3 / 6

香寺家へようこそ

 最近、船橋紘希(ふなばしひろき)香寺(こうでら)家へ行く頻度がかなり高い。 「今日ウチ来ないか?母さんが来てって言ってたよ。俺も来てほしいし」  章斗(あきと)からそう言って誘われれば、ノーとは言いづらい。  結果、学校帰りに香寺家へ足を運び、夕飯のご相伴に与ることになる。章斗の母親は紘希が一人暮らしだということを聞き及んでいるようで、よく夕飯に誘ってくれるのだ。  もちろん、章斗の家に行くのは嫌ではない。章斗の母親にもかなり気に入られており、これから先を考えても今の好感度は維持しておきたいところだ。  ただ、紘希には不満がある。 「おいしいです、この揚げ浸し」  薄すぎず濃すぎず味のしみ込んだナスを頬張りながら、紘希は率直な感想を述べた。すると対面に座る章斗の母親が、満面の笑みを浮かべた。 「わ!嬉しいわぁ!いっぱい食べてね!」  これもこれもと勧められるまま、紘希はおかずに箸を付けていった。  香寺家の食卓は父親の帰りが遅いため、いつも母親と二人の息子の三人で囲まれている。そこに本日は紘希も加わっていた。 「お母さん、料理上手ですよね」  お世辞ではなく、本当に紘希好みの料理なのである。 「若い子に褒められると気分が良いわぁ!」 「若い子って、俺の方が若いけど」  尚斗が突っ込みを入れると、母はやぁねぇ、と口を尖らせた。 「ナオくんはおいしいなんて言ってくれないじゃない。しかもお兄ちゃんのご飯の方が好きでしょ」  その言葉に、紘希は苦笑を零した。本音を言えば、紘希も章斗が作るご飯の方が慣れ親しんで好きだったりする。ただ、今それを馬鹿正直に口にするほど愚かではない。 「だって兄ちゃんは俺の好きなものばっか作ってくれるから」  悪戯そうに笑う尚斗に、母親は仕方ないわねと言わんばかりの顔だ。 「いやでも、香寺さ…章斗さんが料理上手なのも、お母さん譲りでしょう?やっぱり味付けとか似てますもん」  フォローを入れた紘希が隣に座る章斗を見れば、彼も紘希を見てにっこりと嬉しそうに笑った。  母親が褒められてよほど嬉しかったのだろうか。幸せそうな笑みに思わず紘希もつられて顔が緩みそうになったほどだ。 「もー!船橋君は本当に良い子ねぇ!いつでもご飯食べに来ていいからね!」 「あはは。はい、じゃあお言葉に甘えて遠慮なく」  そうして和やかに食事を終えて、紘希は章斗の部屋へと招かれた。彼の部屋は紘希のそれとは違って物が少なく、綺麗に整頓されている。  促されるままベッドに腰掛けると、紘希は章斗の手を取った。 「香寺さん、今週末は用事ある?」 「模試は先週あったし、今週末は何も予定なし」 「なら、俺ン家泊まり来ない?また料理も教えて欲しいな」  甘えるようにねだれば、章斗はこくりと頷いた。 「ん、いいよ」 「やった」  喜びのまま、掴んだままの章斗の手を引く。すると、バランスを崩した章斗は紘希を覆うようにベッドに乗り上げた。  距離が一気に縮まり、鼻先が触れるほど顔が近付く。  そのまま紘希が顔を突き出せば、章斗も意を察して瞳を閉じた。  吐息が触れあい、あと一ミリで重なろうとしたその時。 「兄ちゃん、数学の宿題わかんねーから教えてー」  ノックもなく扉が開かれ、明るい声と共に尚斗が飛び込んできた。反射的に紘希は章斗を引き離した。  章斗はベッドサイドに立ちあがると扉を振り返る。 「ナオ」  章斗も驚いてはいるようだが、パチパチと瞬きをするとすぐに弟を部屋に招き入れてしまう。 「あっれぇ、船橋さんまだいたんだー?」  わざとらしい、と紘希は舌打ちしたい気持ちを懸命に抑え、何とか笑顔を取り繕った。 「ああ、居心地が良いからすっかり長居しちゃったなぁ…」  紘希と章斗の関係は、まだ公表していない。章斗は家族にばれても気にしないと言ったが、世間は甘くないと紘希は重々承知している。章斗に口止めして、あくまで仲の良い先輩後輩の関係にとどめているのだ。  だが、この弟は何か感づいているのだろう。こうやって紘希と章斗が部屋で二人きりになろうものなら、今のようにすぐ割り込んでくるのだ。しかも、章斗から聞いた話だが、尚斗は普段ならちゃんとノックをして入ってくるという。紘希が来ている時にだけ、それがない。これを牽制と言わずしてなんと言う。  章斗は病的なブラコンだが、この弟もなかなかだ。 