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夏だ、海だ、青……編 9 さ、仕事を頑張ろう。
「はぁ……」
思わず感嘆の溜め息が溢れた。でも、まぁ、なんつうか慌ただしかったから。露天風呂にゆっくり入ってなかったし。
宿着いて、海散歩して、海水の潮でベタベタになったのをここで洗い流して、終わったら、部屋で食事の準備が始まって、飯食って、乾杯して。それから、イチャイチャしたら、もうクッタクタ。
浴衣に、あの下着に。盛り上がりすぎたっつうか。余韻っていうか、気持ちいいのが長引いて、お湯に浸かってゆっくりのんびり、なんてテンションにならなくて。
今、朝の何時だっけ。
とにかくようやくゆっくりできた感じ。
「おはようございます」
「……はよ」
湯船に使ってのんbり足を伸ばしてたら、浴衣をシチサンみたいにビシッと決めた真紀が、部屋から続く扉のとこにいた。
「露天風呂付きの部屋にしてよかったですね」
「あー、確かに」
ここなら人目を気にする必要ゼロ。
どれだけキスマークがあっても。
「真紀も、だろ? 俺、結構しがみついた気がする」
「はい。たくさんしがみついてもらえました」
そこ、嬉しそうにするところか?
けど、きっと背中には俺の引っ掻き傷がついてる。
これじゃ、お互いに、いつ誰が入ってくるかもわからない大浴場は無理だもんなって笑った。太ももの付け根だけだったら、まぁ、タオルを腰に巻けばどうにか誤魔化させそうだけど、首筋と、鎖骨、胸のところは無理だろうし、背中も無理。そんな二人が並んで風呂入ってたら、まぁ、色々視線が痛いだろ。
明日からも大変だ。
ここ最近、「ご無沙汰」だったからキスマークなくて、仕事の時に作業服に着替えるのは楽だったけど。一晩で、一変。明日から着替えるの、気をつけないといけなくなった。かといって、作業服は一日でけっこう汚れるから、着替えないってわけにもいかない。
「それにしても失敗しました」
「?」
「寝坊です」
「まだ朝早いのに?」
「誉さんの寝顔、見損ねましたから」
それで寝坊? って、また笑った。笑った俺の頭のてっぺんに真紀がキスをして。くすぐったくなんてないはずなのに、肩をすくめたくなるくらいにくすぐったい。
「入らねぇの?」
「もちろん、入ります」
そう言って、真紀が一旦部屋へと戻った。
それからでかい窓の向こうで着替えてる。部屋があって、日差しがいっぱいに入り込めるでかい窓と脇に露天風呂に続く扉がある。そこに洗面所とトイレ、それから床敷きになったスペースがあって、着替えるのはそこで、ってことなんだろう。真紀がそこで浴衣を脱いでいるのを眺めてた。
すげ。
背中。
けっこう引っ掻いたな。
その背中を見つめていたら、目が合って、メガネもなし、セットされてない無防備な前髪に、無防備な笑顔を向けられて、胸のところがキュッとときめいた。
ときめく、とか、本当。
そういうの、もうできないと思ってたのに。
「失礼します」
「おー……」
「ふぅ……気持ちいいですね」
「あぁ」
真紀が隣に座り、湯船に肩まで浸かった。
「沁みる?」
「はい」
何、沁みて痛いのに、嬉しそうに笑ってんだって、また肩をすくめた。
「はぁ」
思わずお揃いで溢れる感嘆の溜め息。
「最高ですね」
「確かにな。飯も美味かったし。露天も最高だし」
そう呟いて、朝はまだ清々しさのある空を見上げた。
「それもなんですけど」
真紀が穏やかな低音で応えて、お湯につけていた手をあげ、パタパタと雫をその指先から滴らせて、髪を掻き上げた。一つ一つ、絵になるくらいの、けれど普段はおかしくて、そのシチサンすら愛おしいって思う恋人に見惚れた。
「ふと、こんなふうに自分が海旅行を楽しむことなんて思いもしなかったなぁって」
「……」
