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香寺章斗と船橋紘希の一喜一憂 後編

「よう」 「あ、どーも」  休憩時間、ジュースを買いに行った紘希は光山に出くわした。思わず周りを見渡せば、光山が苦笑した。 「小野原は来てねーよ」 「あ、そっすか…」  ほっと胸を撫で下ろし、紘希は自販機に小銭を入れる。 「昨日、水族館行ったんだって?」 「え……はい。香寺さんに聞いたんスか?」 「そ。章斗すげー喜んでたぜ。今日もうその話ばっかでさ」  その光山の言葉に、紘希は眉根を寄せた。楽しんでくれていたのは本当だろう。が、途中、紘希は確実に地雷を踏んだのだ。 「だったら、よかったんですけど……」  溜め息交じりに言った紘希に、今度は光山が不思議そうに眉を上げた。 「あの…光山さん、俺やっぱ、行くべきですかね」  取り出し口に落ちたジュースを拾いながら、紘希は訊ねた。 「どこに?」 「弟くんの彼女のとこに」 「は?」  心底不思議そうな声を上げた光山を、紘希は勢いよく振り仰ぐ。 「弟くんの彼女のとこに行って、弁当は作るなって言うべきですか!?」  紘希はかなり本気でそう考え始めていた。最初はありえないと思っていたが、もう章斗を元気づけるためにはそうする他に道がない気がする。 「お前…小野原に毒されすぎだぞ。真に受けんなよ。なんでそんな話になるんだよ」  光山は呆れた様子で紘希を眺めている。紘希はその視線から逃れるように俯き、口を開いた。 「昨日、香寺さん確かに楽しそうでしたけど…途中、弟の話が出た瞬間、悲しそうな顔して…」  そう言葉にすると、一気に虚無感が胸を襲ってきた。章斗に元気がないのが悲しい。章斗をそうしている――彼に多大なる影響を与える存在が、自分ではなく弟なのが悔しい。 「あいつ、あれほど言ったのに…」 「え?」  苦々しげな光山の言葉に、紘希は顔を上げた。すると、苦笑した光山が、紘希の頭をぽんと叩いた。 「思いつめんなよ。つーか、尚斗の彼女のとこ行くとか馬鹿な真似だけはすんなよ。わかったか、絶対だぞ!」  そう言って、光山は走って去っていった。  残された紘希は、深いため息を落としてとぼとぼと教室へ向かった。次は四限の授業だ。それが終われば昼休み、章斗と過ごす時間。  章斗に会いたいような、会いたくないような…。 「あーくそっ」  唸りながら、紘希は次の授業をサボることに決めた。こんな状態じゃどうせ何も頭に入ってこない。  そうして、教室からさぼれる場所――屋上へ続く階段の踊り場へと向かおうと方向転換したときだった。 「船橋っ!」  紘希を呼ぶ声に振り返れば、息を切らした章斗が立っていた。その姿を見るや、紘希は何も考えない内に走り出していた。章斗がいる場所とは反対方向に向かって。考えがまとまっていない状態で章斗に出くわし、反射的に体が逃げ出していた。 「船橋っ」  章斗が呼ぶ声と、追ってくる気配がある。周りの生徒たちが何事かと注目してくる。  早くとまって、章斗と話をしなければ。そう思うのに、紘希は逃げ続けてしまった。  やがて始業を知らせるチャイムが鳴り響き、紘希は当初の目的だった階段の踊り場に着いた。ずるりと座り込み、体を休める。静かなそこには紘希の荒い呼吸だけが響いていた。  真面目でどんなときでも授業には必ず出る章斗のことだ。もう追ってきてはいないだろう。助かったと思う一方、少しだけ寂しくもあった。  しかし、やがてパタパタ、と走る足音が鳴り響き、それがだんだんと大きくなってきた。  まさか、と思った瞬間、階段の脇から顔を真っ赤にさせた章斗が飛び出して来て、座り込んでいる紘希に飛びついて来た。 「っわ…!」 「船橋…っ」  紘希を呼んだその声は、震えていた。 「俺、船橋が好きだっ。好き、好き…っ」  突然の告白に紘希は目を剥いた。ぎゅっとしがみついてくる章斗の顔は見えない。ただ彼が泣いているということだけは解った。 「船橋、やだ、嫌わないで…!船橋が好きなんだっ!」  必死な愛の訴えに喜びが湧く前に、紘希は少し苛立った。 「なに、馬鹿なこと言って…なんで、俺があんたを嫌うんですか!」  こんなに本気で悩むほど、紘希は章斗を想っている。