「……俺、そろそろ帰りますね。明日も学校だし」  紘希は内心溜め息をついて、立ち上がった。こうなってしまえばどうやっても章斗と二人きりにはなれまい。  荷物を抱える紘希に、章斗が追いすがった。 「じゃあ、俺、駅まで送る」  いいですよ、そうしたら駅から家まで香寺さん一人になるじゃないですか。  そう言いたいものの、紘希はもう少しだけ章斗と過ごしたいという欲求に負けた。 「ありがとうございます」 「ナオ、帰ったら教えてやるから、待ってて」 「あー、うん」  ひらひらと手を振る尚斗に見送られ、紘希は部屋を後にした。  これが、紘希の最近の不満である。香寺家に行くのはいいのだが、その分、章斗と触れあう時間がめっきりと減ってしまったのだ。      外はもう真っ暗で、歩いている人間もほとんどない。  静かな住宅地を並んで歩きながら、紘希は章斗の手を取った。ぎゅっと握れば、章斗も握り返してくる。 「船橋、また来る?」 「えっと…」  章斗の質問に、思わず紘希は口ごもった。素直にはいとは言えない。 「あの、俺の家に来るよりも、俺が香寺さんの家行った方が嬉しかったりするんですか?」 「うん」  即答した章斗に、紘希はぎくりとした。  まさか、章斗はいちゃつくのが好きではないのだろうか。  いやでも、章斗は一風変わった人間だが、性欲に関しては男子高校生の平均並みであり、紘希とあれやこれやするのに積極的ではある。まさか、いやいややっていたとは思えない。 「な…なんで?」  そう訊ねるのは、少し勇気がいった。 「だってさ、ウチに来たらさ、船橋が俺のこと『章斗さん』って言うじゃん?なんか嬉しくて」  何ともないように答えて、ふふっと章斗は笑う。  紘希は思わず固まった。歩みを止めた紘希を、章斗が不思議そうに振り返る。  確かに、香寺家に行った時には、そこに居る人は皆『香寺さん』であるから、紘希は会話の中では章斗のことを下の名で呼んだ。  たったそれだけのことで。 「そ、そんなの…!ああ、もう…!」  辺りが暗くてよかった。恥ずかしいくらいに紘希は赤面した。 「なんでそんな可愛らしいこと言うんですか!」 「え?」 「てか、呼んでいいなら普段からいくらでも章斗さんって呼びます!だから、お願いだから、頼むから、明日はウチに来て下さい…!ていうか、今から一緒に来てほしいくらいなんですけど!あーもう、欲求不満で死にそう!」 「え?あ、うん、明日船橋の家行くのは良いけど…普段からは呼ばないでほしいなぁ」 「はあ?」  今度は紘希が疑問顔になる番だった。 「減るっていうか、希少価値が下がるっていうか……」  何だよその訳分からん理論は!と叫びたいところをぐっと堪え、紘希は章斗の手を引いた。 「わかりましたよ普段から呼びませんから、時々だけにしますから!」  だから、と、紘希は章斗の耳元に顔を寄せた。恋人の距離に章斗が少し戸惑うのがわかった。夜で人通りがないとは言え、ここは外なのだ。そして、いつも隠したがるのは紘希の方なのに。 「お願い、キスだけ…」  ねだるように言えば、章斗から戸惑いが消えるのが解った。それに心が湧きたち、紘希は章斗に唇を寄せ――ようとしたが、叶わなかった。 「章斗?」  突然割って入った第三者の声に、反射的に紘希は章斗から離れた。 「あ、父さん。お帰り」  振り返った章斗がのんびりと声を掛けた相手は、言葉通り、章斗の父だった。 「ただいま。ああ、船橋君じゃないか。遊びに来てたんだね」 「どどどドウモー!コンバンワー!」  驚きに早鐘を打つ心臓を宥めながらの言葉は、かなり棒読みになってしまった。  母親や尚斗ほどではないが、何度か家を訪れるうちに顔見知りになった章斗の父は、紘希に向かってニコニコと笑っている。幸いにして今しがたしようとしていたことは――未遂ではあるが――気付かれていないようだ。  それはよかったのだが、紘希の欲求は少しも満たされない。だが、流石に今日はもう諦めるしかないとこっそり胸中で溜め息を吐く。  ちらりと章斗を見れば、紘希と違って不満はなさそうな顔をしていた。なんだか悔しい。  ――ああ、やっぱり、ウチに連れ込むしかない!明日は絶対、絶対…!!  紘希は一人決心したのだった。      その後、紘希が香寺家を訪れる回数は半分ほどに減った。 おしまい

ともだちにシェアしよう!