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章斗、餅を焼く 前編
いつもと変わらない一日の始まり、通い慣れた通学路を通り、もはや見飽きた廊下を通って三年二組の教室に入った光山は、これまたいつもと同じく既にそこにいた章斗と小野原に挨拶した。
「はよ」
だがしかし、そこからはいつもと違っていた。
「おはよー」
「……おはよう」
にこやかに返事をしてきた小野原はいい、違和感があるのは章斗の方だ。普段よりワントーン低い声で、どこかむっつりとして光山の方を見ようとしない。
おかしいと思ったのは光山だけではなかったようで、小野原もおや、と首を傾げている。どうやら、異変はたった今起こったようだ。
「んん?どしたの香寺」
光山より先に小野原が訊ねた。
「別に……」
そう言った章斗は、ちらりと、やっと光山に視線を向けたかと思うと、ぎゅっと眉根を寄せて、直ぐにぷいとそっぽを向いてしまう。
これにはさすがに光山もムッとした。
「なんだよ章斗、感じわりーぞ」
「……」
それでも章斗は押し黙ったままだ。
「何むくれてんだよ、俺なんかしたか?」
鞄を下ろし、椅子に座りながら光山は聞いた。すると、反対に章斗はがたっと勢いよく立ち上がった。
「別に、みつやんは悪くない!」
そう言って、だっと教室から出て行ってしまった。
残された光山と小野原はぽかんとするしかない。
「なんでー?さっきまで普通だったのに」
心底不思議そうに小野原は呟き、光山に視線を向けてきた。
「追いかけなくていいの?」
「いや、なにがなんだかわかんねーし」
真面目な章斗のことだ。放っておいてもホームルームの時間にはちゃんと戻ってくるだろう。
その光山の予想通り、予鈴が鳴るとともに章斗は戻ってきて席に着いていたが、どうにも複雑そうな表情は変わっていなかった。
その異変はずっと続いた。
「みつやんってば何したのさ」
「別に何もしてねぇよ」
原因はまだわからないが、光山に非がない、と言った章斗の言葉は嘘ではなかったのだろう。
章斗は光山に対してどこかよそよそしく、つんとした態度を崩さないが、そんな態度をとってしまう自分自身に戸惑っている様子もあった。感情をうまくコントロールできていないのだろうか。
昼休みになり、章斗は二年の教室へと行ってしまった。今頃、紘希と仲良く弁当を食べているだろうが、もしや、むくれたままなのだろうか。
「でもさ、俺に対してはふつーだよ?みつやん、やっぱなにかしたんじゃないの?」
小野原の言葉通り、章斗は不自然な態度は光山に対してだけだった。
「全く何も思い当たらん」
本当に心当たりはなかった。昨日、学校を終えて別れるまでは普通に接していて、帰宅後は連絡も取っていない。
章斗とのこれまでの長い付き合いを思い返したが、章斗の様子がおかしくなるとすれば、弟の尚斗関連のことくらいだ。
「尚斗に聞いてみるか」
「あっ、弟君?いいね、聞いてみてよ」
光山は携帯を取り出すと、尚斗の番号を呼び出した。尚斗もきっと休み時間だろう。果たして、三コール目に尚斗が出た。
『はいはーい』
「尚斗、今いいか?」
『なに、珍しいね、みつやん。どうしたの?』
スピーカーフォンにしろとうるさい小野原を無視して、光山は人が少ない教室の隅へと移動した。
「いや、章斗の様子がなんか変なんだよ。昨日何かなかったか?」
『えー?別に昨日も今朝もいつも通りだったけど…』
「なんか俺にだけ当たりが強いというか悪いというか…むすっとして口きこうとしないし…」
『……みつやん、兄ちゃんに何かしたの』
電話口の尚斗の声が低くなった。ぎくり、と光山は動きを止めた。
しまった。章斗と比べたらかなりの軽症ではあるが、尚斗も章斗に対して思い入れが強いのだった。
「何もしてねぇって!心当たりないならいい、わかった、ありがとう!」
慌てて電話を切り、光山は頭を抱えた。
「弟君関連じゃなかった?」
「うわっ」
いつの間にか真後ろに来ていた小野原が光山の顔を覗き込んでくる。