それなのに、その気持ちを疑ってほしくない。  紘希は章斗の両肩を掴むと、顔を覗きこんだ。 「だって、俺、俺が、デリカシーないから…っ」  ぐずっと鼻を啜りながら、章斗はぽろぽろと涙を零す。 「俺が、このままだったら、ふ、船橋にっ…嫌われるって、みつやんが…っ」  その言葉に、紘希は光山の「あれほど言ったのに」という言葉を思い出した。彼は小野原たちとは違い、本当に紘希と章斗のことを心配して、章斗に助言――諫言かもしれない――をしてくれていたのだろう。 「あんたのデリカシーないのなんて、今に始まったことじゃないでしょう」 「でも、だって…昨日も、俺…っナオの話しないように気をつけてたのに、しちゃったし…」 「光山さんになんて言われたんですか」 「船橋の気持ち、考えろって…船橋の前でナオの話ばっかりしてると、嫌われるぞって…」  そう言う章斗は、紘希の気持ちを考えはしても十分の一も理解できてはいないだろう。だけど、今こうして紘希に嫌われることを嫌だと、泣くほどに辛く思ってくれていることは嬉しかった。  紘希は苦笑し、章斗の背中に手を回して抱きしめた。 「別に弟の話、してもいいんですよ」  そして、ぽんぽんと慰めるようにそこを叩く。 「ただ、俺より弟が優先されると妬けるし、あんたが弟のせいで落ち込んでるのも辛いんです。言ってる意味、解ります?」 「おち、落ち込んでる…?」 「弁当作れなくなったって、落ち込んでるじゃないですか」 「?別に、落ち込んでないけど?」  章斗は顔を上げ、涙の乾かない目で紘希を見つめてきた。その表情は、きょとん、と表現するにふさわしい。  紘希は予想外の反応に目を瞬かせ、章斗の言葉を待った。 「一昨日、泣いちゃったけど、すぐみつやんに言われたんだ。お前が弁当作る相手は船橋がいるんだからいいだろって…。それで、そうだなーって思って…船橋がいてくれるんだから俺は幸せだなって。ぜんぜん悲しむことないかって」  思ってもみなかった言葉に、紘希はぎゅっと柳眉を寄せた。 「いや、でも、昨日も水族館で弟くんのこと言った瞬間、暗い顔して…」 「だから、ナオの話したら船橋に嫌われるってみつやんに言われてたから、思わずナオの名前出しちゃって、やばい、船橋に嫌われるって思って、俺…」 「え…っと…」  ぐしゃりと再び章斗の表情が崩れた。一時止まっていた涙が再び溢れ出てくる。紘希はそれに少し慌てつつ、早口で訊ねた。 「じゃ、じゃあ、昨日朝から笑顔だったのも、無理してたわけじゃない?」  こくりと章斗は頷く。 「えっと…一瞬暗くなったの、俺に嫌われると思ったから?俺に嫌われたくなくて?」  こくこく、章斗は頷く。  つまり、昨日は空元気などではなく、紘希が思いこんでしまっていただけということだ。尚斗は関係なく、ただひたすら章斗は紘希を思っていたということ。  それが解ってしまえば、かーっと嬉しさに紘希の頬は熱くなった。  もしかして、紘希が思っている以上に、章斗は紘希の事を好いているのではないだろうか。 「こ、香寺さん、俺のこと好き?」  訊いてから、あまりにも間抜けな質問だと思った。先ほどから章斗はそう言っているではないか。 「好き」  しかし章斗は突っ込みを入れることなく素直に頷いて、キスをしてきた。そして、気持ちを証明するように、ちゅっちゅと何度も唇を合わせてくる。  ――やばい、可愛い。 「香寺さん、俺も好き。すげー好き」 「んっ」  紘希は噛みつくようにキスを返し、口腔内を貪るように深く口づけた。時折吐息と共に甘い喘ぎが漏れ、それに煽られるようにキスはどんどんと激しいものへと変わっていった。 「んっ…はっ…はぁ…っ」  とろりと蕩けた表情で章斗は大きく息を吸う。その目は先ほどの哀しみの涙ではなく、欲情で潤みきっていた。  その顔を覗きながら、紘希はごくりと喉を鳴らす。こんなんじゃ、足りない。もっとと章斗の頬に唇を寄せながら、その体を強く抱きしめる。 「香寺さん…っ」 「…っ船橋、どうしよ、俺、勃った…」  章斗が紘希の腕の中でもぞりと身を捩る。そして、縋るように紘希を見上げてきた。 「船橋がえっちぃ顔するから…」 「それを言うならあんたの方がヤラシイ顔してますって。てか俺も勃った。しよう」 「ここ、階段だけど…」  普段なら紘希の方が常識があるのだが、今ばかりは我慢がきかなかった。 