「誰かと恋をして、季節を楽しむなんて、できると思ってなかったので」
同じこと、思ってた。
「最高です」
「……」
「ありがとうございます」
「……」
「また明日から頑張れます」
それはこっち、だよ。
「お、れも」
「! 本当ですか?」
「当たり前じゃん」
「嬉しいです」
真紀がいるから頑張れる。どんなに仕事がキツくたって、どんなに忙しくたってさ。帰ったら真紀がいる。起きたら隣で眠っていて、飯を食う時は目の前で同じ飯を美味そうに食べていて、食器を洗えば、受け取って拭いてくれる。おやすみって呟いたら「おやすみなさい」が返ってくる。
だから頑張れる。
「ふふ」
その笑顔に胸がキュンとした。
「また旅行来ましょうね」
「そうだな」
「露天風呂付きの部屋がいいです」
「確かに」
「またあんな誉さん見たいです!」
「あ、あれはっ特別っ。も、次は……」
「えぇ」
そんなに残念そうにしなくたって。
「もう一回見たいです」
そんなにしょんぼりしなくたって。
「うぅ」
そんなに……。
「わ、かったよ」
「! 本当ですかっ?」
「ちょ、そんなにでかい声出すなって、朝だからっ」
「やったー!」
そんなに喜ぶなよ。
「ありがとうございます」
「あんなの」
「また見れるのなら俺、どんな仕事も頑張っちゃいます」
「あ、あんなのっ」
真紀に喜ばれると。
「い、くらでも見せてやるし」
「!」
「ちょ、お前、ここで鼻血出すなよっ? てか、のぼせた?」
「ブフッ」
「いや、だからっ」
なんでもしたくなるだろ? 恋人のさ、嬉しそうな顔ほどハッピーになれるものなんて、ないんだから。
「最高ですっ」
あんなんでいいならいくらでも、見せるよって思っちゃうじゃん。
「今日は、タイヤ交換に車両点検、あー板金の直しもあるのか。しんどいなぁ」
「そうっすね」
主任が腰だけじゃなく肩も痛いらしく、首を傾げて、一日の予定が書かれたホワイトボードに目をやった。とりあえず、今の所予定はこんな感じだけど。日中、急遽対応の整備がきっとまた入ってくるんだろうな。
「ふぅ」
残暑も厳しいし、仕事はたんまり。
「あ、天見」
「? はい」
「お前本社から接客のことで情報共有があったぞ。五分後の朝礼でも言うけど、タイヤ交換」
「あ、はい」
「とても助かったって、お礼のメッセージが本社宛に届いたそうだ。是非とも本人に伝えてくださいって。旅行の最中だった様子なのにわざわざ止まって助けてくれたって」
怪しいやつじゃないって伝えるために名前とか免許証で見せたし、こういう仕事をこういう場所でしてますって説明したから。
「すごいな」
「大したこと、してないですよ」
楽しい旅行だったよ。整備も、好きだし。
「喜んでもらえたんならよかったです」
この仕事はすげぇ好き。手がガサガサになっても、ガタイ、よくなっても、いいよって思えるくらいに好きな仕事。それでもやっぱ疲れるし、しんどい時もあるんだけど。
「さて、俺は車両点検の準備始めます」
でも頑張れる。
「あ、あのぉ、始業早々にすみません」
「お、どうしたぁ?」
シチサンメガネがひょっこりと顔を出した。
「急遽なんですが、診ていただきたいお客様のお車が……」
ほら、やってきた。
「あ、主任、俺診ますよ」
そうなるだろうって思ってたから、大丈夫。
「行ってきまーす」
タイヤ交換だって点検だって、傷修理だって、どんと来い。
「お願いしますっ!」
「おー」
だって、俺には。
「助かりますっ」
「っぷは」
「?」
「なんでお前、鼻先、真っ黒なんだ?」
「! あ、これはさっきそのお客様の車をちょっと拝見した時にっ」
「あははは」
シチサンメガネすら愛おしいって思える恋人が、隣にいるから。
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