「違うみたいだ……尚斗関連じゃなく、ほかに理由があるとしたら……」
「んー…船橋?」
「聞いてみるか」
といっても、今は章斗は紘希と一緒にいるところだから聞き出すことはできないだろう。章斗がいない隙を狙って、紘希を訪ねるしかないと光山は息を吐いた。
しかし、放課後。
光山が訪ねるより先に、紘希の方が光山のところへやってきた。きょろきょろとあたりを見回し、章斗がいないことを確認しながら光山と小野原に近づいてきた紘希は、どこか困った顔をしていた。
「今日バイトじゃないの?」
小野原が聞くと、紘希は頷いた。
「そうですけど、まだ時間あるんで、ちょっと、聞きたいことあって…」
今日は紘希がバイトの日なので、章斗は早々に家へと帰って行った。そして、章斗がいない隙を狙って紘希はやってきたという。
「香寺さん、今日、様子がおかしかったでしょう?何があったんですか?俺、心当たりなくて…聞いても何も言わないし。今朝、当番があったから学校に一緒これなかったんですけど、そんなの今まで何回かあったし……」
困り顔のままそう尋ねてくる紘希は、今日の昼、章斗が口数少なで紘希の方をあまり見ず、複雑そうな表情をしていたと言う。それは光山に対する態度とほぼ同じだ。
光山は、章斗がおかしな反応をするのが自分一人でなかったことに対する安堵と、頼みの綱の紘希もその理由を知らないのかという落胆を同時に味わった。
光山も同じ反応をされていること、小野原に対しては普通なこと、弟の尚斗に尋ねてもそれらしい理由はわからなかったことを伝えると、紘希は目に見えて困惑した。
これはもう、直接本人から理由を聞き出すしかない。
「二人で何かやらかしたんじゃないのぉ?」
にやにやと笑いながら言う小野原に、紘希が苦虫を噛みつぶしたような顔で頭を下げた。
「小野原さん、聞いてもらえませんか」
紘希はどうも小野原を苦手に思っているようで、頭を下げるのは屈辱だろう。それをわかっていて、「えーどうしよっかなー」と焦らす小野原に、紘希は苛立ち顔だ。
「頼む、小野原。章斗に電話してみてくれよ」
今回は光山も当事者だ。重ねて頼んでみれば、小野原はにやけ顔をひっこめた。
「む、みつやんに頼まれたら仕方ないなぁ…ま、俺も気になるし」
そういって、すぐにスマホを取り出した。どうやら今すぐかけてくれるようだ。
光山と紘希は小野原がスマホを操作するのをじっと見つめて待った。
「……もしもーし、香寺?今まだ帰ってる途中?うん、うん、あ、電車乗る前?」
すぐに章斗は出たようだ。光山は耳を傾けるも、相手の声は聞こえない。
「いや、あのさ、今日なんかみつやんに対しておかしかったじゃん?どうしたのかなぁって心配でさぁ………ん?え?なに、えーぶい?」
えーぶい?えーぶいって、AV?アダルトビデオ?それともオーディオビジュアル?
急に飛び出してきた不相応な単語に、光山は紘希と顔を見合わせた。紘希も顔いっぱいに疑問符を浮かべている。
「は?いや、なくはないけど……うん、まぁ、俺も男の子ですからねぇ。……え、え?ちょ、そんなコアなジャンルがいいわけ?それちょっと趣味じゃないからないわ。うん、団地妻とか、素人ものならあるけど」
話している小野原自身も戸惑いの表情を浮かべているが、どうやら前者――アダルトビデオの話になっているようだ。なぜ。
「え、あ、うん、はーい……」
そして、通話を終えたようで、小野原の耳元からスマホが外された。
光山と紘希は無言のまま小野原を見つめ、言葉を待った。
小野原はいつもの飄々とした様は一切なく、混迷した様子のまま口を開いた。
「えーと………なんでかSMモノのアダルトビデオ持ってたら貸してって言われたんだけど」
「は……?」
その言葉に紘希は固まり、光山は顔を覆って天を仰いだ。
――香寺章斗という人間の頭の中は、全くもって、分からない。
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