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第1話 賞味期限
世の中、「期限」っていうのはどんなものにもあるわけで。
それは生きとし生けるものだけではく、食い物には賞味期限、物には使用可能期限、仕事にも締め切りという期限が設けられている。
人だって例外じゃない。
「あっ……ンっ、そこ、すげっ、あぁっン、も、イく」
「ここ?」
「あ、あぁぁぁっ」
けど、もしも、その賞味期限を無視して食いついたらさ、やっぱその食いついた奴は腹をこわすんだろうか。
「は? なんだこの作業指示書」
緊急整備用の黄色のファイルにそもそも入っていない。中身の指示もこれじゃ全く機能していない。そんな中途半端な作業指示書に自然と眉間に皺が寄る。
誰だ、こんな指示書書いたのは。
そう思って右下の捺印のところを見れば、見事に空欄、真っ白になっていた。本来ならばこの指示書を作った人間のハンコがそこに押されているはず。
「あぁ、それな。今週入った新人が書いたんだ」
「……新人」
声をかけられて、顔を上げればチーフが苦笑いを零しながら、工具を手早く片付けていた。カーディーラーの整備士として新卒からここで働いている俺に一から仕事を教えてくれた人だ。まだ五十台前半、けど、この人に車のことでわからないことなんてきっとないと思えるほど、仕事を熟知している。
「だから、今日の緊急整備は明日だな。朝一でも大丈夫だろ。この傷の修繕だけならな。俺がさっきザッと確認したが特に他に異常はなさそうだったし」
チーフがそういうのなら大丈夫だろと思える人だ。そのチーフが長年煩ってる腰痛にしかめっ面をしながら背中を反らせて、ひとつ溜め息を零した。
作業指示書がなくちゃ仕事ができない。営業が受けた仕事と、実際に作業する整備士との間でのやり取りにとても必要で、重要なものなのに、その作業項目のところにわざわざ記された四角いマスにはレ点が一つも入っていなかった。記入した奴の書き忘れなのか、この項目作業はすっ飛ばしていいのか。
「まぁ、大目に見てやれ。誰でも最初はミスするもんだ。おー、イテテテ」
チーフはそう笑って、オイルの沁み込んだ手で腰を押さえた。
「そんなわけだ。今日の残業はなしになった。お前も上がれ。天見(あまみ)」
「ぁ、お疲れ様です」
「おー、お疲れ」
手をヒラヒラ振りながら、少し身体を引きずるように作業場を後にする。チラッと時間を見たから、きっとこのまま接骨院に寄りたいんだろう。ここのところ残業続きで作業のたびにきつそうにしてたから。
今、六時半すぎ。
俺も久しぶりの定時だし、ブラッとしたい気分だった。
「……ふぅ」
っていうか、単純に、ムラってる。普通に、あれ、欲求不満。それなら抜くなりなんなり、処理すればいいんだろうけど。
「……っつってもな」
そこにちょっとしたジレンマが隠されてたりするわけだ。
作業場を出ると、オイルだ排気ガスだの匂いが一切しない、むしろ爽やかなグリーンミストの香りが漂う通路を突っ切り、スタッフオンリーと書かれた扉を開ける。どうしても取れない黒い沁みの残る使い込んだ濃紺カラーのツナギを脱いで、着替えを済ませ、帽子でぺちゃんこになった髪を手で掻き乱した。中途半端な長さだとどうにもならないダサい髪になるから。チーフみたいに短髪にするか、ある程度の長さにしておくか。
俺は、短髪は嫌だったから、こうなった。
鍵をかけ、店のセキュリティーがオンになったことを電子音声のアナウンスで確認してから自分の車へ向かう。
どうするか。
車を置いて、それから、わざわざ飲みにっつってもな。
そう、そこで、「期限」っていう単語が俺の中で顔を覗かせんだ。
誰にでも、何にでも「限り」というものがある。
そして、その「期限」、俺の場合には、「賞味期限」が一番近いかもしれない、それがせっかくの定時上がりにはしゃごうとするのを邪魔してくる。
「……」
車に乗り込もうとする自分が運転席の窓ガラスに映ってた。
身長は百八十にもう少しで到達するギリギリ。なんでそこまで伸びるかね。車の整備士っていう仕事は頭も必要だが、力仕事もそりゃあるわけで、細腰でなんてやってられるわけがない。米俵みたいにごついチーフでさえ腰痛持ちだ。身体が資本だ。
気が付けば、しっかり普通に成人男性らしい身体つきだ。
昔は細くて、色も白くて、手も、綺麗だったっけ。長い指が色っぽいってよく言われた。
だから、さ……。
つまり、俺の「賞味期限」は終わってる。
ネコとしての、男に抱かれる賞味期限。
ゲイだから。
二十六歳、ついにアラサー側の域に足を踏み入れ、五年間、車の整備士としてやってきたおかげで色気から遠のいた手も、身体もネコとしての期限はすぎてた。
もっとピチピチに若くて、細くて、綺麗な身体をしたネコは山のようにいて、そっちのほうが需要もある。
むしろ、今の俺はタチ側なんだろ。
けど、抱く側の快楽が好きになれない。かといって、ネコとしての俺の需要もなくて。
そんなジレンマに気持ちが萎む。
タチ側に馴染めたらよかったのに。欲しい刺激はそれじゃ得られなくて、ダメなんだ。ムラついたーっつって、ハッテン場で性欲解消することも、バーで男を探すのも、もうしばらくしてない。
寂しいだろ。期限切れのネコが食われるの待ってたって、そんなの、虚しいだけなんだから。それでも、身体の奥のとこで疼く熱をどうにかできないかと。
「うわぁ!」
やっぱり、ウロウロしてた。
「って!」
そしたら、前からウロウロしながら歩いてた男にぶつかった。
「す、すみません!」
今時、ありえない七三分けのそいつは慌てた様子で辺りを見渡しながら眉をひそめて、目を凝らす。
「お怪我はっ」
「……」
「あのっ」
ただの酔っ払いの千鳥足とは違う。何か困った様子で、薄暗い繁華街だけど、目を凝らして見てみれば、濃紺の面白みゼロなリーマンスーツがところどころ汚れている。そして真っ赤な顔で手足をバタつかせたかと思ったら、眉間のところを指で押す仕草を見せた。ほら、よく眼鏡をかけててずり下がってきたのを指で押し上げるのと同じ感じに。
そしてそこに眼鏡がないとまた慌ててる。
「あんた……眼鏡落としたの?」
「はっ! え! あ、はいっ。そう、らしくて」
その指で押さえたって何もない眉間の辺りに傷跡があった。七三分けの、クソ真面目って感じのリーマンにはあまりなさそうな傷の跡だった。ド近眼なんだろう。眼鏡なしで困った様子も、真っ赤な顔も、何もかも、その傷には不似合い。
「この辺?」
「あー……えっと」
「財布は? 取られたりとか」
「あー、その」
「あんた」
「うっ」
呻いた? と、思った時には手遅れだった。気持ち悪いのか? そう尋ねるよりも早く。
「おえぇ……」
その七三がその場で大惨事を引き起こしてくれた。
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