肩を落としながら、紘希は続きの言葉を待った。 「弁当、もういらないって…か、彼女が作ってくれるから、いらないって…」  ぐずぐずと鼻を啜りながら訴えてくる章斗に、紘希は幸せの幕が下りる音が聞こえた気がした。  弟カップルのラブラブは、抑え気味の方がよかったのか…願い間違えた。 「まあ、尚斗は章斗が育ててきたようなもんだからなぁ…姑みたいな感情湧いてもおかしくはないだろな」 「ん?でもさ、でもさ、彼女ができたことはすっごく喜んでたんでしょ?弟の帰りが遅くなるのも気にしてなかったみたいだしさ」 「まあな…でも弁当作りは章斗のアイデンティティみたいなとこあるから」 「へぇ、俺だったら作る量減ってラッキーとしか思いませんけどねぇ」 「はあ、こりゃどうする?弟くんの彼女のとこ行って、弁当はお兄さんに作らせてやってくださいってお願いしてみる?ん?」  にやけ顔の小野原(おのはら)に首を傾げられ、紘希は苛立ちを隠さず目の前の机に握りこぶしを叩きつけた。 「つーか!なんであんたたちが集まってんですか!!」  昼休みである。  紘希の目の前には小野原、光山(みつやま)徳永(とくなが)の三人がいる。  というのも、昼休みになった途端、小野原に拉致されるような形で食堂へ連れ込まれ、目の前でぴーちくぱーちくと騒がれているのである。 「いやー、香寺が弟くんのことで落ち込んでるって言うから、船橋が心痛めてるだろうなーと思って。心配して相談に乗ってあげてるんじゃん」  にやにや笑いながら恩着せがましく言う小野原に、紘希は相手が先輩であることも忘れ怒鳴った。 「あんた楽しんでるだけだろうが!!」  心配などしているはずがない。常識人の光山だけはもしかしたら本当に紘希を慮ってくれているかもしれないが、少なくとも小野原と徳永に関しては、弟に嫉妬する紘希を嘲笑いに来たに決まっている。 「てか、香寺さんは…」  今日も昼は一緒する予定だったのだ。思わぬ拉致で時間を無駄にしてしまったが、早く章斗の元へ行かねばと紘希は立ち上がろうとした。しかし、その腕を徳永が引いた。 「まあまあ、ほら、弁当なら預かってるから」  そう言って差し出してきたのはいつも章斗が持ってきてくれる見慣れた弁当箱だった。 「なんでお前が持ってんだよ!」 「預かってきたって言っただろ。香寺先輩には今日お前は用事あって昼いっしょ出来ないって言ってあるから」 「はあ!?何、余計なこと…!」  がしり、と徳永に掴まれていない方の肩に手が掛かった。 「さ、存分に解決策を練ろうじゃないか!座って座って!」 「ちょ、痛い、痛いって!!」  可愛い顔とは裏腹に、とてつもない力でぐぐぐっと押してくる小野原に、紘希は悔しさを噛みしめながら着席した。  仕方なく、その場で弁当を広げた。相変わらず中身は紘希の好きなものが詰め込まれていて、思わず頬が緩む。作ってくれた人が隣にいないことが惜しいが。 「うわ、うまそー。いいな船橋、毎日そんな弁当作ってもらえて」  覗きこんできた徳永にそう言われ、少しだけ優越感が芽生える。 「徳永も頼んだら作ってくれると思うけどなぁ」 「まじすか」  小野原の呟きに、徳永がわずかに目を輝かせる。確かに、章斗は頼んだら断らないかもしれない。紘希は強く否定することはできず、とりあえず止めた。 「駄目です!!」 「冗談だって、冗談~。やだやだ船橋君ってば必死になっちゃってー」 「……っあんたら、人をからかうのも大概に…っ」 「さ、じゃあ本題、本題。どうする?香寺落ち込んだままだけどー」  結局、そうやって過ごした昼休みは、まったくもって無駄だった。というのも、なんの解決策も出なかったからだ。  小野原と徳永はやたらと弟の彼女に直談判に行けとうるさかったが、そんなこと出来るはずもなかった。  そうして迎えた放課後、今日は昼にも章斗に会えなかったが、放課後も紘希のバイトのため少しの時間しか一緒にいられなかった。気落ちした章斗に何も言うこともできず、章斗自身は普段通りにしているつもりなのだろうが、哀愁漂う姿に虚しさと悔しさが湧きおこった。  翌日は朝も昼も章斗はいつも通りにこやかだったが、紘希にはどことなく元気がないような気がして、放課後、紘希は章斗を誘って街へ出た。いつもは少し買い物をしたりして紘希の家に直行することが多いのだが、落ち込んだ章斗を少しでも元気づけたくて紘希はプランを練っていた。  そこは商業施設が立ち並ぶ中に最近できた水族館だ。安直なアニマルセラピーだが、とにかく楽しんでもらえればいいのだ。 「船橋、マンボウまったく動かないけど、死んでないよな?」 「ちゃんと生きてますって。そんなに動かないって書いてますよ」 「へぇー…あ、鮫だ!鮫がいる!見てみて!コバンザメくっついてる!」  章斗はそれなりに楽しんでいるようで、じっと水槽を眺めては紘希を振り返って笑う。その姿に紘希はほっと胸を撫で下ろし、章斗と共に楽しむことにした。 「コバンザメって可愛いよな。俺、コバンザメ好きー」 「でも良く見たらすごい顔してますよ、あいつら」 「んー?んむ…確かに…でもブサカワじゃない?」  そんな会話を交わしたりしながら、楽しい時間が過ぎていく。そうして、通路も最後に差し掛かり、とある水槽の前に来た時だった。 「あ、サバだ。サバとかもいるんだ、水族館って」 「へー、サバは見るより食べる方がイイかも」  紘希が冗談交じりに言えば、章斗はあはっと笑った。 「確かに。ナオもサバの味噌煮が好きで、よく弁当に入れてって言って……」  あ、失敗した。  紘希がそう思ったときにはもう遅かった。先ほどまで笑顔だった章斗はハッと口を噤み、その顔色は薄暗い中でも解るほど沈んだ。 「……えっと、そろそろ出ましょう。俺腹減ったんで、飯食いましょうよ」 「うん」  頷いた章斗はまたいつもの笑顔に戻っていたが、紘希は無理をさせているようで辛かった。

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