「ダメ?」  ねだるように訊ねれば、章斗はしばし逡巡した後、「駄目じゃない」と呟いた。  弟を越えた。そのことに、紘希はひどく興奮した。 「うっわーやだやだやだ、船橋くんったら朝からにやにやしちゃってぇ」  いつもの駅、浮足立った気持ちで章斗を待っていた紘希は、突如飛んできた声にぎくりと固まった。 「……おはようございます」  そんなに自分はにやけていただろうかと、思わず頬に手を寄せながら、不本意ながらも絡んできた相手――小野原に挨拶をする。  最寄駅は電車通学の生徒なら必ず使う場所で、小野原と鉢合わせるのもこれが一度や二度ではない。 「小野原、あんまちょっかい掛けるなって」  すると小野原の後ろから光山がやってきた。本当にこの人は良心の塊だと思いながら、紘希は彼にも挨拶をした。 「それと、あの、いろいろありがとうございました」  感謝してもし足りないのだが、光山の方は別にいい、と何でもないことのように手を振る。  昨日の章斗とのことを思い出すと、思わず頬が緩む。昨日の章斗は最高に可愛かった。乱れながら、全身全霊で紘希が好きだと訴えていた。 「うわー!もう、不純だわー。昨日授業サボって何やってたんだか、やーらしぃぃ」  小野原が顔を歪めながら茶々を入れてきたが、紘希は無視した。なんとでも言えばいい、紘希は今、幸せの絶頂なのだ。 「船橋ー!」  やがて章斗の呼ぶ声が聞こえ、紘希は満面の笑みで振り返った。 「香寺さん、おはよ…」  そして、固まった。 「おはよ!」  章斗はキラキラとしていた。彼を何とも思っていない人間ですらそう感じる程で、紘希からすれば、まるで花が咲き乱れているような錯覚を受ける程であった。  なんて、デジャヴ。  これが紘希同様、昨日のやりとりで恋人と互いの想いを確かめ合い、幸せに輝いているのならいい。しかし、それだけではない、そんな気がする。紘希の中に嫌な予感が漂い始めた。  紘希は生唾をごくりと飲み込むと、勇気を出して訊いてみた。 「――香寺さん、何かいいことあったんだ?」  笑顔が引き攣ってはいないだろうかと思いながら、紘希は必死で願った。  頼む、頼むから、「朝から船橋といれて幸せなんだ」とかなんとかいう理由であってくれ。 「えっと――…ひみつ」  しかし、願い虚しく、章斗ははにかんだようにそう言った。  ひみつということは言えないということ。言えないということは、きっと尚斗のことだ。馬鹿正直な章斗は、まだ尚斗の話をしたら紘希に嫌われると思いこんでいるのだろう。つまりこの上機嫌は、尚斗起源ということだ。 「香寺さん、あのね、弟くんの話してもいいんだよ。昨日言ったっしょ。弟くんが原因で香寺さんが落ち込まないのならそれでいいんだから」  思わず鋭くなりそうな声をなんとか宥めながら、紘希は固まった笑顔のまま告げた。すると章斗は目を輝かせた。 「いいの?」  ああ、やっぱり尚斗のことだったのかと紘希は肩を落とす。 「うん、弟くんのことでいいことあったんだ?」 「ナオ、彼女のお弁当合わないらしくって、また俺に作って欲しいって!今日も作ったんだ!」  弁当を作れなくても構わないが、作れるなら作れる方が嬉しいらしい。  誇らしげに言う章斗に、紘希は目眩がした。やっぱりこの人は俺の言いたかったことをちゃんとわかっちゃいない。 「それは…その、よかったです、ね」  なんとかそう言葉を紡いだ紘希を、光山と、あの小野原までもがどこか同情的な目で見つめてくる。それがまた、紘希には哀しかった。  本当に章斗はデリカシーがない。でも、最初ひみつと言ったのは、やはり紘希に嫌われたくないからで、章斗はちゃんと紘希のことを好きだということで…。  紘希は必死でプラス方向に考えた。プラス思考でないと、このブラコンと付き合ってなどいけない。  紘希に祝われたのが嬉しかったのか、章斗はぴたっと紘希にくっつき、ふにゃっとはにかむように頬を緩めた。  可愛い。可愛いから、もう、いいや。  どこか諦めたように思いながら、紘希は頬を緩めた。  弟を越えるのは、まだまだ先になりそうだ。 おしまい

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